第二話 冷たい朝の音

朝の食卓に、箸の触れる音だけが静かに響いていた。


もぐもぐもぐ。


 翔は小さな口で黙々とご飯を食べている。

私はその姿を見て、ほんのり口角を上げた。

──安心させたい気持ちから生まれた笑みで、本当はぎこちなかった。


「ねえ、圭介……昨日、どこに行ってたの?」


勇気を振り絞って問いかける。


圭介は一瞬だけ箸を止め、冷たい視線をこちらに向けた。


「仕事だよ。余計な詮索するな」


 低い声が落ち、空気が凍る。

怒っているのか、突き放しているのかもわからない。


その響きに、胸がきゅっと縮む。


まだ彼を信じたい気持ちがあるからこそ、余計に痛かった。


「ママ……?」


 翔が不安げに私を見上げる。

私は慌てて笑ってみせたが、頬は引きつり、涙がにじんでいた。


食卓には、冷めきった味噌汁と、言葉を失った夫婦の距離だけが残された。



皿を洗いながら、頭の中で同じ問いが何度も巡る。


──翔のために、このまま耐えるべきか。

──それとも、この人から離れるべきか。


 ふと視界に、結婚式の写真立てが映った。

白いドレスの私に、照れくさそうな笑顔を向ける圭介。


「いつからだろう……あの笑顔を見なくなったのは」


声にならないつぶやきが漏れる。



その夜、玄関のドアが開いたのは日付を越えた頃だった。


「……おかえり」


私が声をかけると、圭介は靴を乱暴に脱ぎ、視線を逸らしたままリビングを通り過ぎた。


「遅かったね。ご飯、温め直す?」


いつも通りの笑顔で問いかけた瞬間、ふっとお酒の匂いが鼻を刺す。


「いらない。外で食べてきた」


その一言で、胸の奥にひびが走る。


「……そう」


小さく答えた自分が、情けなく思えた。


圭介はテーブルの端に視線を落とし、低く呟いた。


 「お前は、本当に楽でいいよな。

俺が稼いできてやっんだからちゃんと仕事しろよ」


「家政婦さん」


ポン。


その言葉に胸が締めつけられ、私は思わず身を乗り出す。


「圭介……」


震える声で縋りつき、彼の腕に触れようとした。


その瞬間。


圭介は、優香の手を振り払い


「鬱陶しいんだよ!」


バチン――。


手に鋭い痛みが走り、視界が揺れる。

「っ……」言葉にならない息が漏れた。


「俺は仕事で疲れてんだよ。

お前のそーゆう感情が鬱陶しんだよ…」


 低い声が突き刺さる。

次の瞬間、寝室の扉がバタンと閉まった。


 残された私は手を押さえ、震える手を握りしめる。

リビングには時計の針の音と、自分の呼吸だけが響いていた。



 翌朝。

翔の小さな手を握りながら登園の支度をする。


「ママ、きょうもいっしょに来てくれる?」


 その笑顔に、胸が痛くて仕方なかった。

──この子の前で泣いてはいけない。守らなきゃいけない。


そう思えば思うほど優香の中で絶望が広がっていくー…。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る