「3話 – 〈What ’bout my star?〉」

青い光をとりもどした海は、ついに一歩うしろへ退いた。

夜じゅう海岸をなめつづけた荒い息はおさまり、砂浜にはぬれた塩のうろこと、くだけたスチロール片、ひっくり返ったサンダルがいくつもちらばっていた。

波の端はまだかすかにふるえていて、まるで泣きやみをこらえた人のくちびるのように、わずかに震えていた。


さわぎのなかで消えていたニャモメも、いつのまにか一羽ずつ人々のそばにぬっと居場所をとっていた。


砂浜の反対側、防壁のまえで波がもう一度押しよせた。

その瞬間、VF-578〈ウソダ〉が重いエンジン音をうならせて前に出た。

左舷のパネルが開き、おおきな救助アームが瓦礫をつかんで持ち上げる。


金属が折れる音とともに閉ざされていた空間がひらかれ、小さな子供がむせながら顔を出した。

「確認! 生存者確保!」無線の声はふるえていた。


ウソダはこたえるように、一気にエンジンを高めて波を切りさいた。

人々はそのすきにぬけ出し、防壁のうしろで安堵のどよめきがはじけた。


ジェイコアがはしゃいでさけぶ。

「これがウソダパワーにゃん! あきらめないレスキュー、うそのような希望――視聴率200%アップにゃん!」


もちろんそんなはずはないが、EEはあきれた顔をしたように見えた。

「実際の上昇率:3.2%。しかし有意。」


「しずかに。」


ユニが小さな声でふたりの会話をさえぎった。

グロリアからユニへと戻っていたが、心臓はまだ歌のリズムにとらわれ、のどは乾いて紙のようにくずれそうだった。

人々の歓声が消えてから、ようやく足がふるえだした。


「海のにおいが……濃いね。」


操縦桿をはなして流れる汗をぬぐいながら、リオンがコクピットでつぶやいた。

「よくやった、ウソダ。」


ほんのわずかのあいだだったが、その時VF-578〈ウソダ〉はただの機械ではなく、ともに戦う仲間のように見えた。


♪♪♪


「塩分濃度上昇、残留オイルの匂いをふくむ。」

ふわりと浮かぶEEがつけ加えた。

「だが現在リスクは低い。」


砂浜の反対側でVF-578がエンジンを冷まし、低い息をもらした。

機体の外に出てヘルメットをぬいだリオンが、片手で髪をかき上げ、もう一方の手で合図を送る。

その横に、いつものようにきちんとした姿勢で立つカイレン。鋭いまなざしが先に声をかけた。


「きみは……昨日も今日も偶然のように現れて、人を動かした。」


その言葉は診断のように簡潔だった。

余計な形容はなく、推測の余地も少ない。だがその視線には、断定できないものがひそんでいた――警戒、好奇心、そして責任。


カイレンの肩に手を置き、その上に頭をもたせかけたリオンが、いたずらっぽく笑った。

「でもこれは偶然じゃないですよね? その声、不思議と耳に残る。一度聞いたら忘れられない……そんな周波数。」


「わたしもよくわかりません。」

ユニは砂を見ながら足で地面をならし、言葉もえらんだ。

「ただ……歌っただけで。」


「それがきみの星(Star)だにゃん。」


三人のまわりをぐるぐる飛んでいたジェイコアが、待ってましたとばかりに割り込んだ。

「まだきみは気づいてないだけにゃん。星はじぶんで光るけど、ときには『ほら、あそこだ』と指さしてくれる誰かがいないと見えないこともあるにゃん。」


カイレンはしばし息をととのえ、無線のチャンネルを切った。

「しばらく俺たちと行動をともにしてみないか。」


静寂が海を裂いた。

砂のうえで小さなハエがただよい、二羽のニャモメが稲妻のように追いかけて消えるあいだ、ユニの瞳がほんのすこしだけゆらいだ。


EEが実務的に付け加える。

「臨時協力メンバーとして登録可能。身元確認は後日。滞在許可と保険処理はMOCで。」


「保険……もですか?」


「救助現場は危険だ。責任は分担しなければならない。」


ユニはくちびるをかんだ。

頭のなかにはまだ波動の残響が鳴っていた。

生きたい――その短い言葉が、人々の足を前にすすめていた瞬間を思い出す。


「……人を救えるなら、やってみます。」


マリナス・オペレーション・センター――通称MOCは、艦の心臓(ハート)という名前のとおり、静かでありながら忙しかった。

全面ガラスの向こうにひろがる海は青く、内部は冷たい青白い光と、計器パネルの小さな点滅灯がひるを静かに押しのけていた。


道もわからないユニの前を、先に飛んでいくジェイコアを追ってSeaCom区画を通り過ぎると、ソラが手を上げてあいさつした。

「実況、アーカイブに送っといたよ。コメント反応、もう上がってる。」


コンピュータに向かっていたハルトは、モニターから目をはなさずに首だけ伸ばす。

「中継チャンネルにノイズの跡。誰かが盗聴して逃げた匂いがする。」


隅でドローン映像を整理していたメイが声をあげる。

「グロ……いや、グロリアさん! 画面だとすごく映えるよ。光を食べるタイプ!」


「食べるって……。」ユニがぎこちなく笑う。

「グロリア……です。」


ジェイコアが横で波アイコンを表示した。

「“星の捕食者”コンセプト、悪くないにゃん?」


SeaMed区画に入ると、空気はまったくちがった。

白と金属の落ち着きのなかに、消毒された匂いがひろがり、静かだが耳にしみこむ低い声が近づいてくる。


クリップボードに書類をはさんで署名していた医務総括のホシカワが、静かに手を差し出した。

「はじめまして。まず簡単な検査をしましょう。」


チームリーダーのミズホが検査室へ案内し、アイリスがドローンとカートのあいだを忙しく行き来して準備を手伝った。

「注射……じゃないです! ただの軽いスキャンです!」


「大丈夫です。」ユニは笑ってみせた。

内気な、声のない目笑い。どこかピントがずれているようにも見えた。


検査は思ったより単純だったが、結果は単純ではなかった。

「共鳴反応が独特ですね。」


ホシカワが透明パネルに映るグラフを指さした。

「歌唱時に全身へ広がる共振パターンが、通常の人体では見られない形です。特定の周波数で神経安定指標が逆に上昇している。つまり――歌えば歌うほど周囲は安定するけど、あなた自身は早く消耗する。」


「バッテリー消費が激しいってことにゃん。」

ユニのひざにのっていたジェイコアが代わりに翻訳した。


「医学的には“特異共鳴体質”として記録します。」

補佐に立っていたミズホがきれいにまとめる。

「無理は禁物です。歌の前後には十分な回復時間が必要。水分、とくに電解質補給。カフェインは一時的に助けになりますが、反動が大きい。」


「いままではコーヒーでごまかしてたけど……。」

「ごまかすのと、生きるのはちがいます。」


ホシカワの笑みはあたたかく、それでいて硬かった。


EEが最終まとめを下す。

「状態:良好。分類:臨時協力メンバー。診断:軽度の記憶喪失(起源不明)+特異共鳴体質。勧告:休息後にブリーフィング――そして宿舎配属。」


ユニはしばし言葉を失った。言いたいことは多かったが、どこから説明すればいいか迷ってタイミングをのがしただけに近かった。

「記憶喪失……。」


ホシカワがうなずいた。

「こちらでのあなた――つまり“この側の身分”の断片がいくつか見つかっています。住民データは空欄が多いですが、公的システムの一部に、あなたの名前のキャッシュが残っている。おそらく“突然の欠損”――医学的には記憶喪失としか仮診断できません。無理に取り戻させることはしません。バラバラのかけらが自分からはまりこむ時がある。」


「異世界のわたし……。」ユニはことばを口のなかで転がした。

なじみなくて、でも妙になつかしい味。


ジェイコアが見上げて、小さくささやく。

「心配いらないにゃん。きみが誰なのかは――歌が知ってるにゃん。」


検査が終わったあと、ブリーフィングルームで初めて会ったユウゲンが短くうなずいた。

「データなしでは判断もできない。だが今回は例外にしよう。」


部屋の別のドアから出てきたリサが、書類をひとつずつ封筒に入れて確認しながら手渡す。

「臨時パス、通信プロファイル、保険契約。大事なのはここ。」


いちばん上には薄いカードがあり、光を受けてホログラムがわずかに浮かんだ。

SEARE – Temporary Assist。


腕を組んで壁にもたれていたカイレンが、最後に確認した。

「お前が望めば、いつでも抜けられる。強制はしない。」


リオンがとなりで笑った。茶目っ気のある表情だった。

「でも次の任務でも、星を見せてくれるんでしょう?」


ユニは少し考えてから、こくりとうなずいた。

「約束はできませんけど……努力はします。」


「それがスターらしいにゃん!」

ジェイコアが星アイコンをぱんっと弾けさせた。ファンファーレ音はおまけだ。


再び浜辺にもどった時には、移動用に運ばれていた装備はほとんど積みこまれていた。

VF-578〈ウソダ〉は陽の光にきらめきながら、離陸準備を終えていた。


ニコが風に髪をなびかせながら大声で叫ぶ。

「燃料フル! エンジンコンディション最高!」


機体に取りついていたマリサは、捕獲ネットの最後のボルトを締め、体を伸ばして空を見上げた。

雲の縁が刃のように輝いていた。


「次の任務。」

カイレンが短く言い、背を向けて歩きだす。


リオンはヘルメットをかぶりながら、ユニにもう一度手を振った。

「その時も――君の星、忘れないでね。」


その言葉は題名のようで、問いかけのようで、約束にも聞こえた。

What ’bout my star?


ユニはそのフレーズを心の中でゆっくり転がした。

私の星? 私の星は……なんだろう?


はっきりした答えも、自信もなかったが、不思議と胸の奥が少し軽くなっていた。

「……やってみます。」


VF-578が砂を巻き上げて浮かび上がった。

金属の表面に陽光がくだけて飛び、空中に一瞬だけ星座のような模様を描いた。


ジェイコアがその光景をキャプチャして、星の絵文字にしてばらまいた。

「記録完了にゃん! 今日の星はこんなに大きかったにゃん!」


EEが冷静に補足する。

「誇張。しかし概ね事実。」


人々は散っていき、波はふたたび自分のリズムを取りもどした。

砂浜は午後の光でしだいに乾いていった。


♪♪♪


MOCから車で15分。海を背にし、街はずれへ入ると小さな住宅区画が見えてくる。

臨時にあてがわれた宿舎は3階の角部屋のワンルームだった。


窓のすき間から海が細くのぞき、街の雑音が低くひびいていた。


玄関の前でユニは立ち止まった。

ドアノブは冷たくてなめらか。


ジェイコアが横で体をゆらしながらつぶやく。

「引っ越しおめでとうにゃん! ハウスウォーミングプレゼントに――快眠モード、ふかふか毛布、あったかいハーブティーデータパック、準備完了にゃん!」


「しずかにして。」


ユニは笑ったのか、ため息をついたのかわからない表情で、取っ手を回した。


カチリ。


小さな下駄箱を抜けると、床には低いテーブル、その横には電子レンジの置かれた棚とシンクに伏せられた小さなカップ。

奥の部屋の隅にはマットレスだけのせた薄いベッド。壁には何もかかっていない。


新しく生まれた部屋のようであり、長く空けられていた部屋のようでもあった。空気は物音もなく静かに沈んでいた。


ユニは靴を脱ぎちらして中に入り、バッグ――リサが書類と一緒に渡してくれた荷物――をベッド横の床に置き、ゆっくりとうつむいた。


「……ただいま。」


ジェイコアが小さな声でこたえる。

「おかえりにゃん。ここが、きみの居場所にゃん。」


ユニについてきたEEが、遅れて通信ログに短く記録した。

「状態ログ:帰宅。推奨:休息。」


ようやく体が自分の重さを意識した。

筋肉が順番にため息をつくようにゆるんでいく。


窓の外から午後の陽光が斜めに差しこみ、舞うホコリを淡く照らした。


ベッドに腰かけたユニは、そのままゆっくりと横になった。


目を閉じる直前、心の片隅で小さな問いがまた顔を出した。


――私の星は……なんだろう?


「……What ’bout my star?」


小さく口ずさむ。

答えを急かすことはなかった。


ただ、遠くで誰かが星座を指でつないで描いてくれているような――そんな感覚があった。


くすくす笑うジェイコアがそっとささやく。

「今日はここまでにゃん。おやすみにゃん。」


EEが最後に灯りを落とす。

「照度30%。睡眠を推奨。」


……部屋は静かになった。


ユニは無意識のようにノートPCをひらき、〈終わらないコーダ ― グロリアカバー〉という曲を検索した。

再生数はここ数日で異様に伸びていた。


ギャラクシーの愛を

まだ知らなかった日々

ただ光に憧れてた蝶


「……まだチャンネル、生きてるんだ。」


いつものクセで自分のチャンネルに入ったユニは、画面に出たサムネイルを見てぼう然とした。


浜辺で歌う自分の姿、市民が歓声をあげる場面、さらにはVF-578〈ウソダ〉が瓦礫を持ち上げるカットまで――すでに編集されたクリップが“ライブ”タブにずらりと並んでいた。


再生数は暴走中。コメントも秒ごとに増えていく。


「……なにこれ。ずっと……配信中だったの?!」


ユニの顔から血の気が引いた。

トラックパッドを押さえた指が、そのまま止まる。


頭上からひょいと現れたジェイコアが、となりで平然と言った。

「もちろんにゃん〜! 最初の日から24時間ストリーミング送信中って言っただろにゃん?」


「えっ、それ本当にやってたの?!」


「リアルタイム反応率アップ、ファンダム形成速度300%↑。」

EEが淡々と統計を打ち出す。


ユニは頭をかかえ、そのままベッドにくずれ落ちた。

「うそ、うそでしょ……これ完全に黒歴史ライブ配信じゃない!」


ジェイコアが画面いっぱいにでかでかとテキストを表示した。

「Welcome to Guroria Channel♡」


♪♪♪


海はずっと遠くで、かすかに息をしていた。

静かなようでいて、いつ黒く染まるかも知れない青が、断崖にぶつかって砕けていた。


マリナス・オペレーション・センター――状況室。

壁一面のスクリーンには、なお海岸救助の残像が映っていた。


映像のなかで人々は安堵して散っていったが、状況室の空気はむしろ冷たくなっていた。


ソラが手首の端末をとんとん叩きながら報告する。

「コメント反応、急上昇。ポジティブ78%、ネガティブ2%……数値は安定しています。」


椅子にだらりと腰かけたハルトは、キーボードを打つ手を止め、眉をひそめた。

「波形ログに空白がある。一区間まるごと切れてる。原因不明。」


黙って映像をフレーム単位で見ていたメイが、感嘆まじりにつぶやく。

「でも……画面だと本当に映える。光を食べてるみたい。カメラ映え最強。」


状況室のモニターにつながった通信を通じて、EEの冷たい声が最後に重なった。

「判定:分析不能。追加観察が必要。」


全員の視線が、一瞬“グロリア”のシルエットに注がれた。

海は静かだったが、その歌の余波はなお数字と映像のなかでうごめいていた。


[EE LOG]

Subject: Guroria

Event: Vocal emission during high-stress rescue

Resonance Sync: 92.1% → rapid escalation

Risk Index: 0.65 (Critical Threshold Approaching)

Recommendation: Prepare containment protocol

Note: Audience misinterpretation = “performance” (advantageous cover)

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