第1章:陽向視点:凡庸な日常の確立と静かな愛
1.数週間前までの日常
薄汚れたアパートの二階の一室。窓ガラスは、この街の澱んだ空気をそのまま映し、常に曇りがちだった。光は、その曇ったガラスを通して、灰色に漉され、床に張り付いているように見えた。部屋を満たすのは、使い古された油絵具とテレピン油、そして湿気を含んだ古い紙のような、鈍い匂い。その匂いこそが、俺にとっての絶対的な平穏だった。
俺は、画材箱に埋もれた古いクッションに身体を沈め、千草の背中を眺めていた。彼女は、部屋の隅にあるイーゼルに向かい、黙々と筆を動かしている。
千草の描く絵は、いつも同じだった。誰も見向きもしない街角の雑草、雨上がりの路地裏、窓辺に差し込む疲れた午後の光。その色彩は鮮やかさとは無縁で、俺の目には、まるで彼女の内側の孤独をそのまま写し取ったように見えた。世間が評価する「才能」の熱狂や、「時代を捉える鋭さ」など、微塵も含まれていなかった。千草の絵は、あまりに凡庸だった。
俺は、壁に立てかけられた、幾枚ものキャンバスを静かに見つめる。俺は知っていた。この絵たちが誰にも評価されなくとも、千草の筆には、彼女自身の『魂の光』がごく微かに宿っていることを。
「この絵、やっぱりすごくいいよ。」と、俺は、一呼吸置き、言葉を選びながらできる限り穏やかな声で言った。
千草は、俺の言葉に反応しなかった。彼女の口元が、わずかに歪む。そして、キャンバスから顔を上げ、俺の瞳を見つめた。
その日もまた、いつもの沈黙の後に訪れる、決まりきった儀式のように、千草は筆を置いた。
彼女は、絵の具で汚れた指先を、寂しげに見つめた。
「湊には分からないよ。こんなに時間をかけて、魂を削って描いても……」
千草は、俺の目を見ず、キャンバスの隅に視線を落とした。
「この絵には、何もない。私と同じで、誰にも必要とされていないんだから」
俺は、その言葉が今日初めてではないことを知っていた。彼女の才能を信じきれない孤独と、自己否定の癖は、彼女の日常の一部だからだ。
俺は、千草の瞳の奥にある絶望の影を見た。俺の心臓は、静かに、しかし強く締め付けられた。このままでは、彼女は孤独に負けてしまう。そのたびに、俺は千草をこの世界に繋ぎとめる「最後の綱」を渡してきた。
「そ、そんなことない。俺は、千草の絵、好きだよ。見ていると、安心するんだ。千草の『魂の光』が感じられるようで。」
陽向の言葉は、まるで古い毛布のように、千草の冷えた心を包み込んだ。彼女は再び筆を握ったが、その表情には、救われた安堵と、理解されない孤独の狭間で揺れる、複雑な陰影があった。俺は知っていた。このやり取りこそが、二人の、静かで切ない愛の形なのだと。
それは、千草が世界から隔絶された場所で、それでも「描くこと」を諦めていない、静かな抵抗の証明だった。俺にとって、千草の絵は鑑賞の対象ではなく、彼女という存在そのものだった。
(凡庸でいい。千草が、ここにいてくれるなら)
俺は、心の奥底でそう呟いた。
陽向の無償の愛は、批評でも共感でもなく、ただ千草の「存在の肯定」という、純粋で無垢な光だった。
2. 陽向の眼差しと、孤独の表明
キッチンから立ち上るインスタントコーヒーの、苦い湯気が鼻をくすぐる。俺はマグカップを二つ手に取り、一つを千草の横に置いた。
「千草、そろそろ休憩しよう」
コーヒーの温もりが、冷え切ったアトリエの空気に、わずかな生命感を呼び戻す。
「うん…ありがとう」
千草は、イーゼルに向かうときは、普段の活発さが嘘のように、世界から切り離されたように静かだ。
千草は筆を置かず、かすかに息を吐いた。その諦念に似たため息が、俺の胸の奥に鈍い痛みを響かせた。
俺は、黙って千草の描いているキャンバスを覗き込んだ。描かれているのは、濡れたアスファルトに反射する、ぼんやりとしたネオンの光。
「ねぇ湊……。課題の提出まで、もう時間がないのに。描きたいものが、何にも見えない……。」
千草の声は、不安と焦燥に震えていた。彼女の視線は、窓の外の灰色の空に向けられている。その横顔には、才能への諦めと、それでも描かずにはいられない衝動の、相反する二つの感情が混ざり合っていた。
「このままじゃ、また、凡庸な、誰にも響かない絵しか描けない。駄目よ、私……」
千草は、俺の制止を待たず、アトリエの隅に立てかけてあった、褪せた紺色の折り畳み傘を掴むと、薄いニット一枚のまま、ドアノブに手をかけた。
「え、外…雨、まだ降ってるよ、千草」
俺は、マグカップを床に置き、慌てて立ち上がった。千草の行動は、いつも予測不可能だ。彼女の創作意欲は、時に常識や体の休息よりも優先される。
「すぐ戻るから。湊は、ここにいて」
ドアは、俺の返事を待たずに、鈍い音を立てて閉まった。
3. 屋上へ続く、風の匂いと追跡
俺は、マグカップから立ち上る苦い湯気を見つめた。雨の匂いが、閉まったドアの隙間から冷たく流れ込んできている。千草をあのまま外に出すのは、漠然とした不安があった。彼女の切実すぎる衝動が、いつか彼女自身を傷つけるのではないかという、恐れに似た感情だ。
俺は、千草がいつも着ている少し厚手のカーディガンを手に取り、それから自分のコートを掴んだ。
(もう…風邪ひくだろ、千草……)
外は、鉛色の空が低く垂れ込め、街全体が冷たい湿気に包まれている。
千草の傘の音と足音は、既に階段を上り、屋上への鉄扉の向こうに消えた後だった。古い木造の建物に、微かな反響を残すだけだ。
俺が鉄扉を開けると、一気に冷たい風が吹き込んできた。濃い雨の匂いが、鼻腔を強く打った。それは、鉛色の空が低く垂れ込め、街全体が冷たい湿気に包まれている。
4. 「屋上の聖域」の誕生:五感の覚醒
俺は、数歩手前で足を止めた。千草を驚かせたくなかった。彼女の集中を乱すことは、孤独の淵にいる千草にとって、苦痛となることを知っていたからだ。
千草は、屋上の冷たいコンクリートの壁に寄りかかるように立っていた。彼女の視線は、夕焼けに照らされた遠くの景色に釘付けになっている。夜が近づき、街灯が点灯し始めたことで、彼女の周囲の色彩が、闇の中で際立ち始めていた。
俺の場所からでも、冷たい風の匂いが、千草の周囲の澱んだ空気に鋭い輪郭を与えているのを感じた。千草は、まるで飢えた獣のように、屋上から見える色彩の影を眼球で貪っているように見えた。
「……ここだ」
千草が、囁くような声で呟いた。
それは、閃きの音でも、歓喜の音でもない。極度の焦燥と孤独に耐えかねた魂が、「描くための足場」を見つけた瞬間の、安堵と、切実な痛みを伴う溜息のように見えた。
この屋上は、外界の騒音を遮断し、冷たい風の感触と都市の遠景だけが増幅される、異質な空間なのだ。
この場所に来ると、千草の五感は、まるで針金のように研ぎ澄まされる。風の冷たい感触、コンクリートの質感、街の微細な光の動き、そして、夕闇に濡れることで生まれる無限の色彩の影。
彼女にとって、こここそが、「描きたい衝動」が湧き出す泉だった。
千草が、囁くような声で呟いた。それは、創作の衝動が満たされ、内なる声が静まった合図だった。彼女は、深く、長い息を一つ吐き出すと、緊張の糸が切れたように、わずかに肩の力を抜いた。
俺は、この瞬間を待っていた。
「千草……。風邪ひくから、これ、羽織ってくれ。」
陽向の言葉は、風音に溶けるように静かだったが、その声に愛の切実さが滲んでいた。
千草は、ハッと顔を上げ、意識を現実に引き戻されたように、ゆっくりと俺を見た。彼女の瞳は、まだ色彩の残像を映しているようで、焦点が定まっていなかったが、すぐに陽向の姿を捉えた。
「湊……。追いかけてきてくれたんだ。」
千草は、俺が差し出すカーディガンを見つめた。それは、陽向がアトリエから急いで持ってきた、彼女の日常の温もりを象徴する一枚だ。
俺は、千草の創造的な没入を尊重し、距離を保ったまま、静かにカーディガンを差し出した。彼女は、衝動によって肉体の寒さを忘れていたが、カーディガンの温もりに触れた瞬間、凍てついていた体と心が、凡庸な日常に引き戻されるのを感じた。
「……ありがとう、湊。」
その掠れた声には、衝動を妨げられた苛立ちではなく、絆に救われた安堵が混ざっていた。千草は、カーディガンを肩にかけ直すと、再び屋上から見える遠景に視線を戻した。
俺は、千草が無防備にその空間に身を委ねている姿を見て、強い安堵を覚えた。彼女が一人で、孤独に苦しんでいるのではない。この屋上で、絵と向き合い、魂を解放している。
この日から、この冷たい風が吹き抜ける屋上は、千草の創作意欲の源であり、俺が彼女の孤独を見守るための、「二人の秘密の場所」となった。
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