2.届かぬ想い ー668年ー 高市14歳 十市15歳 大友20歳

 春――

 また屋敷の庭に山吹が咲いた。

 その淋しげな花を手折り、薄曇りの空に透かす。

 鮮やかな黄色が、妙に切なく胸に染みた。



 *



 葛木叔父上が即位したのは三月ほど前――

 初めて見るその儀式は圧巻だった。

 

 大極殿にずらりと居並ぶ臣下。

 高御座たかみくらの御簾の内には、葛木叔父上―後に天智天皇と呼ばれる―が座っていた。

 その堂々とした姿は神々しく、この国を治める天皇としての威厳に満ちていた。

 誰もが叔父上の実績を認め、その即位に異議を唱えることはない。

 これほど臣下の総意で即位の儀を迎える天皇はいないのではないか。

 天皇を拝謁する列に居並びながら、圧倒的な姿に感服させられた。


 そして――

 即位の祝宴の最中、叔父上によって宣言されたのだ。

 大友と十市の婚姻――

 寝耳に水だった。

 だが、それは俺だけだったらしい。

 周囲からの祝福の声に、大友は照れくさそうに笑い、十市も恥ずかしそうに頬を染めていた。


 あれだけ幾度も十市との結婚を頼んだはずの父上も、当然のように豪快に笑っていた。

「こんな似合いの夫婦は他にいるまい!兄上、我ら兄弟の長子同士の結婚ですよ。」

 

 俺だけが1人暗闇に放り出されていた。

 


  *



「皇子様、大海人様が尼子様のところにお見えでございます。」

  

 夕暮れ時、舎人の柊を相手に武術の稽古をしていると、母上付きの采女が声をかけてきた。


「……そうか。」


 父上には、あれから会いたくなかった。

 もちろん宮中で仕事をする以上顔は合わせるものの、宴や狩りなど、極力話す機会を避けてきたのだ。


「あの、皇子様をお呼びするようにとの仰せでございますので……」

「……わかった、今行く。」


 困った顔の采女を無視することはできず、竹刀を柊に委ねると、仕方なく母上の部屋に向かった。 



   *


  

「失礼します。」


 入った母上の部屋では、久しぶりの来訪にもかかわらず、父上はいつも通り寛いでいた。


「おぅ、高市、来たか。」


 父上は手招きとともに自らの目の前の床をたたく。

 早くここに座れ――

 その笑顔の圧に押されて、黙って隣に座り、置いてあった酒壺を手にする。


「あぁ、酒はまだよい。そなたに話があるのだ。」

「話、ですか?」


 隣合う母上と目配せしあって、いったい何なのか――


「そなたの妻を決めたのだ。」

「……」


 想定外の話だった。

 

「父上、まだ私は14歳です。妻を持つには早すぎると思いますが。」


 十市は15歳で嫁いだ――

 だが、男と女は違う。

 早くとも10代後半――ある程度の役職を得てから妻を娶るのが大半だった。

 

「婚姻自体は先の話だ。相手の方がもっと幼いからな。御名部だ。」

「え、御名部……?」

 

 思わず聞き返さずにはいられない。

 葛木叔父上の皇女ではあるものの、まだ8歳か9歳か。

 あどけない子供だった。


「あと5、6年も経てばそれなりに育つであろう。その頃には、そなたも十分妻を持ってもおかしくない年や立場になっているだろうし、ちょうどよい。」

「そんな先の話……」


 御名部も哀れだった。

 従兄妹にあたる間柄――もちろん顔を合わす機会はあるものの、特別親しくもない。

 そんな俺のところに嫁ぐことを、結婚の意味もわからぬような年齢で決められるなど……


「高市、あなたが塞いでいるから、大海人様が決めてくださったのよ。」


 母上の言葉に頭を殴られたような衝撃を受ける。


「十市殿のことが好きだったのはわかっているけれど、大友様のところに無事に嫁がれたわけですし……」

「御名部はまだ幼いが、兄上の娘だし、鵜野(大海人の正妻)とも縁が深い。血筋や身分で言えば、十市よりもずっと上だ。申し分ない話だろう?」


 何を言っているのだろう、この2人は……

 俺は十市と結婚したかったんだ。

 妻が欲しかったわけでも、血筋のよい女と結婚したかったわけでもない。

 ただ、あの美しい十市に恋焦がれ……


「御名部では不服なのか?」

「……いえ、そういうわけでは。」


 そう父上に尋ねられて、首を振らないわけにはいかなかった。

 御名部の立場もある。

 それに、十市はもう既に大友の妻――

 手の届かないところにいってしまったのだから――



   *



 翌日、宮中で大友に出くわした。

 昨日の今日――1番会いたくない人物だった。

 

「少し良いか?」


 目を逸らしてみるが、大友の方から声をかけてきた。


「……」


 促されるまま、回廊から庭園に降りる。

 飛鳥宮ほど広くはないが、よく手入れされた庭。

 池のほとりに春の花が淡い色を浮かべて咲いていた。


「父上から聞いた。お前が御名部と結婚すると。」

「……そうか。俺も昨夜聞いた。」


 おめでとう、と告げる大友に思わず拳を握りしめる。

 お前が十市を取ったからだろう――

 そんな幼い嫉妬心が渦巻く俺とは正反対に、大友は大人びた横顔を見せて池を見ていた。


「御名部はとても頭の良い子だ。まだ8歳とは思えないほど。」

「……そうか。」


 どれだけ褒めそやされても、御名部は十市になり得ない。

 この胸には幼い日からずっと十市がいるんだ。

 既に目の前に立つ男のものになった十市が……


「……高市。」


 大友は水面越しに俺の顔を見ていた。


「十市とのこと……事前に話さなくて悪かった。」

「……知っていたのか、俺の気持ちを。」


 思いがけない言葉に声が震える。


「知らないはずないだろう。いつも笑顔で彼女を追いかけ回して……素直なお前が羨ましかった。」

「……」

「高市を傷つけることになるとは思っていたが、この婚姻は、父上と大海人叔父上の微妙な力関係を維持するためにも必要なものだった。」


 大友の言葉は彼らしく淡々としていた。

 

「そして……私自身、十市が好きだ。」


 その一言に、目の前の彼の想いが凝縮されていた。

 常に大人で、俺の1歩も2歩も前を行く大友――

 逆の立場だったら、俺はこんな風に大友に真摯に向き合うことができただろうか――


「……やっぱり、大友には敵わない。」


 悔し涙が滲むのをこらえて、無理して笑顔を浮かべてみる。

 今の俺にできる精一杯の強がりだった。


「きっと十市は幸せだろうな。お前みたいな男と結婚するなんて……」


 強がりだが、本音でもあった。

 彼女への恋心が消えたわけではない。

 だが、目の前の大友には到底太刀打ちできない。

 それだけの魅力が、目の前の男から醸し出されていた。


「……ありがとう、高市。」


 大友は小さな笑みを浮かべた。

 吹き抜ける春の風が、静かに池の水面を揺らしていた。


 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る