夜明けの残光と呪われた筆

碧美

プロローグ:煤けた筆と屋上の光

【第一幕:凡庸の終わりと呪いの兆し】





午後5時を少し過ぎた頃。

陽向 湊(ひなた みなと)は、いつものようにアパートの屋上にいた。そこは、街の凡庸な日常から切り離された、二人だけの聖域だった。



手に持ったアパートの修繕リストを眺めながらも、俺の意識は、屋上への階段の鉄扉に集中している。やがて、明るい茶色の髪に挿した鮮やかな玉簪がきらめくのが見えた。千草 翠(ちぐさ すい)だ。



千草は小柄な身体に似合わず、活発な足取りだった。大学の喧騒から解放されたその足音は、陽向の胸に安堵を連れてくる。彼はすぐにリストをポケットにしまい、彼女を待つ。



「湊、お待たせ!」



千草は、他の友人たちと交わすときと同じ、底抜けに明るいトーンで話しかけた。



彼女は、絵を描くときのあの静かな集中から解き放たれ、太陽の光を吸い込んだような、まっすぐな笑顔だ。



夕焼けがビルのガラスを黄金色に染め上げる日差しはまだ強いが、空の色は深く、透明度を増した藍色の向こうに、高く細いうろこ雲が流れる。道端の草花に、夏の終わりを示す茶色い縁が目立ち始める。



千草はスケッチブックを開き、遠くのビルに反射する夕日の色を捉えようと筆を動かしていた。



「ねぇ、湊。あの遠くのビルに反射してる夕日、今日だけ色が違わない?」



彼女は俺にしか聞こえないような、秘密めいた声で囁いた。その声には、誰にも気づかれない世界の秘密を、二人だけで見つけた喜びが満ちている。



「えっ…色?」



俺には、ただガラスに反射した眩しい光しか見えない。だけど、千草の瞳を通すと、その残像が本当に金色やピンクの微細なモザイクを帯びて見える気がした。彼女の好奇心は、いつも俺が立つ現実の地面を、そっと持ち上げてしまう。



千草は、スケッチブックをそっと閉じ、真剣な眼差しで陽向を見つめた。



「ねぇ、湊。私、いつか、世界一の絵を描く画家になりたいんだ」



その言葉は、まるで透明な刃のように、陽向の鼓膜を静かに貫いた。千草はいつも、自分の絵について「凡庸だ」「才能がない」と自己否定を繰り返していた。この途方もなく巨大な夢を、彼女が口にしたのは、陽向に対してだけだった。



「世界一か……」



陽向は、いつものように凡庸な肯定の言葉を返そうとしたが、世界一と言う重みが、千草が急に遠くに行ってしまうような感覚に襲われて、思うように言葉が続かなかった。



「私の言う『世界一』は、誰も見たことのない究極の色彩を、私の命を懸けてでも見つけること。それが私の生きた証になれれば…」



その言葉に含まれた「命を懸けてでも」という切実さに、陽向の胸は静かにざわついた。しかし、彼はそれを、才能への渇望が引き起こす、詩的な表現だと解釈した。


その時、屋上を吹き抜ける一陣の冷たい風が、スケッチブックのページをめくり、千草の明るい茶色の髪を乱暴に巻き上げた。



「わっ!」と顔を覆うかと思いきや、千草は楽しそうに目を細めた。筆についた絵の具が風に煽られ、紙に一筋の思わぬ線を描いた。



「今日の風、最高! 湊、この風、きっと乾燥の乾きが良くなる風だよ!この線も、この光景の一部だね!」



彼女は風に揺れる髪を気にせず、むしろその冷たさを歓迎するように笑い飛ばした。その天真爛漫な様子と、絵を描くことへの前向きな姿勢に、俺の心も一気に温かくなる。



その弾けるような無邪気さは、さっきまでスケッチブックの中で世界を覗き込んでいた孤高の芸術家の顔とはまるで別人だ。この極端な対比こそが、千草の魅力であり、俺が焦がれてやまない光だ。



俺は、ただその光景をぼんやりと見つめた。彼女が、アトリエでの緊張から解放され、心底「楽しい」と感じている瞬間。その安堵と喜びが、俺にとっては最高の至福の時間だった。


「湊、これ見て。今日、新しい筆を使い始めたんだけど、私の絵を見て、初めて、先生に褒められちゃった。」



少し誇らしげに、でもどこか控えめに微笑む彼女の姿に、俺の心は温かくなる。



俺は、彼女のスケッチブックを覗き込んだ。描かれているのは、近くの歩道脇に咲く、名もなき雑草だ。しかし、その緑は、陽向が知る凡庸な世界の色ではない。生命力が溢れ出し、キャンバスから香り立つような、鮮やかな色彩だった。



「ち、千草は、すごいな!今日の絵、瑞々しさが全然違う。なんだか、空気まで描けてるみたいだ。」



俺は、心から感動した。千草の才能を誰よりも純粋に信じる心からの感想だった。



千草は弾むような鼻歌を歌いながら、俺の腕に自分の頬を寄せた。その熱は、俺の知る愛おしい温もりだが、どこか高揚しすぎているようにも感じられた。



俺は、千草の熱狂的な喜びに、ただ嬉しくなった。彼女の才能が花開くかもしれないという希望の光が、俺の胸を満たした。



「でしょう!?この筆のおかげなんだ!」



彼女が見せたのは、煤けて柄が擦り切れた一本の筆。使い古されすぎて、毛先は少し不揃いだが、異様な光沢を放っている。



千草はふと筆立てから一本の油絵筆を取り出し、少し煤けて固まった穂先を、愛おしそうに撫でた。



「美大のアート巡りの時に、古い画材屋さんを見つけて。そこのお店のおじいちゃんが『大昔の、伝説の絵師が使っていた筆に似てる』って言ってたんだ。もちろん、真偽は分からないけどね。」



千草は、その筆を宝物のように、そして幸運のお守りのように握りしめている。



「そう、その時、幼い頃によく2人で行っていた駄菓子屋さんに似てる店があって、懐かしい気持ちになったんだよね。湊覚えてる?」



「もちろん、覚えてるよ。懐かしいな。まだあの店あるのかな……」



千草が無邪気に口ずさむ鼻歌に、ごく稀に混ざる、耳障りな不協和音のようなノイズだった。そのノイズは、歓びに満ちた音色には不釣り合いで、陽向の聴覚の隅を、微かに刺激した。



喜びの影の、ごくごく微細な場所で、陽向の直感がかすかな警鐘を鳴らした。



(しかし、筆のおかげで、千草がこんなに笑ってくれるなら……。それが、一番だ。)



千草の純粋な笑顔の前では、その違和感はすぐに消え去り、陽向はこの瞬間の幸福な予感を、信じることにした。

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