第5話 紅蓮


 あれから五日が過ぎた。今日は、瀬川と約束をした金曜日だ。金曜日のボランティアサークルへ見学に行くため、綾人は最後の講義があったA棟からB棟までの道のりを、あくびを噛み殺しながら歩いていた。


「あー、まだ眠い。あの夢の意味がわかんねーと、どうしようも無いな……」


 瀬川が最後にうちに来て以来、綾人は毎日のようにあの黝の肌の男を夢に見るようになっていた。そして、ずっと百人を救えと迫られている。あまりに毎夜そう迫られているため、夜布団に入る時点でため息が出るようになってしまっていた。


 普通に暮らして来たただの大学生に人を救えと言われても、何をどうしたらいいのかが分からない。分からずに何もしていないからか、段々夢に現れる男は、何も言わずに威圧するだけになっていた。それがまたひどく恐ろしい。おかげでさらに眠れなくなり、今や不眠症のような状態になっていた。


「おお、夕焼けだ。綺麗だな」


 ふと視線を上げて見る。ひっそりと佇む建物の表情は、いつもの厳しさとはやや違っていた。オレンジ色の夕日に紛れるバーガンディーやテラコッタは、その光の中で硬度をやわらげ、溶け出してしまいそうに優しく見えている。


 大学に通い始めたばかりで特にサークルに入っているわけでも無い綾人は、夕方まで構内に残った事が数えるほどしか無い。しかも、これまではずっと曇りか雨の日が多く、初めて見た夕暮れの校舎の美しさに、思わず足を止めて見惚れてしまった。


「オレンジと……あっちはまだ青いんだな。この時間の空は面白いな」


 目の前の燃えるような夕陽とは対照的に、遠くの空は濃藍の縁取りにブルーグレイまでの寒色のグラデーションに彩られていた。近くの暖色の輝きと比べると少し寂しさを感じたりもするけれど、その対比の美しさが楽しめて良い。境界にも色はあるが薄いため、そこだけが味気なく思えたりもする。綾人はその自然の色の混ざり合いを堪能して、目に焼き付けた。


「コーヒーでも買って、完全に日が暮れるまでここにいようかなあ」


 そうやって初めての景色を堪能してゆっくりと歩いていると、瀬川から指定された時間になってしまった。バッグの中のスマホから、アラームの音が鳴り響いている。


「やっばい。遅れるなよって言われてたんだった」

 

 綾人は足早に中庭を通り抜けて、建物の中へと入っていった。


 しんと静まり返った教室が並ぶ廊下を走り抜けると、奥の方にある指定されていた小部屋へと入って行く。


「失礼しまーす」


 軽くノックをして、ガラッとスライドドアを開けた。しかし、まだ誰も来ていないようだ。挨拶が虚しく残響する。


「全員遅刻かよ」


 彼はそう独り言ちながら、窓辺へと吸い寄せられていった。外で楽しんでいた景色を、まだ見ていたくなったのだ。窓際にいれば、待つ間も堪能する事が出来るだろう。ただ、今日は肌寒かったので、昼間に溜まった室内の熱を逃さないように、窓は開けずにガラス越しに外を見ることにした。


 透明な仕切りの向こうに広がる景色に、ぼんやりと目を向ける。室内から見る空の色も、やはり美しかった。すると、遠くの方に手を繋いで歩くカップルが見えた。男子学生が女子学生に向かって一生懸命に話しかけている。微笑みながら頷いている女の子は、笑顔が眩しいくらいに輝いていて、とても楽しそうにしていた。


 それはおそらく、ありふれた光景に違いない。でも綾人にとっては、何にも変え難い宝物のように見えるものだった。綾人がこれまで、どれほど欲しがっても手に入らなかったものが、あの関係性だからだ。


「いいなあ、幸せそう。めちゃめちゃ好きなんだろうな、お互いのこと。うらやましー。俺も付き合いたーい。恋人ほしーい」


 綾人は、中学生くらいから毎日のように誰かに告白されている。しかし、綾人自身がその相手に心を奪われるということは、これまでに一度も無かった。


 だから、思い合う者同士で付き合うということが、どうしても叶わない。叶わないからこそ、それが手に入るのであれば、他のものは何を失ってもいいと思ってしまう。それほど相思相愛のカップルというものに、憧れがあった。


「やっぱりコンパとか行かないとダメかなー。でも長く騒ぐの苦手だしなー」


 言いながら瀬川の顔を思い出す。それでも彼が開くコンパでは、いつも疲れてしまっていくと必ず後悔していた。だからどうしても気乗りがしない。どうしたものかと机に突っ伏し、ため息をついた。


 運動系のサークルの学生たちの声が響いている。その楽しそうな声に耳を澄ませた。みんな楽しそうにしている。


「俺もまた何か始めようかなー」


 そう呟いていると、喧騒の向こうに小さくカラカラとドアが開く音が聞こえた。ふと音のした方を見るけれども、人の姿は何処にも見あたらない。


「……今誰か来ましたー?」


 綾人が電気をつけずにいたからか、誰もいないと思われたようで、扉を開けた人物はどこかへ行ってしまったようだ。ただ、廊下の陰に紛れて猫のしっぽのような長い髪の毛が、ちらりと見える。


「あれ? 穂村?」


 あの青みがかった黒髪は穂村だろうと思い、綾人は声をかけた。すると、猫のしっぽは綾人の呼びかけには答えずに、フッと消えてしまった。そして、いくら待っても誰も入って来ない。


「おーい、聞こえなかったのか? 穂村ー?」


 あの影は穂村の髪だったという確信があった綾人は、入口まで彼を迎えに行こうと思い、席を立った。


 綾人と穂村は、学食でぶつかって以来、またあまり顔を合わせなくなっていた。たまにすれ違って挨拶はするけれど、その程度しか関わりがない。

 高校の時の穂村の事を思い出して以降ゆっくり話せていないため、ボランティアが始まるまで二人で話そうと思い、追いかける事にした。

 驚かしてやろうと、勢いよくドアを開ける。サッシに手をかけたまま覗き込むように外へと顔を出した。


「おーい! 穂村……わっ!」


 そう声をかけながらドアの向こうに半分体を出した。その時、穂村は扉の目の前にいた。誰かに連絡をとっていたようで、スマホに目を向けたまま、今まさにドアに手をかけようとしている所だった。

 思ったよりも近くに彼がいた事で、綾人は自分が思い切り驚く事になってしまった。


 穂村の方は、綾人よりも気づくのが遅くなったようだ。ドアに手をかけようとしていた。それが開かれてしまったためにバランスを崩してしまい、前のめりになって綾人へ向かって倒れ込んで来た。


「わっ……!」


 綾人を避けきれないと思ったのか、両手を伸ばしてそのまま彼を正面から抱き止めた。これではテラスでの一件の再現のようになる。二人は余程ぶつかる運命にあるらしい。


 穂村は、ドアの開口部から教室の中へと綾人を抱きしめたまま倒れ込んだ。受け身が取れない状態だ。そのまま落ちるしかない。ドンっと肉を打つ音が鳴る。近くにあった椅子がいくつか倒れ、それがリノリュウムの床に叩きつけられた音が響いた。


「わあっ! いって……」


 綾人は穂村の体に守られ、床にはどこもぶつけていない。額が穂村の胸に当たった程度で済んでいた。


「おい、穂村! 大丈夫か?」


 大した勢いではなかったものの、暗がりの急な出来事だったため、綾人を庇って倒れた穂村は派手に体を打ちつけていた。綾人が声をかけても返事が無い。陽が落ちてしまった教室では顔が見え辛く、ケガの状態も判断し難かった。


「穂村? おいっ!」


 この教室はサークルで使われる小部屋なので、他のところに比べてかなり狭い。打ちどころが悪かったのか、綾人が何度声をかけても、やはり反応は無かった。


「おい、起きろ!」


 綾人は穂村へできるだけ近づき、顔を覗き込んだ。小さく呻いてはいる。けれど、なかなか意識が戻らない。緩く束ねていた長い髪が解けて乱れ、表情を隠してしまっていて、それが綾人の不安をさらに掻き立てた。その髪を指でそっと掬う。そうして、もう一度声をかけた。


「穂村? 生きてるよな?」


 呼吸を確認しようとして、顔を近づけてみた。ちゃんと息はしている。綾人は少し安心して、ほっと胸を撫で下ろした。そして、彼の肩を軽く叩いていく。


「ん……」


 穂村はようやく薄く目を開けた。長いまつ毛の中に、あの深淵の瞳が見える。その目は、まだ焦点が合わないようで、視点が綾人の周囲をふわふわと彷徨っていた。


 そして、その目をよく見ると、右目だけがいつもよりやや赤くなっていることに気がついた。テラスで会った時よりも、もっと赤みが強いように見える。暗がりであるにも関わらず、艶があって僅かに光を湛えているようにも見えた。


——あれ? この目……。


 それは、瀬川が来た日に見た夢の男の目に似ていた。よく見ると、あの男と同じように、髪の内側にうっすらと明るい部分がある。綾人はそれが気になって、穂村の髪を根本の方から少し多めに掬ってみた。


「明るい髪のある方の目が赤い……やっぱり同じだ」


 髪のどの辺りまでが明るいのかが気になり、何度も手で髪を梳いていく。赤い右目のある方は、頭半分の髪が全て根本部分が金色になっていた。あの夢の光の中で見た男と同じだ。


「あの男は、お前なのか? じゃあ、あの夢は俺とお前の夢なのか?」


 問いかけても答えは返って来ない。


 これは一体どういう事なのだろうか。

 穂村に再会した途端に、夢が先へと進んだように思える。もしそうなのだとしたら、彼は何かを知っているのかもしれない。


——でも、このままだと話すどころか……。


 眠ったままの彼を見つめながら、どうしたものかと綾人はため息をついた。


 そうして悩みながらも手触りの良い髪を手で梳いていると、穂村はそれが気持ちよかったらしく、綾人の指に頬を軽く擦り付けてきた。その姿は、まるで黒猫がゴロゴロと甘えるように愛らしかった。


「ん? なんだよ、猫みたいだな。よしよし」


 手のひらで穂村の頬を撫でながら、さらに肌に近いところまで指で掬う。穂村は心地よさそうに、綾人の方へ首を捻った。

 綾人はそうして黒猫穂村をしばらく堪能していた。大柄の男が自分の手に甘えている姿は、妙に愛らしい。


「にゃーんって感じだな」


 なんとなく楽しくなって来てしまい、勢いで猫のポーズをとってみた。するとタイミング悪く、穂村がパチリと目を開けてしまった。


「え?」


 綾人は確かに目を開けてくれるのを待ってはいた。しかし、それは今では無い。まさかこんな恥ずかしい状態でいるところを見られるなんて……と思っていると、穂村が突然綾人を抱き寄せた。


「わっ! ……なに、なに? なに!」


 不意をつかれた綾人は、そのまま穂村の上にどさりと倒れ込んでしまった。その動きは、自分の反応でも追いつけないほどに速かった。全く動きが予測できず、およそ穂村の行動とは思え無い速さだったのだ。


「穂村? どうした? 大丈夫か?」


 綾人は何が起きているのか分からず、踠きながら体を起こそうとした。

 突然のことでパニックになったのもあった。しかし、それ以上に綾人を見つめる穂村の目を見ていられなかったのだ。


 そこに含まれている色香が濃くて、どうしても直視出来ない。見ていると、体の内側から沸々と熱が迫り上がってくるような感じがした。その熱が、身体中の温度を上げていくのがわかる。それに囚われてしまったら、どうなるか分からない。


 目の前にいる人が、どうしても穂村に見えない。こんな色っぽい目つきは穂村じゃない。そう思ってどうにか逃げようとするけれど、力負けしてしまい、どうしても振り解けないのだ。


——とにかく逃げなきゃ……。


 その一心で、彼から距離を取ろうとした。


「おい! 離せ……」


 綾人はなんとか少しだけ体を起こし、穂村の顔を見た。その時、ちょうど穂村も綾人を見ていた。


「あ……っ!」


 バチっと音が鳴った気がした。それほどに強く、二人の視線がぶつかり合っている。吸い寄せられそうなほどの強い力を秘めた瞳が、じっとこちらを見ていた。何も言わず、一言も喋らずに、ただ綾人を見ている。


——まただ。心がザワザワする。


 気がつくと、夕暮れのオレンジ色だったはずの教室は、ブルーグレーに染まっていた。見つめられていることに耐えきれなくなり、綾人は視線を逸らす。藍色の影の中では、まだ穂村の視線が綾人を捉えていた。


「なんか言えよ」


 そうやって怯んだ一瞬、穂村は体を起こし、再び綾人を抱き寄せた。綾人はまたそれを防げず、そのまま強く抱き竦められてしまう。


「ほむ……」


 綾人が言葉を発するより前に、穂村が口を開いた。


「今日は奪わなかったか?」


 綾人は驚いてビクリと体を跳ねさせた。その声は、あの夢の男と同じものだった。囚人の幼い男児の自分が出てくるあの夢、あの髪の長い男と同じものだった。


「お前、なんでそれ……」


 その悪夢の内容は、誰にも詳しく話したりしたことは無い。それなのに、穂村はあの男が言う言葉をを知っていた。そのことを問い詰めようとして口を開こうとする。それを、穂村の唇に阻止された。


「ン、んんっ!」


 綾人は、必死で穂村から口を離そうとした。青白い顔の穂村のどこにそんな力があるのか、彼が必死に抵抗しても全く歯が立たない。何事もないような顔をして、綾人の口に噛みついたままだ。


——仕方ない、殴るしか……。


 そう思い構えた途端、穂村は綾人の口にフーッと息を吹き込んできた。思いもよらない事に綾人が反応しきれずにいると、突然ゴオッと音を立てて、目の前に真っ赤な炎が現れた。


——なんだこれ。


 それは、穂村の右目から飛び出していた。見たこともない不自然に真っ赤な炎が、穂村の頭上で何かに形を変えていく。火がはぜるようにパチパチとなる音と、目の前で蠢くようにして形作られていったそれは、何かの鳥の姿へと変貌した。

 綾人は驚きに声も出ない。竦んで動けなくなった体を、口を開いた鳥が狙う。


「むぐ、う、んん!」


 パニックになった綾人は、拳を握り穂村の胸を思い切り強く殴った。それでも穂村は動じない。逃げる事が出来ないまま、その鳥は綾人を丸ごと飲み込んでしまった。


「ん、んぐぐ、んー!」


 燃え盛る炎は、次第に二人の全身を包んでいった。

 炎の色は、深く濃く、絶望感すら漂うような赤だ。紅蓮と言う言葉が似合う、攻撃的な赤い色。それに飲み込まれてからは、灼熱が下から湧き上がる泉のような勢いで襲ってくる。


 肌の表面が、チリチリと音を立てていた。その上を、鋭くて小さな痛みが次々と走る。それはだんだんと強くなり、痛みと熱と寒気が背を這い、戦慄となって綾人の体と心を駆け抜けていった。

 

——やばいやばいやばい! 死ぬ……。死ぬ、死ぬ、死ぬ! このままじゃ……!


 恐怖に刺激され、涙が溢れ始めた。溢れては蒸発していき、彼らの周りは炎の赤と真っ白な水蒸気で包まれていく。背中に走る寒気が強くなる。身体中がガタガタと震え、視界が霞み始めた。腹の底から湧き上がる猛烈な感情に耐えかね、綾人は咆哮するように叫び声を上げた。


「ぐああああああああああああ!」


 それが高まり切った後、何かに強く弾かれるような衝撃が身を包んだ。

 それと同時に火は消えた。緊張から急に解放された綾人は、ガックリと力をなくした。そのまま穂村の腕の中へと頽れて行く。

 穂村はそれを、何事もなかったようにふわりと片腕で支えている。まるで今起こった事が当然であるかのように、少しも動じていなかった。

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