Dolce
六月、梅雨の晴れ間の午後。
渡り廊下に設置されている自販機で、スポーツドリンクを買った。それを片手に揺らしつつ、もう片方の手でケータイを弄る。
【読心術とは、顔の表情やからだの筋肉の動きから、直感的に相手の心の中を読みとる術】
自ら辞書を引くなんて高校受験のとき以来だ、と鼻で笑う。
画面上の文字の羅列は、ずいぶんとあっさりしたものだった。たった二行足らずの説明文。もっと小難しいことがつらつらと書いてあるのだと思った。指を動かすが、辞書以外だと胡散臭そうな記事もまあまあ出てくる。
ケータイをオフにし、スラックスのポケットに仕舞った。
北棟校舎三階の男子トイレは、唯一の小窓から陽の光が射し込んでいた。
今日も今日とて人気がない。まるで新築のまま刻が止まってしまったかのような、乾いた床を進んでいく。
一番奥の個室の扉が閉まっていた。その前に立ち、使用中の赤い表示に目を落とす。妙に静かだが、気配はある。
コン、と一度扉をノックする。
「──慶介」
死んだか、と冗談で訊ねてみたが、有り得なくもない気がしてさっと胸が冷えた。
「おい、便所で死ぬとか笑えねえぞ馬鹿」
「……生きてるよ」
苦笑混じりの応答が聞こえ、すぐに個室の扉が開いた。
生きていると答えた本人の顔色は、明らかに生気が足りていない。
あからさまに顔を顰める俺を横目に、慶介はただ小さく笑う。その顔色で不思議に思えるほどしっかりとした足取りで、流し台へと向かった。一種の作業のように機械的に手を洗い、咥内をゆすぐ細い背中を黙って見ていた。
「……甘いもん、食いてえ……」
すべての作業を終えた慶介は、流し台に両手をついて、深い深いため息のような言葉を吐いた。
慶介には嘔吐癖がある。
はじめて話した先月も、慶介はここで一人吐き出していた。
理由は聞いていない。というより、思い当たる理由なんて一つしかない。慶介が、笑顔で俺に話したあの子どもの戯言のような言葉。
──俺ね、読心術が使えるんだ。
吐くぐらいなら使うな、と言いたい。
ひどく違和感があった。ここへ来る前に調べた、二行足らずの説明文が脳裏をよぎる。
あのときの慶介も俺に「使える」と口にしたけれど、こんな有様を目の当たりにしたら、到底そういうレベルの話には思えなかった。
そもそも「使う」「使わない」ではないのではないか。「視える」とか「聴こえる」とか、そういう感覚的なものなのではないのか?
いや、だけど──。
そうなると、いよいよ目の前の友人の存在が人間から離れていってしまう。
「……そうだよ」
ふっと、小さく笑う。
「すごいな優くん……。名推理だ」
やや掠れた声で、俺に背を向けたまま慶介が自嘲気味に答えた。
流し台に両手をついて項垂れているから、鏡にすら表情がうつらない。これではまるで、罪を犯した推理ドラマの犯人役だ。
ちっとも笑えねえんだよ、馬鹿。
「──慶介、」
半透明の水がゆれた。
慶介がゆっくりこちらを振り向く。俺が差し出したスポーツドリンクに目を落とし、眉を下げて微笑む。
「……優くん、知ってる?」
ペットボトルを受け取る色のない手は、やっぱり現実感が欠けている。ふれたらちゃんとそこに在るのか──なんて、つい余計なことを考えてしまう。
「このスポーツドリンクに含まれる角砂糖が、何個分かって」
「……知らない」
「約九個」
蓋を捻り、そのまま呷る。喉が鳴る音がちゃんと届いてくる。
それは本人の、生きてるよ、という言葉より、よほど生きている音だった。
「甘い……」
ペットボトルから口を離し、吐き出すように慶介が言った。
引用:デジタル大辞泉
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