第5話 氷の谷の祈り
北へ。
吹きすさぶ風は刃のように頬を裂き、雪の粒が砂よりも鋭く肌を叩いた。
ルークとエンデは、凍結した渓谷の中を進んでいた。
足跡はすぐに風に消される。吐く息は白く、視界は淡い青に染まっている。
「この先が“氷の谷”だ。昔は交易路だったが、三十年前の大雪で閉ざされた」
エンデの声が凍気にかき消される。
「人はもう、住んでいないはずだ」
しかし、ルークは首を振った。
「……います。糸が、そう言ってます」
彼の掌で、欠片がかすかに光っていた。光は脈打つように強弱を繰り返し、導く方向を示す。
*
谷の最奥に、小さな集落があった。
雪に半ば埋もれた家々。だが、かすかに煙が立ちのぼっている。
人が生きている。
扉を叩くと、中から少女が現れた。
白い毛皮を羽織り、目は氷のように透き通っていた。
「……旅の方?」
「そうです。僕はルーク。こちらはエンデ。祠を探しています」
少女は小さく首を傾げた。
「祠……なら、氷湖の底にあります」
「底?」
「凍ってしまって、もう誰も近づけません」
少女の名はリア。
彼女はこの谷で、ただ一人生き残った民だった。
十年前、教団の巡礼が来て以来、村は雪に閉ざされたままだという。
リアの家には、古い木箱が置かれていた。
蓋の裏には祠の印と同じ“輪と線”の模様。
「これを……母から預かりました」
リアは震える指で、箱の中の布包みを開いた。
そこには、欠片とよく似た青い石があった。
しかしその表面には、ひびが走っている。
「……祈りの石。祠の心臓なんです。でも、凍って動かない」
ルークは石を手に取った。
冷たい。けれど、奥にかすかな鼓動を感じた。
彼は掌を当て、目を閉じる。
――眠いよ。寒いよ。
子どものような声がした。
――目を覚まして。
ルークは囁いた。
光が石の奥で瞬き、温度が少しだけ上がった気がした。
「まだ、生きてます」
リアが息を呑んだ。「本当に……?」
「でも、呼吸が浅い。……祠まで行かないと」
エンデが外を見た。「雪が強くなってきた。行くなら今だな」
リアは躊躇したが、やがて頷いた。「私も行きます。祠は……私たちの村の心ですから」
*
氷湖は、風の音も凍らせるように静かだった。
湖面は白銀に覆われ、その中心に黒い影――祠の屋根がわずかに覗いている。
ルークたちは慎重に氷を踏みしめ、祠へ向かった。
その時、空がざわめいた。
白い霧の中から、影が現れる。
法衣に包まれた人影――教団の追っ手だった。
「やはり来たか、天の欠片の持ち主よ」
祈祷師の仮面の下から、冷たい声が響く。
「その石は“神の息”。人間が触れる資格はない」
ルークは前に出た。「神は、息を止めるために生きたんじゃない」
「神を語るな。貴様のような無能が!」
祈祷師の杖が氷を叩く。
氷面が割れ、黒い風が吹き上がった。
リアが悲鳴を上げる。
ルークはとっさに彼女を庇い、掌を氷に当てた。
――起きて。ここを守って。
胸の紋が輝く。糸が走る。
氷の下で、何かが息をした。
ひび割れた湖面が光を帯び、祠がゆっくりと持ち上がる。
祠の扉が開き、氷の柱が立ち上がる。
中には、眠るように横たわる少女の姿があった。
リアが叫んだ。「……姉さん!」
彼女の双子の姉――教団の儀式で“祠の巫女”として捧げられ、氷に封じられていた存在だった。
その胸の上に、青い石が光っている。
「まさか……人を封印に?」
ルークが振り返ると、祈祷師が嗤った。
「神の器に血を捧げる。それが真の祈りだ」
「それが祈りか!」
ルークの怒号が氷原に響く。
糸が彼の背後で裂けるように光り、掌から風が吹き出した。
土も水もないこの地で、光は氷を溶かす。
祈祷師が叫び、仮面が砕けた。
光の渦が祠を包み、青い石とルークの掌が一体化する。
眩しさの中、ルークは見た。
氷の巫女が微笑み、リアに手を伸ばす。
――ありがとう。もう、寒くない。
光が消えた。
祠の氷は完全に溶け、湖の水が静かに満ちていく。
空は晴れ、糸が北の空へ一本伸びていった。
「……姉さんは?」
リアの問いに、ルークはそっと答えた。
「祈りになりました。この谷を包む風の中に、今もいます」
リアは泣きながら笑った。
――四の祠、息を継ぐ。
その声は、もう誰のものでもなかった。
ただ、風のように優しく、凍った世界に春の匂いを運んでいた。
*
エンデは雪の上に腰を下ろし、深く息を吐いた。
「まったく……お前の旅は休む暇がないな」
ルークは微笑んだ。
「すみません。でも、もう少しで“全て”が繋がります」
「全て?」
「七つの祠を結べば、“神話の記憶”が蘇る。
きっとこの世界が、なぜ息を止めたのかも分かるはずです」
エンデは苦笑した。
「お前の言葉、半分も理解できん。だが、悪い気はしない」
「ありがとうございます」
リアがそっと欠片を手渡した。
「これ、姉さんの祈りの欠片です。持って行ってください」
ルークは受け取り、胸に当てた。
暖かい光が掌を包む。
「……ありがとう。必ず、すべてを繋ぎます」
空には、五本の糸が輝いていた。
残り、三つ。
世界の息は確かに強くなりつつあった。
(第5話 了/次話「祈りの残響と黒の都」へ)
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