第ニ夜 水路の花嫁
翌る朝、春の光は、薄い硝子を一枚はさんだように冷えて、わたくしどもの座敷に斜めの帯を落とした。柚羽はその光の中で、花の粉を浴びる蝶のように目を細め、ひとつ伸びをした。
「重さは、まだ?」
わたくしがたずねると、彼女は掌を胸に当て、
「ここにだけ、重いの」
と微笑んだ。
留香の香はもう焚いていない。にもかかわらず、柚羽の輪郭は、昨夜より幾分しっかりして見える。世界に触れて、世界の方が僅かに凹む、その感覚が生まれたのだ。
水路のほとりへ下りると、柳は風の稽古をはじめたばかりで、枝先がわたくしたちの肩を撫でる。水は鏡よりも深く、鏡よりも移ろい易い。
「ここで、ね」
柚羽は欄干の節目に指を置き、
「鈴が、胸の奥へ落ちたの」
と言った。
「胸へ?」
「ええ。だからわたしは、川へ落ちたのではないの。川は、胸の中にあったの」
言葉はみな、彼女の内から、その都度生まれる。借り物がひとつもない。わたくしは頷き、水の面を覗いた。そこに映る二つの影は、肩を寄せるほど近いのに、触れあう瞬間、波のいたずらで離れてしまう。
花影町では、春の三日三晩、名のみの婚礼が行われる。「水路の花嫁」と称して、白衣の娘らが船に乗り、鈴の音を頼りに、街の隅から隅へ渡される。嫁ぎ先は水であり、花婿は影であり、式を挙げて、誰も娶られない。
「今宵は、その二夜目」
淡雪が花街の角から顔を覗かせ、粉を軽くはたいた頬で笑った。
「あなたもおいでなさいな。美しい嘘は、ひとりで見ると寂しいもの」
「嘘を、美しいと言うのね」
「嘘は、真より手ざわりがいいことがあるのよ」
淡雪は柚羽の袖を見て、
「その色、川に似合う」
と囁いた。
「川へ行くの」
柚羽が答えると、淡雪の瞳は、一瞬、深いところで波立った。
「行くなら、逃げて」
「どこへ」
「あなたの胸の奥へ」
それだけ言って、淡雪は踵を返した。香の尾が、路地の角にしばらく残り、やがて四月の陽にほどけた。
日が沈むと、町はまた夢を着替える。白衣の列、鈴の輪、舟の舷に結ばれた薄紅の布。河岸には灯がともり、世界の輪郭が水のほうへ傾ぐ。
柚羽は白を着た。わたくしは薄藍に梅の刺繍の羽織を重ね、櫛に少しだけ香をふれた。
「留香は、焚かないの?」
扉に手をかけたとき、柚羽が問う。
「焚けば、あなたはここに濃くなる。けれど、濃くなるほど、去る時もはっきりしてしまう」
「はっきりするのは、怖い?」
「恐ろしいのは、終わりが見えることではなく、終わりを用意するわたくし自身」
柚羽は頷き、わたくしの手を握った。
「じゃあ、今夜は、あなたの手で留めて」
「手で?」
「ええ。香より、強いから」
橋のたもとに舟が並ぶ。水路は、遠い星の回転を借りたように静かに流れ、舟底に小さな世界を映している。
白衣の娘らは、花嫁の冠を戴き、鈴を一本ずつ手にする。その中のひとりが、柚羽に似ている。いや、似ているのではない。柚羽がもうひとり、あちらに立っている。
「珠乃さま」
柚羽がわずかに囁いた。
「わたし、向こうにもいるの」
「行ってはならない」
声は静かだったが、内側では、焔が衣の下で布を焦がすように揺れた。
「行かなければ、半分のまま」
「半分のあなたを、わたくしは抱く」
白衣の列が舟へと乗り込む。鈴の音が、水面に指先で輪を描く。
その時、紅蓮尼さまの声が、川下の石段から渡ってきた。
「珠乃」
わたくしは振り向く。尼さまは影を纏い、灯に細い十字をかけるように、数珠を持ち上げた。
「花嫁は、戻りません」
「嘘の婚礼でしょう」
「嘘が本を呼ぶこともある」
尼さまの視線は、わたくしの手と柚羽の手が重なるところへ落ちた。
「手で留めるのは、香より強い。だが、強いものは折れることも早いのですよ」
その言葉のあとを追うように、蜃楼堂の澄川が、舟頭の笠をからかうみたいな笑いで現れた。
「強いものは美しい。美しいものは、よく砕ける。砕けてなお、匂いが残る」
「黙って」
と、淡雪の声。彼女は河岸の群衆のあいだから姿を抜き、わたくしの耳元で、
「あなたの怖れは、あの人(ひと)を自由にする」
とささやいた。
舟が離れる。水が衣を引くように銀の筋を曳く。柚羽と似た娘――いや、柚羽の影が、舟の舳で鈴を鳴らした。
「行かせて」
柚羽が言う。
「行けば、戻らぬ」
「戻らなければ、ここに居る」
「行かずとも、ここに居る」
「半分、だけ」
語り合ううち、舟は欄干の下をくぐり、花影町のゆるい曲がりへ吸い込まれてゆく。
わたくしは、指の一本一本を意識した。指は五つ。指の間に、彼女の手を挟み、指の腹で体温を確かめる。
「珠乃さま」
柚羽は、わたくしの掌へ頬を押し当て、
「わたし、花嫁になる」
と静かに告げた。
「どこへ」
「あなたの水へ」
言い終わらぬうち、祭の囃子がひときわ高くなり、人の波がわたくしたちの間を裂いた。白い布、紅の紐、金の紙片。視界が一瞬、紙吹雪の小宇宙に覆われ、その裂け目から、柚羽の肩がするりと抜けた。
「柚羽!」
わたくしは紙片を両手で払い、鈴の音の方へ駆けた。
舟はすでに遠い。だが、舟の影ではなく、欄干の内側、水路の岸石の陰に、白い裾がひとひら、波に吸われている。
わたくしは身を投げた。
水は、春の刃であった。冷たいが、切先はやわらかく、胸の皮膚を撫でるたび、過去の記憶が細く裂ける。
「柚羽!」
水中で呼ぶと、声は鈴に似て泡立ち、わたくしの頬を越えて上る。白い裾の先に、手があった。わたくしの手に似て、しかし指が一本、夢の方へ伸びている。
掴む。引く。
水は、わたくしを街へ返そうとし、わたくしは水から花を奪おうとする。世界の意志と、わたくしの意志が、ちょうど天秤の皿のように揺れる。
その刹那、誰かが背から帯を掴んだ。
「こちらへ」
淡雪の声。
「わたしの指は、借金取りより強いの」
皮肉に微笑む余裕もなく、わたくしは岸へ引き上げられた。柚羽の裾も、水から吐き出されるようにして、わたくしの腕の中へ戻った。
彼女の身体は、軽い。軽いが、昨夜よりも確かで、抱いたところだけ、わたくしの衣が濃く濡れる。
「珠乃さま」
彼女は咳をひとつし、唇の端に微かな笑みを浮かべた。
「わたし、落ちなかった」
「落ちたのは、わたくしのほう」
わたくしは彼女を抱きしめ、肩に顔を埋めた。肩越しに、紅蓮尼さまの足音が近づく。
「水は、まだやさしい」
尼さまは、わたくしたちの上に小さな陰を投げ、わずかに頷いた。
「だが、やさしさは長くは続かない」
「どうすれば」
問う声は、子供のように浅ましい。
「抱くことを、言葉に変えねばならぬ」
「言葉に」
「名も、誓いも、祈りも――人はそれを、契りと呼ぶ」
尼さまが視線を投げる方向に、澄川が立っていた。琥珀の眼鏡の裏で、瞳が愉快そうに笑う。
「人の契りより、香の契りのほうが長持ちしますがね」
「黙れ」
尼さまの声は低く、澄川は肩を竦めた。
「でもね、尼さま。言葉は香より早く消える。消えるから、美しい」
「消えるから――」
わたくしは柚羽の指を握り直した。
「今、ここで」
柚羽が目を上げる。わたくしは彼女の掌を自分の掌に重ね、柳の影の下、祭の喧噪の外れで、ひとつの約束を言葉にした。
「わたくしは、あなたをここに留める。名で、息で、手で。あなたが水へ帰るなら、わたくしは水になる」
柚羽の瞳に、揺れる灯が三つ映った。わたくし、柚羽、そして、その間に立つ見えない影。
「わたしは、あなたに落ちる。落ち続ける。落ち切ってなお、ここにある」
言葉のたび、世界の皮膚に小さな穴が開き、そこから温い光が滲む。尼さまは数珠を握り、ひとつだけ鈴を鳴らした。
「契りは成った」
その宣言を合図にしたかのように、風が川面を渡り、舟の鈴が一斉に震えた。遠くで静音夫人の笑い声がする。
「美しいわ。美しいものは、まことに」
夫人は白衣の裾を撫で、
「朽ちるべきね」
と、わたくしにだけ聞こえる声で言い、群衆へ紛れた。
夜半、屋敷へ戻ると、朧丸が灯籠の陰に丸くなっていた。
「また、毒をひとつ飲んだね」
「何のこと」
「言葉の毒。契りは甘いけれど、舌に残る」
「残って、どうするの」
「夜ごと、味を変える」
朧丸は欠伸をして、尾をひとつ振った。
「君たちは、互いを縫い合った。糸の名は、名。針の名は、手。縫い目は、息」
「縫い目は、美しいかしら」
「ほどく時が、いちばん美しい」
「ほどかない」
朧丸は目を細くし、
「ほどかないものを、ひとは夢と呼ぶ」
と、小声で歌うように言って、柳の影へ溶けた。
座敷に灯をともす。柚羽は濡れた髪を拭き、わたくしの古い櫛で梳いた。梳くたび、金茶の糸が音を立てずに流れ、膝の上に春の川がうまれる。
「珠乃さま」
「なに」
「わたし、あなたの花嫁になった?」
「なりました」
「式は、した?」
「しました。水と柳と、鈴と、淡雪と、尼さまと、狐が、証人」
「なら、わたしはここにいる」
彼女はそう言って、わたくしの肩へ額を預けた。
「でもね」
少し間を置いて、
「水のほうから、呼ばれる声が、まだするの」
「どんな声」
「わたしの名を呼ぶの。……もうひとつの、わたしが」
わたくしは沈黙した。留香の包みは抽斗の奥。開ければ、境いはまた濃くなる。濃くなれば、裂け目もはっきりする。
「今夜は、わたくしの名だけを聞いて」
「珠乃さま」
名を呼ばれるたび、座敷は少しだけ狭くなる。二人の間にあった空気が、ひとつの器に注がれるように減り、かわりに温度が増す。
灯は静かに燃え、白檀の香は焚かずとも、髪から、指から、遠い日の衣桁から、微かな線を立ちのぼらせる。
夢の淵で、わたくしはひとつの光景を見た。
橋の下、薄紅の水。白衣の花嫁が舟から身を乗り出し、鈴を胸の中へ落とす。鈴は骨の間をすり抜け、花粉のような音を発して、心臓の脇に沈む。
花嫁は顔を上げる。顔は、柚羽であり、姉であり、わたくしでもある。
「おまえは、だれの花嫁」
水が問う。
「だれでもない。だれかひとりの」
答える声は、三つの喉から同時に出る。
その時、闇の向こうから、もうひとつ鈴の音。舟は二艘、花嫁は二人。二人は互いに鈴の音を追い、橋の中央で肩をふれ、ひとつに重なろうとして――
風が、灯を攫った。
目覚めると、柚羽の指が、わたくしの喉もとに触れていた。
「息を、確かめていたの」
「息?」
「わたしの縫い目が、ほどけていないか」
「ほどけない」
「ほどけるよ。ほどいたのは、あなた」
「縫ったのも、わたくし」
柚羽は微笑み、
「じゃあ、好きにして」
と言って、もう一度目を閉じた。
明け方、遠くで梵鐘の音がした。花影寺の鐘は、霧の朝に最も深く響く。音は石の上を歩き、水の肌に座り、やがて屋敷の梁を叩く。
わたくしは起き上がり、襖を開け、庭を見た。柳の先に、朧丸が座り、尾で露を払っている。
「おはよう」
「おはよう」
「夜は、ほどけなかった」
「昼が、ほどくよ」
「昼?」
「昼は、影をくっきりさせる」
朧丸は欠伸をし、
「影がくっきりすれば、本体も問われる」
「問われれば、答える」
「答えれば、ひとつ失う」
「なにを」
「曖昧さ」
「曖昧さは、必要?」
「愛にはね」
朧丸は笑って、柳の根元へ沈んだ。
その日のうちに、花影町には三つの噂が流れた。
ひとつ、昨夜、水路の花嫁がひとり、橋の下で影と結ばれたこと。
ひとつ、蜃楼堂の澄川が、留めの香にさらに強い配合を施し、「玻璃(はり)の息」と名づけて売り出すと吹聴したこと。
ひとつ、鷺ノ宮の静音夫人が、屋敷の奥で、白い衣を幾襲(かさね)も鏡に映し、「美は死の準備」と書き付けをしたこと。
噂はいつも、わたくしの門前で足を止める。わたくしは門を閉ざし、柚羽の髪を梳いた。
「玻璃の息」
柚羽が名を繰り返す。
「吸えば、わたしはもっと、ここに?」
「わからない。けれど、玻璃は割れる」
「割れれば、光る」
「血が出る」
「あなたの手からなら、平気」
その無邪気な残酷に、わたくしの胸は甘く痛む。
夕刻、紅蓮尼さまがひとりで訪れ、座敷に坐した。
「契りを結んだそうですね」
「尼さまも、噂で」
「噂は、誰より早く祈りを聞くのです」
尼さまは、わたくしと柚羽を順に見て、
「契りは、ふたりの間だけで済むものではない」
と言った。
「誰と」
「死と」
静かな言葉。
「生きて結ぶなら、死にもまた、印(しるし)を押してもらわねばならぬ」
「どうすれば」
尼さまは数珠を掌に返し、
「明夜、祭の終い。水路の真ん中で、鈴をふたつ鳴らしなさい。ひとつは生の鈴。ひとつは死の鈴。ふたつを鳴らし、鳴り止んだあとでも手を離さなかったら――」
「離さなかったら?」
「花は、ここに残る」
柚羽が、わずかに震えた。
「手を、離さない」
尼さまは頷き、
「離さなければ、離しても離れない」
と、難しい謎のような言い方をして、立ち上がった。
戸口でふと振り返り、
「忘れてはいけない。残るということは、朽ちるということです」
と結び、去った。
夜のはじめ、わたくしたちは水路へ向かった。町は三夜目の支度で、灯は昨夜よりも低く、影は昨夜よりも濃い。
橋の中央に立つと、欄干に結ばれた鈴が二つ、風を待って揺れている。
「生と、死」
柚羽が指先で、鈴の輪を確かめる。指に触れた金属が、冷たい花粉のように指紋へ散る。
「どちらが、どちら」
「鳴らしてみれば、わかる」
わたくしは彼女の手を握り、ふたりで一度に鈴を鳴らした。
音が重なる。重なって、一方がわずかに沈む。
「いまのが、生」
柚羽が言う。
「では、もう一度」
ふたりで、もう一度、鳴らす。
こんどは、もう一方が、半歩だけ長く尾を引いた。
「これが、死」
「どちらも、美しい」
わたくしは呼吸を合わせ、ふたつの鈴の紐を、両の手で固く握った。
「鳴り止んでも、離さない」
柚羽が頷き、わたくしの手に手を重ねる。
わたくしたちは同時に鳴らした。
音は水を震わせ、柳の髪を逆立て、屋根瓦の継ぎ目へ潜り、遠い寺の鐘の奥へさえ入り込んだ。
やがて音は尽きる。
尽きる、その一瞬を、指先が覚える。
わたくしは、手を離さなかった。
柚羽も、離さなかった。
風が止んだ。灯がじっとした。祭の喧噪が、厚い布で覆われたように遠のいた。
その沈黙の真ん中で、柚羽の身体の重さが、指へ、掌へ、腕へ、胸へ、ひとつずつ移ってきた。
「珠乃さま」
「ここに」
「わたしは、ここに」
「いる」
――そのとき、欄干の外、水面すれすれに、白衣の花嫁が滑った。
舟ではない。影でもない。
もうひとりの柚羽。
彼女は、わたくしの握る鈴の紐に、そっと指を添えた。
指は冷たい。
「だれ」
問うと、彼女は微笑んだ。
「わたしの、半分」
柚羽が答えた。
「今夜、ここで、ひとつになる」
「ひとつになれば?」
「重くなる。あなたの腕が、少し痛むくらい」
わたくしは、鈴の紐をさらに強く握った。
指が痛い。
痛みは、わたくしの境いを教える。境いを知って、なお越えるのが、契りの行方。
もうひとりの柚羽は、欄干の外から、ゆっくりと身を屈めた。水は彼女の裾をなぶり、灯は彼女の髪に火の粉を散らす。
「珠乃さま」
本当の柚羽が、わたくしの耳に囁く。
「今、手を離せば、夢になる。離さなければ、朽ちる」
「朽ちても、あなたは香る」
「あなたの手で、わたしは香る」
鈴はもう鳴っていない。鳴っていないのに、耳の奥で、遠い音が細く続く。
わたくしは、手を離さなかった。
欄干の外の柚羽が、指先を紐からわたくしの手へ移し、掌の上で、静かに溶けた。
重さが一度、消え、すぐに戻る。
重さは、昨夜より、確かで、やさしく、凶(あや)うい。
「これで、わたしは、ひとり」
柚羽は小さく息を吐き、額をわたくしの肩に落とした。
橋の下で、水がひとつ笑った。
紅蓮尼さまの数珠が、遠くでひとつ鳴った。
淡雪が、人混みの中で、涙を落とす音を隠すように笑った。
澄川は、琥珀の眼鏡に映る灯を一つ、指で弾いた。
朧丸は、柳の根方で尾を丸め、
――ほどく時が、いちばん美しい
と、夢の中へ言い残した。
こうして、わたくしたちは、水の前で、死と生の中ほどに立ち、花嫁の契りを結んだ。
手は離れない。
離しても、離れない。
重さは、ここにある。
ここにあるものは、やがて朽ちる。
朽ちるものは、たしかに香る。
香りは、今夜、わたくしたちの息に宿り、明夜――第三夜へ、連れてゆかれるだろう。
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