山吹の恋ー初恋が終わった日ー
山吹いずみ
1.初恋 ー664年ー 高市10歳 十市11歳 大友16歳
山吹の立ちよそひたる
山清水汲みに行かめど道の知らなく
――――万葉集 巻二(一五八) 高市皇子
*
春の温かな日差しが降り注ぐ広い庭園。
「
「待ってちょうだい、
10歳の高市皇子は、今日も異母姉・十市皇女を庭に誘う。
2人は
「ずっと咲きそうだった山吹の花が咲いていたんだ!十市に早く見せてあげたくって!」
はしゃぐ高市に手を引かれ、十市も庭に降りる。
「こっちだよ!」
「ねぇ高市、そんなに慌てないでちょうだい。裾を踏みつけそうよ。」
「ほら、ここ!見て。」
高市が足を止めて指し示した庭の池のほとり。小さな山吹の花が開いていた。
「あら、とても綺麗。教えてくれてありがとう。」
「でしょ?俺、十市に1番に知らせたんだよ。」
えへへ、と照れたように笑う高市。
1歳違いの美しい彼女に対して抱くのは、“姉”に対する感情とは異なる感情。
「もっと満開になったら、花を手折って十市にあげるよ。」
「ありがとう、楽しみにしてるわ。」
「髪に刺したらきっと似合うと思うな。十市はとっても綺麗だから。」
幼い少年の恋心。
この頃は父が同じでも、母が違えば結婚ができる時代。
高市は仲の良い十市をずっと想っていた。
「高市、ここにいたのか。」
その時2人に近づいてきた人影。
「あ、
歩み寄ってきたのは、
16歳の大友は高市の従兄弟―父親同士が兄弟―にあたるが、実の兄弟のように仲が良かった。
「近くにきたから寄ってみた。十市と庭に出ていると聞いたんだ。……十市、久しぶりだね。」
大友の微笑みに、十市は少し頬を染めた。
「お久しぶりです、大友様。」
“弟”である高市に対する打ち解けた表情とは異なる、大友への表情。
「また
「はい、わかりました。」
十市は5歳年上の大友に心惹かれていた。
無邪気な高市は、彼女にとってはあくまでも”仲の良い遊び相手”という位置づけだった。
「大友、剣の稽古をしない?」
「剣?あぁ、いいぞ。」
「待ってて、俺、竹刀を取ってくるから。」
高市はそう言い残し、慌ただしく屋敷内に走り去る。
「相変わらず元気のいいやつだな。」
大友はその後ろ姿を温かい眼差しで包み笑う。
「高市は確か10歳。十市は……」
「11です。」
「そうか……もう少しだな。」
十市の答えに考え込むように小さく呟く大友。
「何がですか?」
「いや、こっちの話だ。」
「………?」
大友の言葉に小首を傾げた十市。
「別に……十市は高市と仲が良いと思っただけだ。」
「高市は弟ですから。」
好きな人を相手に強調する十市。
「弟、か……」
大友は意味深にその言葉を復唱すると、先ほどの山吹の花を一輪折る。
「……額田殿に似て、ますます美しくなってきたな。」
小さくそう呟き、手に取った山吹を十市の髪に挿した。
「大友様……」
「……早く大人になってくれ。」
そう告げる大友。
あまり表情を表に出さないため、実際の歳よりも年長に見られる彼だが、その目には十市への確かな愛情があった。
「大友、お待たせー!」
二本の竹刀を手に駆け戻ってくる高市。
「そんなに急がなくてもいいのに。」
大友は笑って彼を迎えた。
「だって、もしも待ちくたびれて帰ってしまったら…」
竹刀を大友に手渡しながら息を整える高市。
その目の端に映ったのは、十市の黒髪に映える鮮やかな黄色。
「十市、それ……」
「大友様からいただいたの。」
高市は、嬉しそうな十市とそれを微笑んで見つめる大友を見比べて唇を噛み締めた。
「俺が見つけた山吹なのに。」
「山吹は誰のものでもないだろう?私が十市の髪に飾りたかった。だから彼女に贈った。」
「でも…」
「竹刀を貸してくれよ。手合わせをするんだろう?」
大友は高市の手から竹刀を受け取ると、未だに悔しそうな表情を浮かべる高市と向き合った。
*
その夜、大海人は、高市の母・
父の来訪を知り、慌ただしい足音と共に、部屋に入ってきた高市。
「高市、お行儀が悪いわよ。」
「はは、元気そうだな。」
「申し訳ありません。躾がなっておらず……」
慌てて謝る尼子だが、大海人はそんな息子を笑い飛ばした。
「良い。男の子は元気が一番だ。高市、ほら、ここに座れ。」
「はい、父上!」
高市は進められるまま、大海人の隣に座り、目の前に置かれていた酒壺から父の杯に酒を注ぐ。
「しばらく見ぬ間に大きくなったか?剣の稽古も頑張っていると聞いた。」
「はい、今日も大友と手合わせしました。」
「ほぅ、仲が良いようで結構だ。兄上(葛木皇子)もお前と仲良くするのをよく思っているようであるし。」
大海人は満足そうに酒を煽った。
「……あの、父上。」
少し口ごもりながら、父の顔を窺う高市。
「ん?」
「お願いがあるのですが。」
「珍しいな。滅多に甘えてこないそなたが……何が欲しい?」
大海人は高市の頭をがしがしと撫でた。
現天皇を母とし、実質の最高権力者である兄・葛木皇子を支える――大海人は、皇族の中でも、力を誇っている。
可愛い息子の願いくらい何でも叶えてやれるという自負があった。
「俺、十市と結婚したいんです。父上の力で、十市と結婚させてください。」
そう父の顔を見上げる高市。
「十市?」
思いがけない言葉に驚きを隠せない大海人。
「……だが、高市。そなたはまだ10歳になったばかりであろう。十市もさほど変わらぬ……結婚にはまだ早い。それに……いや、いい。」
大海人は言葉を途中でやめると杯を置いた。
「いずれにせよ、お前はまだ子供だ。然るべきとき、然るべき最高の相手を私が見つけてやる。」
「でも、父上、早くしないと…」
「夜も更けた。そろそろ寝るがよい。」
大友に十市を取られてしまう――
その言葉は父によって遮られた。
「さぁ、高市。おやすみなさい。」
母にも促され、しぶしぶ立ち上がり、高市は足取り重く自分の部屋に向かった。
*
尼子と2人になったあと、口を開く大海人。
「まったく……どうしたものか。」
「高市は、十市殿ととても仲が良いですから……あちらも高市を可愛がってくれて。」
愛する息子の望みを叶えてやりたい。
そんな母の願いが滲み出る尼子の言葉。
「仲が良いのはいいことだが……高市には言わないでもらいたいが、実は十市には既に結婚の話が持ち上がっているんだ。」
「まぁ、まだ幼いのに……」
「先方の希望だ。もっとも、十市が良い年頃になるまで待つと言われているが。」
そう語る大海人は、既にその縁談を受け入れる意思を固めていた。
「それでお相手は?」
尼子の問いかけに大海人は笑みを浮かべる。
「大友だ。」
「まぁ、大友様……」
「先日、兄上から正式に話があったのだ。兄と私の絆を深める良い縁談であるし、大友もなかなか才覚ある人材――将来を考えると、十市にとっても悪い話ではあるまい。」
その言葉に尼子は小さく微笑んだ。
大友様なら仕方あるまい――
息子を可哀想そうに思いつつも、頷かざるを得ない縁談だった。
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