第2話 静かなカフェの、熱を帯びた視線

約束の火曜日、19時。


充留は、約束の15分前に待ち合わせのカフェに到着した。場所は、オフィスから少し離れた、落ち着いた雰囲気のビジネス街の喫茶店。


店内には、落ち着いたジャズが流れ、窓際の席から見える夕暮れは、充留の緊張感を静かに高めていく。


「落ち着け、眞崎充留。お前は、ただのマネージャーだ。相手は仕事相手。仕事だ、仕事」


充留はネクタイを締め直し、手に持った資料を握りしめた。どうやら、慎吾が自分を覚えていないらしいという事実に、安堵と、かすかな痛みが混ざり合っている。この関係を、「仕事」という安全な枠の中に閉じ込めておけば、自分の秘密が露呈することはない。


(あいつがまた僕の前に現れるなんて。本当に、人生は何があるかわからないな)


彼の推しであるヒイラギ冬馬は、個人Vとしてのデビュー直後から、その歌声と謎めいた雰囲気で急激に人気を集めていた。クールな印象の冬馬と、高校時代の明るく穏やかだった刈谷慎吾のイメージは、充留の中でなかなか結びつかない。だが、プロフィールに書かれた「作詞・作曲」という特技は、当時の慎吾がよくギターを弾いていた姿と重なる。


高校時代の、初恋。

今となっては苦い思い出だ。あの頃の記憶は、心の奥底にしまい込んでいた。


『真崎先輩って…男の人が好きなんですか…?…気持ち悪い』


(あ、余計なことまで思い出した…くそ…)


これ以上過去の思い出に耽るのはやめよう。心が重くなる。あちらが覚えていないというなら、こちらも身構えずにいつも通り、ビジネスライクで接しよう。


時計が19時を指した、ちょうどその時。


カラン、とドアベルが鳴った。


充留は顔を上げる。彼の視線の先に立っていたのは、スラリとした体躯に、ベージュのロングコートを纏った男性。顔には、黒いシンプルなマスクをつけている。


「……刈谷さん?」


充留が小さく尋ねると、男性はコートの襟元を少し緩め、軽く会釈をした。その仕草だけで、充留の心臓が警鐘を鳴らし始める。間違いない。あの、どこか影のある、けれど整った顔立ち。マスクで口元が隠されていても、涼やかな目元と、少しクセのある髪型は、まごうことなき刈谷慎吾だった。


「どうも、お待たせしました、眞崎さん。刈谷慎吾です」


慎吾は、充留の前の席に座った。その声は、メールの文字通り、丁寧でビジネスライク。彼の口調には、高校時代の親しみやすさは微塵もなく、あくまで「仕事の相手」としての距離感が保たれていた。そして、「眞崎さん」という呼び方は、充留を完全に他人として扱っている証拠だった。


充留は安堵しつつも、目の前にいるのが初恋の相手である事実に、平静を装うのに必死だった。


「こちらこそ、本日はお忙しい中ありがとうございます。眞崎充留と申します。これから、眞崎さんの活動を全力でサポートさせていただきます」


充留は資料を広げながら、冷静に話し始めた。充留の仕事上の人格は、至って平凡なサラリーマンだ。その平凡さに徹することで、彼は自分の特別な感情と過去を隠してきた。


活動方針、配信時間、収益の配分。一つ一つ、充留は慎重に説明していく。


慎吾は熱心に耳を傾け、時折、的確な質問を投げかけてくる。その姿勢は真面目で、仕事に対する真剣さが伝わってきた。


「なるほど。わかりました。こちらからも、音楽活動に関する希望は随時お伝えします。……ところで、眞崎さん」


一通り説明が終わったところで、慎吾はマスク越しに、わずかに口角を上げたように見えた。


「眞崎さんは、僕のファン、ですか?」


充留は心臓が止まるかと思った。まさか、初対面のマネージャーに、そんな個人的な質問をしてくるなんて。彼は一瞬怯んだが、プロとしての意識を振り絞り、曖昧に答えた。


「……ええ。彼の歌には、人を惹きつける力があると思います。だからこそ、私も全力でプッシュしたいと考えています」


充留の瞳が、僅かに揺れるのを、慎吾は見逃さなかっただろうか。彼はただ、小さく「そうですか」と頷くと、少しの間、充留をじっと見つめてきた。


その視線は、評価するような、探るような、あるいは……何かを確かめるような、熱を帯びたものだった。


高校時代、充留は慎吾とまともに目を合わせることさえできなかった。だから、この10年越しの「見つめ合い」は、充留にとって耐えがたいものだった。彼は資料に視線を落とし、話を遮る。


「では、今後のスケジュールについてですが……」


その時、慎吾が突然、静かに口を開いた。


「眞崎さん。僕の高校時代、眞崎さんに似た奴が知り合いにいた気がするんですが・・」


充留の頭の中は、一瞬にして真っ白になった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る