第6話 三度目の
綾人が倒れた後の部屋は、静寂に包まれていた。遠くの方で、運動サークルの学生達の賑やかな声が響く。その一言一句全てが聞き取れそうなほどの静寂だ。
その空間に、僅かな歪みが生まれた。変化は、穂村の目には見えていない。しかし、それでも確実にそこに何かがやって来たという現象が起きている。なかったはずのものがそこに在るという、エネルギーの変化を肌で感じた。
そうして、突然この部屋にある声が響いた。気を失った綾人を抱く穂村の周りを、一つの声が包む。それは人の体から発せられているものではなく、また、この教室内で鳴っているわけでもない。ここで鳴っているようでそうでは無いという、不思議な響きをしていた。
『
声は幾重にも重なって響き合い、かろうじてその言葉が聴き分けられるかというくらいに、不明瞭な音像をしている。定位が定らず、あちこちからそれが発せられていた。話している人物がどこにいるのかを、簡単に悟られないようにしてあるのだろう。分かりやすく言えば、子供がトンネルの中で叫んでいるような響き方をしている。
「はい、承知しております。ですから、綾人の残りの時間は、全て私にいただければと」
穂村はその声に応えていく。全く動じないところを見ると、これもまた彼の知るところだったようだ。
『良かろう。必ず宿命を告げるのだぞ。それを知った上での試練だ。己の力を試させよ』
「……御心のままに」
穂村はどこを見るともなく首を垂れた。声が消え、何者かが居なくなったのであろうと分かるような、空間におけるエネルギー変化が起きる。
何も見えなかったはずだが、穂村にはその声が誰のものであったかは分かっている。そうでなければ、こんな状況下では恐ろしくて逃げ出すだろう。
そして、一つだけはっきりした事がある。穂村は綾人の夢のことを以前から知っていて、彼があの夢の子供と同じ人物であることも既に知っているということだ。さらに、彼がただの大学生ではない事もこれではっきりしただろう。普通の大学生は、目から火を吹いたりはしないものだ。
では、彼は何者なのだろうか。それは、これから明かされる事になる。彼はそのことを、綾人に思い出させなければならないのだ。
「目覚めよ」
穂村は綾人の背中にスラスラと指で文字を刻む。揃えられた二本の指は、先端まで繊細に支配されており、そこからゆらりと金色の陽炎のようなものが現れた。背中一面に文字を書き終わった穂村は、最後にその指でくるりと輪を描く。そして、その中心に手のひらを叩きつけた。
綾人の体が、ビクリと跳ねる。
「っ、は……っ!」
止まりかけていた呼吸が戻り、それと同時に目を覚ました。
「大丈夫か?」
穂村が綾人に声をかけると、彼の目が忙しなくくるくると動く。あまりに突然の出来事に状況が理解出来ず、軽いパニック状態にあるようだ。ひとしきり周囲を見渡した後、ようやく自分が穂村に抱かれている事に気がつく。
「……穂村?」
混乱したままの綾人は、目を見開いたままではあるものの、どうにか冷静さを取り戻そうとしている。
武道で精神力を鍛えてあったことが功を奏したのだろう。死ぬかもしれないという恐怖を体感したばかりであるのに冷静でいようと思うということは、実はそう容易な事では無い。この精神力の強さは、桂綾人の武器である。
——俺、生きてる?
しかし、いくら落ち着こうとしても、頭の中はそれなりに忙しく考えを巡らせている。あれほど苦しい思いをしたのに、体には傷一つ残っていない。それが不思議でならなかった。いくら考えても、その答えが出てこないのだ。一対あれは何だったのだろう。
「綾人、まだ思い出さないのか?」
ふと、穂村がそう訊いて来た。左の腕で綾人を抱き抱え、右手で綾人の金色の髪を掬っている。愛おしそうに綾人を見つめている穂村は、やはりいつもの彼とは様子が違っているように思えた。普段の彼よりも、どこか堂々としているように見える。
「見せてくれ」
そういうと、徐に綾人の顎をそっと掴んだ。そのまま彼の方へと顔が向くように、頭を動かされる。そして、何かを確認するようにじっと見つめられた。
「よし、ちゃんと現れたな。ここに五つの印がある」
穂村は当然のようにそう言うが、綾人にはそれが何なのかが全く分からない。何が起きて、何の話をされているのか、一つも見当がつかなかった。
「悪い、何の話をしてるのかさっぱり分かんねえ。俺は何かを忘れてるのか? 何を思い出せばいいんだ? て、いうか、お前……。キ、キスしたよな、俺に。……なんで?」
すると、それまで難しい顔をしていた穂村が、フッと息を吐いた。それがどこか呆れるような顔だったので、綾人はそれを少し腹立たしく思ってしまう。まるで自分はキスぐらいでは動じないとでも言いたそうな感じがして、穂村への想いが燻むような気がした。
「……何で笑うんだよ。悪かったな、キスも慣れてなくて」
そう言ってはたと気がつく。そう、あれは彼にとってのファーストキスだ。いつか相思相愛になった恋人とその全てを経験したいと思って大事にとっておいたのに、再会間もない元同級生にいきなりキスをされて、挙句焼き殺されそうになった。
そう思い返していくと、一体どうしてくれるんだという憤りが、彼の胸の中をぐるぐると回り始めた。
綾人がそうして腹に据えかねた感情を持て余している一方で、穂村はあくまでも冷静なままだった。綾人の言葉を聞きながらも、徐にスマホを取り出す。そして、カメラを起動させ、何の前触れもなく突然綾人の写真を撮った。
そして、その写真を表示させる。それを綾人の目の前へと突き出した。綾人はそこに写っていた自分の顔を見て、驚いた。顔に得体の知れない模様が浮かんでいる。
「なっ、何だこれ!?」
右目にそれをぐるりと取り囲むような、五つの星型の黒子が出来ていた。こんなに目立つものがあったら、これまでに気が付かないわけが無い。間違いなくこれは、今までは無かったものだ。
そうなると、炎に包まれたことが原因で出来たとしか考えられない。ただ、それが何を意味するのか、これが何の印なのかは、いくら考えても彼にはやはり分からないようだ。
「それはお前の罪の残量ゲージみたいなものだ。何度か百人を助けろと言っただろう? そうすればお前の魂に課せられている科をなくすために、罪を滅してやると。本来ならば百人を助けた後に、全ての罪を一度に滅する。数百年の猶予が与えられているから、それで間に合うはずなんだ。だが、もうお前には時間がない。一人助ける度に、都度滅していくしかない。今朝、通学中に具合の悪い人を一人助けただろう? だから今、一つの罪を滅してやった」
穂村は、その話の内容を理解できることが、まるで当たり前のことであるかのようにそう言う。ただ、やはり綾人には何一つ理解出来なかった。
「いや、ちょっと待て。俺にはお前が何を言ってるのか、全然理解出来てないんだ。何でお前は、俺が話をわかって当然って感じで言ってんの? とりあえず、一つずつ確認させてくれ」
綾人は穂村を見上げながら、そう頼んだ。穂村はニコニコしながら、
「ああ、どうぞ」
と頷く。
いくらでも訊いてくれて構わないといった様子を見せたので、綾人はまず最初に確認しなくてはならない、最大の疑問を口にした。
「じゃあ、まず最初に、だ。お前は
それを聞いた穂村は、一瞬気落ちした表情を見せた。どうやら彼が思っているよりも、綾人は知るべきことを知らないらしい。
そして、その表情を見て、綾人は
「ほら、それだよ。穂村はムカついても、そこまで表に出さないはずだ」
そういって首を傾げる。穂村は長く大きなため息を吐いた。
「ああ、そうか。俺が誰だか分かっていないのだな。それなら、俺のことは
穂村はそういうと、綾人の手を優しく握った。そして、それを口元まで持ち上げると、指先に優しく唇を触れる。
「俺は最後までお前のそばにいると、約束をしたんだよ」
そう言って、ふわりと笑った。
綾人はその笑顔を見て、頭の奥深くに何かが明滅し始めた事に気がついた。小さな火が灯るように、ふと記憶の奥に自分の声が聞こえる。
——「
そう呼んだ。その声に応えるように、誰かが振り返る。
——「どうした、ヤト」
「たかひと、さま……? って、お前のこと? じ、じゃあ、ヤトって誰?」
訝しく思いながらも、その名を口にした。すると、心臓が胸の壁を突き破りそうなほどの強さで跳ね始めた。
——なんだ? なんだか……、懐かしい?
その名前を呼ぶと、体にチクチクと電気が流れるような感覚がした。しかし、それを感じているのは、自分自身というよりは自分の中にいる別の誰かのような気がする。それがどういう事なのかは、まだ分からない。ただ、間違いなくそうであると感じた。
「たかひと……たかひとさま……」
記憶を辿るように、綾人は
「そうだ、俺は
そう言いながら、まだ綾人の髪を撫で続ける。綾人は、その手の温かさを感じながら、肌で記憶を探っていた。
次第に、この手の温もりを受け取っていた日々が、頭の中に映像として浮かび上がり始めていた。
『奪うな、与えろ。行いを正すのだ』
そうやって言い聞かせてくれた人がいた。それはもう、気の遠くなるような昔の話だ。その度に改心しようとして、失敗してきた……うっすらと、その記憶が蘇ってくる。
「お前は、今回が最後のチャンスなんだ。罪の数が増えすぎている。だから、今回は早く俺の存在にづいて欲しかった。今度こそ罪を滅して天人になれ、ヤト。修羅の地を抜け出して、早く俺の下に来い」
「じゃ、じゃあ、あの夢の中の子供俺は、本当に俺だったってこと?」
「そうだ。あれが二度目の生だった」
あれは夢では無くて、綾人の前世の記憶なのだと
そして今、前世の罪を無くすために二度目の生まれ変わりを果たしたにもかかわらず、綾人はそれを忘れて生きているのだと言った。痺れを切らした
「じゃあ、俺がこれまで何をやってもなんとなく出来てしまって、人生がつまらないように感じていたのは……」
「本来果たすべき目標を忘れてしまっていたからだな。やるべき事を為さずに良い思いは出来ぬだろう? 人生は魂の修行なのだからな」
「やるべきことを忘れてしまうなんて、それも神との約束を忘れるなんて、罰当たりもいいところだ。だから罰として人生の喜びを奪われていたんだ。お前が悪い」
そう言うと、バツが悪そうにして俯く綾人に、優しく微笑んだ。
「綾人」
綾人が目を凝らしてみると、
綾人の心が解れて大人しくなると、
「お前の罪は残り五十。今世では全てを忘れていたにしろ、お人好しとして生きてきたのが幸いした。残された日数は二百七十日。次の節分までに、この罪を清算するんだ。いいな?」
そう言って、
——あ、これ知ってる。
包まれた腕の中で、懐かしい香りが立ち上った。それは、綾人の記憶の扉を開く鍵となる。この身に漂うには不釣り合いな、高貴な香り。綾人はこの香りを知っていた。何度も出会っては別れた、懐かしくて大好きな香りだ。
——ああ、
香によって引き出された記憶は、苦しい生活にも関わらず、花のように美しい
「俺を……誰も見向きもしなかった俺を、大切にしてくれてた人、ですよね」
その答えに、
「俺、いつも抱きしめてもらった時に、この香が立ち上るのが好きでした。肌が触れる時の……」
綾人はそこまで口にして、ある事に気がついた。記憶の中に、若干の違和感がある。
彼の記憶の中の自分は、子供だ。
それに、記憶の中にはキスより先へ進んでいたのではないかと疑うものも浮かんでくる。それだと少々事情が変わるだろう。
人間が子供へ手を出す時の常套句として、その体に宿る神の力を利用したと言うのなら分かるが、神様自身が自ら人間の子供を選んで手を出したりするのだろうか。その辺りがよく分からない。
「あの、
「お前は俺のお気に入りだ。だから何度も転生させて来た。お前の記憶が完全に戻ったのは、前世のものだけなのだろう。俺たちが口付けもそれ以上もする仲だったのは、それより前の話だ。その記憶だけが中途半端にしか戻ってないのだろうな」
その返しに、綾人の顔が瞬く間に赤く染まった。
「口付けも、それ以上も? ……それ以上?」
「そうだ。別におかしな事ではない。元々は俺たちは婚姻関係にあったのだから」
「こ、婚姻関係? それ、
綾人は慌てた。恋人がいたことも無い自分が、人助けをするたびにキスをされる事が決まってしまっただけでも情緒が乱れて大変だというのに、その相手と過去に結婚していたのだと聞かされたのだ。
結婚していたのなら、夫婦生活というものはあっただろう。そこまでのことをされてしまったとしたら、綾人の心臓は破裂してしまうかも知れない。そう考えると、一刻も早くこの場から立ち去りたかった。
「お前、それを聞いただけでそんな状態なら、最初の人生を知ったらどうなるか……。まあ、そう構えるな。全てを思い出さない限り、俺もお前に口付け以上のことはしない。ほら、そろそろ瀬川たちが来るぞ。留学生に日本語を教えるんだろう?」
「あ、はい。そうです。日本語学校だけじゃ足りない部分を補うボランティアを頼まれています」
「そうだな。それもまた罪を消す材料となる善行だ。頑張れよ。実はな、俺はフランス語が話せるんだ。お前の転生に付き合っていると、学ぶことも多くなる。そういうわけで、俺もここでボランティアをするから、金曜日は必ず一緒にいる事になる。そこで、だ」
「俺は
そう言って、自分の隣をポンポンと叩いた。
「わ、分かりました」
綾人は素直にそれに従うと、
——俺がいてもいい場所……。
瀬川の大きな声が、だんだん近づいてくる。その周囲に、いろんな訛りの英語が飛び交っていた。彼らに日本語を教えることが人助けとなるのなら、頑張ってやっていこうと綾人は決めた。
そして、そのこと自体にも胸が躍っていたが、今はそれよりももっと高揚している。全ての記憶が戻ったわけではないが、
それに、やるべきことがはっきりした。これまでのように、何をやっても砂を噛むような、味気ない人生を歩む必要は無くなるだろう。綾人にとっては、それが何よりも嬉しかった。
——まだよくはわからないけれど、目標が持てた事は嬉しい。
こうして、これまでの綾人の生活にはなかった、明確な目標が生まれた。それによって生まれた生きる喜びは、いつもは鬱陶しくて仕方がない瀬川の声さえ、心地よく響く素晴らしいもののように感じさせてくれていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます