第4話 沈む祠と白い影
帰路についたのは、夕刻の前だった。
山を下る途中、空が鉛色に変わり、風が冷たくなった。
足元の土が湿り、霧の匂いが濃くなる。
谷の向こうから雷鳴が響き、エンデが低く呟いた。
「雨……いや、これは嵐だな」
ルークは頷いた。「急ぎましょう。祠が……何か呼んでます」
言い終える前に、風が唸り声を上げた。
谷の底から立ち上る黒い影。霧が裂け、その中心に人の形が浮かび上がる。
白衣――教団の祈祷師だった。
顔は仮面で覆われ、金の模様が刻まれている。
杖の先には、淡く光る水晶が嵌め込まれていた。
「天の欠片を奪いし者よ」
祈祷師の声は、男とも女ともつかぬ。
「その血を返せ。神の息は我らのもの」
エンデが剣を抜いた。
「また教団か。しつこい連中だ」
「無益な争いは――」とルークが言いかけた時、祈祷師が杖を地面に突き立てた。
――ずん、と大地が鳴る。
土が波のように盛り上がり、二人の足元を裂いた。
ルークは咄嗟に飛び退き、崩れる岩肌を掴んだ。
下は谷。そこに、光る水が渦を巻いている。
「ルーク!」
エンデが手を伸ばしたが、次の瞬間、足元の地面が砕けた。
ルークの体は闇へと落ちた。
*
――冷たい。
目を開けると、水の中だった。
青白い光が辺りを満たし、息をしても苦しくない。
ゆらゆらと漂う中、ルークは不思議な静けさを感じた。
前方に、祠があった。
水中に沈み、苔むした石が揺らめいている。
その中心に、黒い穴――否、門のような空洞があった。
そこから、声が聞こえる。
――息を継げ。神の子よ。
水の流れが逆巻き、ルークを門の方へ引き込んだ。
体が光に包まれる。
*
視界が反転する。
そこは、かつての世界だった。
大地に巨人が歩き、空に翼ある影が飛んでいる。
山が呼吸し、海が歌う。
そして中央に、一人の青年が立っていた。
白銀の髪、金の瞳。
彼は手に七つの石板を持ち、空へ掲げた。
「これが“始まりの契約”だ」
その声が、ルークの胸に響く。
「我ら神族は地に還る。だが血脈は残す。
誰かが土を聴く日、再びこの世界に息が戻るだろう」
青年の視線が、まっすぐにルークを貫いた。
――お前が、その“誰か”だ。
光が爆ぜ、幻が崩れる。
*
息を吸うと、肺に空気が戻った。
水面を割って顔を出すと、そこは崩れた洞窟の中だった。
祠が半ば沈み、中央には青く輝く石が浮かんでいる。
ルークは震える手でそれを掴んだ。
――三の祠、息を継ぐ。
また声が響いた。
光が広がり、天井の裂け目から水が流れ出す。
やがて嵐が止み、静寂が訪れた。
「ルーク!」
崖の上からエンデの声がした。縄が垂れ下がる。
必死に登るルークを引き上げ、彼は安堵の息を吐いた。
「生きてたか……!」
「ええ。少し、見ました」
「何を?」
「この世界が……まだ、息をしていた頃を」
エンデは黙って頷いた。
ルークの掌の石が淡く光る。
それは、確かに生きていた。
「教団は……?」
「逃げた。だが放っておかんだろう」
「ええ。いずれまた来ます」
ルークは空を見上げた。
嵐が去った空に、一本の糸がかかっていた。
前よりも太く、明るい。
「この糸、見えますか?」
「……ああ。まるで空の傷のようだな」
「きっと、次の祠に続いてる」
エンデは剣の柄を握り直した。
「次の祠は、どこだ」
ルークは目を閉じ、糸の揺れに耳を澄ました。
微かな音が、胸の奥を震わせる。
――北。氷の谷。
「北です。氷の谷に、四の祠が」
「氷の谷だと? そこはもう人の住む地じゃない」
「それでも、行かないと。
欠片が揃えば、この世界は――きっと息を吹き返します」
エンデは短く笑った。
「無能のルークが、神を呼び起こすとはな。面白い」
「まだ、無能ですけどね」
「そう言えるうちは、大丈夫だ」
二人は立ち上がり、谷を見下ろした。
霧が晴れ、遠くに薄い光の糸が揺れている。
それは、途切れた神話の続きを描く筆のようだった。
モナ婆の声が、どこかで風に混じって響いた。
――土は眠らず、息を継ぐ。
ルークは拳を握り、歩き出した。
掌の石が温かく光り、
その光が、遠く北の空を照らしていた。
(第4話 了/次話「氷の谷の祈り」へ)
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