fragile 1
スラックスのポケットに手を突っ込んで、寒さからやや猫背気味になりながら階段を上がる。昨夜から降り続く霧雨のせいで、室内にいてもどこか視界が白く霞んで見える。
果たして階段を上がりきったその場所には、慶介がいた。屋上へ繋がる扉の手前で、折った膝に顔を埋めている。
「こんなとこ座って、寒くねえのかよ」
返事はなかった。
まさかこんな場所で眠っているのではと疑ったが、よく見れば慶介の両耳にはイヤホンがはめられている。
「なに聴いてんだ?」
どかっと隣に腰を下ろし、慶介の片耳からイヤホンを引っこ抜いて、それを自分の耳にはめた。聞き覚えのあるギターの旋律と、物悲しい雰囲気の男のボーカル。すぐに、俺が前に勧めたRadioheadのアルバムを聴いているのだとわかった。
「……やべ、寝てた……」
慶介がのっそりと顔を上げた。
頬についた短い赤い糸のような寝跡を見て、ほんとに寝てたのか……と呆れを通り越して感心する。
「さみーだろここ。こんな天気じゃ外にも出れねえし」
鉄の扉の向こう側から、雨音が届いてくるようだった。吐く息も白い。だけど慶介は軽く笑い、大丈夫、腹巻きしてっから、と答える。腹巻きて。
「ジジイかよ」
「腹巻きすげえあったかいよ。しかもカイロまで貼ってるもんね。最強」
「カイロくれよ」
「怜ちゃんは?」
「呼べよ、ケータイ知ってんだろ」
「俺じゃ来てくれないよ」
やけに哀愁めいた声で、慶介が言う。横顔がなんだか妙に儚げだった。寝起きのせいかもしれないと思う一方で、もともとそうだったかもしれない、とも思う。
この白い横顔には見慣れているはずなのに、こうやってふとしたときに俺の心臓をつかんでくる。微かな雨音の中、陰り、冷え切ったこんな場所にいると、慶介の顔は一層白く見えるのだ。より、現実味を欠いて見える。
しばらくお互い黙って音楽に耳を傾けていた。予鈴の鐘の音が聞こえると、慶介はプレイヤーを操作して、音楽を切った。
「次、なんだっけ」
「数学。なんだ、出んのか? さぼんのかと思った」
「俺は優等生だからね。優くんと違って」
「よく言うわ」
屋上の鍵パクってコピるようなやつが。
だいたい授業なんか、もう出ても出なくてもいいような中弛みの空気が漂っている。なにせあと数日で、三学年は自由登校になるのだ。卒業までの間、冬休みの延長のような期間。
進学校とは決して言えないこの学校で、死にものぐるいで難関大学を受験する生徒はごくまれだ。頭に超がつく難関大学の受験を控えている慶介はその中に含まれるわけだが、しかし本人にはまったくそんな様子が見られない(たしかこないだ共通試験を終えただとか言っていたような気がするが)。
とにかく、まだ進路が決まっていないやつらには悪いが、早々に就職の道を選んだ俺にとっては、ほんとうにあとは無事に卒業を待つだけなのだから中弛みもする。
「卒業か……」
白い息とともに口から出たワード。実感だけがうまく伴わないのは、拍子抜けするほどにあっさり進路が決まったためか、それとも、鼻歌交じりに階段を下りていく細い背中のせいか。
受験、自由登校、卒業。高校生活がいよいよ終わりの色を帯びている。わかりやすく焦ったり、中弛みしていたりする中で、慶介だけが“いつも通り”に見える。
慶介は、と思う。
慶介は、きっと大丈夫だろう。受験はうまくいくだろう。へらへらしてるけど、その実人一倍要領のいいやつだ。体育の成績だけはどうあがいてもいまいちらしいが、それ以外はオール5を取るようなやつだ。
だから、まるで何事もなかったように、慶介ならきっとうまくいく。
それで、そうして、
「……?」
何事もなかったように、俺たちは別れるのだろうか。
「おい、」
視界の先の細い体が、ゆらりとゆれた。
「──慶介!」
おかしい、こんなはずじゃなかったのに。
(どうしてこうなった……?)
ギターを弾いていた。
昨日までお互い口も利いたことがなかった、クラスメイトというだけが接点のやつの家で。わざわざ一度帰宅してまで自分の家から持参してきたギターを、だ。わけがわからな過ぎて、いっそ笑えてくる。
「おー、すげえ。かっこいい」
パチパチと手を打ち鳴らしながら、そいつが言う。
「上手だね! 俺音楽詳しくないんだけど、感動した」
「そりゃよかった」
「松下くんは将来はミュージシャンになんの?」
「まさか。ならねえし、なれねえよ。こんぐらいちょっと練習すりゃ小学生だって弾けるわ。それにどっちかって言うと、弄るほうがすきだしな。修理とか」
「ふうん」
ダイニングチェアにまたぐように座り、背もたれに組んだ腕をのせて、にこにこしながらソファに腰掛けている俺を見下ろしてくる。チェシャ猫のような男だ、と思った。
来栖慶介はクラスメイトだ。この日、はじめて口を利いた。便所で。そのあとなんだかんだ誘われるかたちで、来栖の自宅に招かれた。道中、ついうっかりギターが趣味だと言ったら聴かせろ聴かせろとうるさいので、こうなった。
「いいね、趣味があって」
ギターを片付ける様子をほんの少し高い場所から眺めながら、なだらかなトーンの声が言う。
「来栖はないんか、趣味」
「なんもねえな。強いて言えば、弟と遊ぶことかな。あと、慶介でいいよ、優くん」
「優くんってやめろ」
友だちみたいじゃねえか、と一人で気恥ずかしくなっていたら、目の前に手が差し出された。
「なってよ、友だち。俺友だちいないんだ」
嘘つけ、と思いながらも、その手を握っていた。
来栖の冷えた細い手はなんだか冬の空気でも掴んだようで、実感がなかった。
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