あなたの平穏のために
椎名アマネ
第1話 最後の光景
校舎からは火の手が上がっていた。熱気によって膨張した空気が内側から窓ガラスを吹き飛ばして、窓からは轟轟と燃える炎が吹き出している。ドス黒い煙が夜空を焼いていた。
「もしも――」と、燃え盛る炎を遠くに眺めながら、小さな影が俺へと告げる。
燃え盛る炎に紅く照らされたイヌガミ・ナユタの横顔は、頭も視界もボヤケた俺の脳には悪魔のように映った。
「――世界には、ボクのような、こんな悪事を平気で行う、こんなにも悪人で、邪悪で、救いがたい人間がいる。それってさ……明白に君が善人であることの証明にならないかな。
僕という下の下の存在が居ることで、世界における君という人間の価値が一つでも上がるのなら……。
ボクには、それが何よりも嬉しいことだって思えるんだ」
ナユタの声色は明るく、暗闇の中で、俺には彼が笑みを浮かべている姿が容易にイメージできた。
「……お前……? お前がやったのか? これ……」
燃え盛る校舎にナユタは笑みを浮かべる。
それが、俺の質問の回答だった。
回らない頭、何一つわかりもしなければ、現状を信じられないでいる俺は馬鹿のように尋ねる。
何から尋ねればいいのか? それすらも分からない。
「だから……ボクは世界の中の君の価値を微かでも上げたかった。君は善人だよ。そのことを僕は一度も疑ったことがない。
僕は君に、時に君自身が言うような……救われる価値も無い人間だなんて思ってほしくなかったんだ。
この場所が君を傷付けるなら、不安にさせるなら、君から笑顔を奪うなら、君に君自身のことを嫌わせるのなら……そんな場所は消えてしまえばいい。
ボクはただ、そう思ったんだ。
君の声なき悲鳴に、嗚咽に、涙に、見向きもせず通り過ぎることを選んだ人たちなら、そんな人達に生きていて欲しいなんて……ボクには到底思えない。
……まったく、世の中は君の言うとおりクソッタレばかりだよ。本当に、君と真逆なんだから……」
「俺のため……?」
轟々と炎が燃える。熱波がこの場所にまで押し寄せている。
校舎から逃げられた人間はどれぐらいいるだろう。だが、ナユタの口調からは……その自信に満ちた声からは、そんな幸運に恵まれた人間がいるようには思えなかった。
ナユタは、きっとやりきった。その目標を完遂したに違いない。
「なぁ、信じてくれよ。君は……本当に、悪いヤツなんかじゃないんだからさ」
ナユタの声は心の底から笑っていた。
「心から思うんだ。
君がボクなんかの友達であることが、ボクのこのクソくだらない人生でどれだけの幸運だったかって!
多くの人は君に見向きもしない。気にも止めずに通り過ぎるだけ……でも、君はボクが同じ状態にあった時、立ち止まってくれたんだから! 君が! 君だけが……!」
多分、頭のどこかは、俺もナユタも壊れている。頭のどこかに不都合があるから、きっと心もまともに機能していないのだろう。
その証拠に、自分の心は、こんなことをしでかしたナユタに対して嫌悪感を抱こうとしてくれない。
「なぁ……ナユ?」
俺がそれでもこの状況に戸惑うのは、傷付いたフリをするのは……そう振る舞うよう社会から教えられ、刷り込まれたからに過ぎない。
ナユタの目は炎を反射して、燃えるような色をしていた。それなのに、彼の瞳に浮かべる感情はひどく冷めているように見えた。
「これから、どうするんだ?」
俺が問いかけると彼は俯き、瞳を閉じると首を大きく左右に振る。
ナユタのセミロングの髪が無造作に揺れた。
全世界共通で「いいえ」や「分からない」「知らないよ」を意味するジェスチャー。
「大丈夫だよ。君は何もやっていない。これは100%ボクの犯行。君は……無関係の君が罪に問われることは……きっと無い」
違うんだ。俺が聞いているのはそういうことじゃない。
「ナユ? お前はどうなる?」
「大丈夫だよ。こう見えて……っていうか、見たとおりさ。
今のボクって、こういうことが平気でできる程度に良心を失ったし、人類から見れば忌々しいことに、それを可能とする能力を持った生物なんだよね。
しばらく君と顔を合わさなかった間に……ボクは人の道を外れてしまった。
……それに、多分、今のボクってそうそう簡単には死なないし、殺せないんだよ。だから、安心してほしい」
悪鬼のように笑って見せるナユタの姿。
俺はその姿を。
夢でも見ているかのように。
「君には生きてほしい。
これがきっとボクの……最初で最後の、君に返すことのできる、本当にちっぽけな感謝なんだ」
頭の中を、普段から常用している過剰摂取したトランキライザがボヤけさせている。そのせいか、全てに現実感がない。
目に映る全ては、ナユタの姿は、何もかもが夢の中のようだ。
ただ、それでも自分で嫌になるほど分かっているのは、そんな薬による現実逃避は日常化している俺がまともであるはずはなく、ナユタの思うような善人とは明らかに程遠いことだ。
それを分かっていてお前は、なんで俺を生かしたんだ?
――むしろ、他の人間なんかより俺ただ一人だけを消し去ってくれたなら――。
気付けば、ナユタは姿を消していた。
この炎以外の全てが、俺の夢だったように。
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