花影(はなかげ)の都ーー旧華族令嬢と水路の花嫁
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第一夜 薄紅の面影
わたくしの住む屋敷は、花影町のはずれ、石畳の尽きるあたりにある。水路は庭の垣の外をゆるやかにめぐり、柳が風の手つきで髪を梳く。電灯の白が夜更けに咲くようになって久しいのに、ここだけは灯心草の油を惜しまぬ古い燈の色が似合って、行き交う人影の肩に、いつまでも黄の翳を残してゆく。
屋敷は大きいが、ひとの息は少ない。父母は疫に倒れ、姉は春の雨の夜、花のように熱を燃やして去った。葬列の鈴が遠くへ傾く朝、紅蓮尼さまが白い手で数珠を繰り、「生まれたる花は、散るさだめにてこそ」と、まことのような、夢のような声を出されたのを、わたくしは今も耳の底で聞く。
それ以来、屋敷の柱は乾いた箏の胴のように冷え、廊の端に臙脂の帳を垂らしても、誰かの歩む気配は戻らぬ。けれども、静けさは嫌いではない。静けさには、亡き者たちの言葉が沈んでいて、目をつむれば、薄紅の面影が、障子の雪のように降りて来る。
その晩も、春まだ浅い霧が庭に敷かれて、石の燈籠は腰まで霞をまとっていた。わたくしは縁側に坐して、庫裡の方角からかすかに漂う白檀の香をかぞえていた。香は姉が好んだもので、蜃楼堂の澄川という、女でも男でもない声の主人が調合したと聞く。香を焚くと、眠りの底に階を設けて、足裏からゆっくり降りてゆける。降りた先に、姉が笑って待っていようと、わたくしは子供のように信じ、そして信じない。
――と、庭の水路の方で、ぽとり、と濃い音がした。梢から花が落ちる音ではない。水が何かを受けとめた音。
わたくしは裾を払って立ち、縁先から石段を降り、水路へ通う小門を開いた。春の霧は扉の継ぎ目から、舌のように中へ入り込んでいた。
水に近づくほどに、冷えが骨の内側へ忍び入る。柳の影の向こう、緩い水の縁に、白いものがひとひら寄り添っていた。花びらが寄せ集まって人のかたちをなしたかと見紛うほど、静かな白。
「……だれ」
わたくしが問うと、それはゆっくりと顔を上げた。顔、と見えたのは、薄い薄い、宵の雲を透かした月のような面(おもて)。髪は金茶の糸をほどいたごとく、水の縁で湿っている。
少女であった。
幼なごのように目を見開き、けれど微笑の仕方を知っている口元で、わずかに笑んだ。
「さむいの」
そのひとことの中に、震えも訴えも無く、ただ水から上がったばかりの鱗のような冷が、わたくしの指先へ移った。
わたくしは羽織を脱いで肩に掛け、手を取った。手は、紙のように軽く、しかし骨が美しく、細い節(ふし)が春の蕾に似ている。
「こちらへ」
わたくしは少女を座敷へ導いた。囲炉裏に炭を足し、湯を沸かし、襖を少し開けて霧の行方を見やる。少女は、座辺に置いた白繻子の座布団に、鳥が新しき枝に降りるように腰をおろし、指に残る水を、ひとつひとつ数えるみたいに払った。
「名は」
わたくしが尋ねると、少女は首を傾げて、燈の火をまぶしそうに見つめた。
「……ゆう、……ゆう?」
問いを問で返すような声。
「柚の、羽の、ゆう」
「柚羽(ゆう)――」
名を言葉に置くと、座敷の空気が少しぬくもる。名とは不思議な灯で、名のないものは影を選び、名を得たものは灯に寄る。
「あなたは」
「珠乃(たまの)と申します」
名乗ると、彼女はふっと笑った。笑みは、障子に映る梅の枝が風に撫でられる時の影に似て、儚くも明るい。
その夜のことは夢のようで、夢よりも細かい紋様があった。柚羽は湯を少し飲み、わたくしの姉の小袖を着せると、思い出したように指を胸にあてがい、
「ここに、冷たい花があるの」
と言った。
「花?」
「ええ。咲いているか、枯れているかが、わからない。けれど冷たいの」
胸に手をあてがったその姿が、どこか懐かしい。姉が熱にうなされた晩、「胸の内側で雨が降る」と言った時の、あのかたちと重なる。
わたくしは、箪笥の奥から白檀を探り、香を焚いた。煙は絹の薄様にたなびき、天井の梁を撫でて、部屋の四隅へ、思い出の影を置いてゆく。柚羽は煙を目で追い、
「夢の匂い」
とささやいた。
「夢は、匂いをしているもの?」
「ええ。忘れてしまったひとたちの、匂い」
そこで言葉はほどけ、彼女は瞼を閉じた。寝顔は、泉に天花(てんげ)が浮かぶ図のように、ただそこに在るだけで、思うよりも、見ている方が深くなる。
――朧丸(おぼろまる)
ふいに庭の方で、鼻を鳴らす気配がした。
障子の桟から夜気がすうっと滑り込む。白いものが灯の外で形を変え、狐の子のような影が、縁のぎりぎりに座ってこちらを窺う。
「来ていたの」
わたくしが目だけで問うと、影は人の言葉をたしなむように尾をひとつ打ち、笑った。
――ひとはね、愛の名で魂を食(は)むんだよ。
声とも思念ともつかぬ囁きが、白檀の煙の中へしみ入る。
「黙っていて」
わたくしの小さな叱りを聞きとると、影は灯の届かぬ庭へ溶け、柳の根方の闇に溶け、やがて闇の方が影の形をして残った。
翌朝、霧は町中の瓦に露の印を置いて去った。わたくしが座敷に入ると、柚羽は軽い痕のように目を開け、
「珠乃さま」
と呼んだ。「さま」は彼女の舌のうえで、まるで桃のうぶ毛のように柔らかな音になる。
「寒さは」
「寒さは、……きれい」
返事の仕方が、この世の言葉より半歩ほど手前に立っている。わたくしは笑い、湯を注ぎ、
「朝餉はあとにして、少し庭を歩きましょう。陽がよく当たります」
と誘う。
柚羽は頷き、小袖の裾を指で持ち上げ、わたくしの腕の軽く上を、若葉の影のように指先でなぞった。たったそれだけで、血の流れに春が混ざる。
庭は、梅がいましも終わらんとする時節で、白を中心に、ところどころ紅が残像のように枝にさした。水は浅く、底に小石が、天の文字のように散っている。
「ここへ来る前のこと、覚えている?」
わたくしは問うた。
柚羽は水面の自分の影を見つめ、影に触れぬように指先で空気を撫で、
「水の奥で、鈴が鳴ったの」
と答えた。
「春のはじめの、祭りの鈴。わたし、それを追いかけて……薄紅の橋を渡って……それから、ひとつ、落ちた」
「どこへ」
「だれかの胸の中」
わたくしは言葉を失い、ただ彼女の横顔を見た。横顔には、忘れ去られた国の地図が薄く透け、境界線が風で移ろうような、頼りない美しさがある。
その日、わたくしは柚羽を連れて、花影寺へ出た。姉の墓所に、淡い椿を供えるつもりだった。
寺は町の高みにあり、階(きざはし)を上るにつれ、露草の香りが衣の裾に喰い込む。山門の影はひんやりと、冬の名残を隠している。
「珠乃」
正面から名を呼ぶ声。紅蓮尼さまが、うす墨色の衣のまま立っておられた。白粉をふいたように肌白く、瞳は燃ゆる紅。
「お健やかに」
「ここには、健やかも病みも、うすらにじむばかりですよ」
尼さまの笑いは、古鏡の上で指を滑らせたような、乾いた光を返す。わたくしが柚羽を振り返ると、いつのまにか彼女は尼さまの脇に立ち、手を合わせていた。
「お名は」
「……柚羽と呼ばれました」
「呼ばれました?」
紅蓮尼さまは、微笑をさらに薄くして、彼女の額のあたりを覗き込んだ。
「花の名を与えられたのですね」
「はい」
「花の名を持つひとは、花に戻る」
その言葉は、祝詞のようであり、戒めのようでもある。
「尼さま」
わたくしは思わず前へ出た。「柚羽は、ここにおります。――ここに」と、胸に手を置く。
紅蓮尼さまは、わたくしの手の位置を見て、目を伏せ、
「ここは、よく燃えるところです」
とだけ仰った。
墓所へ進む石段は、鷺の羽を重ねたように白く、静かで、足音が沈む。姉の名は石に浅く刻まれ、雨の跡が、古い琴の絃のように筋を引く。
柚羽が黙って膝をつき、指で水気を払う仕草をして、
「ひとつ、似ている」
と呟いた。
「だれに」
「わたしに」
わたくしは、何かが合わさる音を、胸の奥で聞いた気がした。姉と柚羽、そしてわたくし。三つの輪が、光のないところで重なり、重なりながら、なお別々の影を持つ。
紅蓮尼さまは、背より数珠を取り、低く唱えはじめられた。言葉は水に落ちる花粉のように、すぐ沈み、すぐ消える。
「この町にはね」
合間に、尼さまはわたくしにだけ聞こえるほどの声でおっしゃる。
「花のかたちをして現れる魂があるのですよ。それを抱いた者は、花と共に朽ちるのです」
わたくしは唇を噛んだ。
「朽ちるなら、いっそ一緒に」
尼さまは首を振った。
「朽ちは、一緒であって一緒ではない」
それ以上は、灰のように静かな沈黙が続いた。
寺を下りる道の途中、花街へ折れる路地で、淡雪に出会った。
「まあ、珠乃」
真珠色の肌に薄紅を挿し、袖口に甘い匂いをひそめた彼女は、わたくしたちを見るなり、玉簪を軽く鳴らして笑った。
「いい人を連れているのね」
柚羽はおずおずと頭を下げる。淡雪はその頬の白さに、どこか刺すような視を寄せ、
「あなたはいいわね、誰かを愛する資格をまだ持ってる」
と、風鈴の鳴るほどの声で言った。
「資格なんて」
「あるのよ。わたしには、それがないの」
淡雪は笑みを解いて、指先で自分の喉のあたりを撫でた。そこには、藍の薄い痣(あざ)が、襟足の影に似て残っている。
「お座敷?」
「ううん、ただの季節」
彼女はすぐにいつもの冗談めいた色に戻り、柚羽の髪を覗き込む。
「いい色。水の上でよく映える」
「水の上で、わたしは落ちたの」
「落ちた?」
「ええ。だれかの胸の中へ」
淡雪は、ほんの瞬きほどの間だけ、眼差しを固くした。それから、わたくしの顔を見ず、肩の上の空を見上げ、
「お幸せに」
と言い、踵を返した。足取りは軽いのに、影は濃い。影の中に、笑いと泣きの両方が置き去りにされている。
屋敷へ戻ると、澄川が来ていた。蜃楼堂の主人は、琥珀の眼鏡に薄い春の空を映し、女のような、しかしどこか鳥の声に似た高音で、
「お噂の、新しい花」
と挨拶した。
「薬を、少し。夢見を和らげるものを」
わたくしが言うと、澄川は唇の端を上げ、
「夢は、和らげるほどに、形を得ますよ」
と、諧謔(かいぎゃく)の匂いを含ませた。
「形を得た夢は、香に宿り、香とともに消える」
「消えるのですか」
「ええ。だからこそ、香は尊い。消えゆくために焚くのです」
彼は包みを差し出した。細い紙に、蒼い字で「留香(とめこう)」とある。
「これは」
「香を焚けば、今この座敷に漂うものの輪郭が、少しだけ太くなります」
「太く」
「つまり、そこに居るものが、居るようになる。居ないものが、居ないようになる」
柚羽は、包みを見て、指先を胸へ寄せた。
「焚かないで」
かすかな声。
「どうして」
「香りが、わたしの境い(さかい)に触れる」
澄川は満足げに眼鏡を押し上げ、
「賢い花ですね」
と呟き、帰り際、縁側で振り返って、
「夢に、毒がないとお思いですか」
と、誰にともなく問いを置いた。
その夜、わたくしは包みを開かなかった。ひとつには、柚羽の願い。ひとつには、紅蓮尼さまの言葉が、白い灰のように胸の底に積もっていたから。
柚羽は、わたくしの膝に頭を預け、髪をほどいて、
「珠乃さま」
と呼んだ。呼ばれるたび、名は水面で輪を広げ、屋敷の柱、障子、庭の石、灯籠、柳の枝、すべてのものに触れては静かに消えた。
「わたし、あなたを知っている」
「どこで」
「ここで」
彼女はわたくしの胸に指を置く。そこは、燃えるところ、と尼さまが言った場所。
「あなたの中で、わたしは、ずっと眠っていたの」
「夢?」
「夢の、匂いのかたち」
わたくしは息を飲み、彼女の髪の一束を指に絡めた。金茶の糸が、指の環に柔らかく従う。
――ひとはね、愛の名で魂を食むんだよ。
庭の闇で、朧丸が笑う。
「黙って」
声に出さずに告げると、闇はまた闇のふりをする。
やがて、遠くから祭りの音がした。鈴、太鼓、拍子木。春のはじめの音が、夜気の溝を伝って座敷の畳に粒となって降る。
「鈴」
柚羽が顔を上げる。
「行きたい?」
「行けば、思い出す」
「何を」
「落ちた時のこと」
わたくしは彼女の手を取り、竹の籠に薄羽織を入れ、門を出た。町は霧のあとの湿りを残し、電灯は若い星のように揺れている。
花影の通りは、人が花のように群れ、笑い、歌い、踊る。紅の仮面、金の帯、白紙の鈴。子らは狐の面をかぶり、女は椿の簪を挿し、男は酒の香りで春を口にする。
「狐だ」
柚羽が笑う。
「狐なら、うちの庭にも」
「うん。あれは、あなたの影」
「影?」
「ううん。影のふりをする、あなたの未練」
わたくしは足を止め、彼女の横顔を見た。祭りの灯が彼女の頬の上で小さく跳ね、瞳を通り抜け、背後の闇へ散る。
鈴の輪が列をなし、白衣の巫女が通る。鈴の音は水の泡立ちに似て、弾けては生まれ、生まれては弾ける。柚羽がその一行へ、糸を引かれるように歩を進める。
「待って」
わたくしは袖を掴んだ。
巫女の列の中に、一瞬、淡雪の面影を見た気がした。紅の口元、白い喉。その喉に、藍の影。
「珠乃さま」
柚羽はわたくしの手を、そっと外す。
「思い出すのが、こわい?」
「こわいのは、わからないまま抱きしめること」
ふいに、紅蓮尼さまの声が、鈴の音の向こうで重なった気がした。
――抱いた者は、花と共に朽ちる。
「朽ちてもいい」
わたくしはどこへ向けてともなく言い、柚羽の肩を引き寄せた。
「いけませんよ」
やわらかな、しかし凍るような声が、背後から落ちた。
振り向くと、鷺ノ宮の静音夫人が、白衣に金の十字を胸に、舞台の袖のような陰から姿を現した。
「魂など、生きるより美しく死ねるならば、それでよいのですわ」
夫人は鈴の音を背景に、微笑みをつくる。
「あなた――柚羽さん? あなたのような花は、咲き切ってから散るのがよろしいの」
柚羽は黙って夫人を見た。その眼差しは、古い絵の金泥が手の脂でかすれる寸前の光に似て、危うくうつくしい。
「珠乃」
夫人はわたくしの名を、母のともだちであった時分の調子で呼ぶ。
「あなたは昔から、冷たい美しさが好きだった」
「いいえ」
「いいえ?」
「あたたかいものが、冷たく見えるだけ」
夫人は哀れむでも、笑うでもなく、わたくしの眉の辺りに目を留め、
「あなたは、燃える場所を、氷で覆うのが得意」
と言い、鈴の列へ身を投じた。白衣の裾が、雪鳥の尾のようにわずかに遅れて揺れ、すぐ人波に呑まれた。
祭りが遠ざかると、町は夢の寝息をはじめる。わたくしと柚羽は、川面に灯を映す橋のたもとに立った。
「薄紅の橋」
柚羽が呟く。
「落ちたのは、ここ」
橋の欄干に指を置き、水を覗く。水は、夜の裏地のように黒く、しかしところどころ、灯の色の糸が走る。
「わたし、あの夜、鈴を追って――」
言いかけて、彼女は唇を噛んだ。
「言わなくていい。いまは」
「言わなければ、わたしはここに居られないかもしれない」
「言っても、居られないかもしれない」
ふたりの言葉は、欄干の上で向かい合い、そこで静かにほどける。
風が起こり、柳の枝がわたくしたちの肩に触れた。触れたのは枝か、風か、誰かの指か。
「帰りましょう」
わたくしは彼女の手をもう一度取った。
指は冷たい。けれど、その冷たさは、硝子の心が遠くでかすかな音を立てる時の冷たさで、壊れそうで壊れない、壊れた時にこそ、光を撒く冷たさ。
屋敷へ戻ると、朧丸が門の石に座って、尾で石段の苔を撫でていた。
「おかえり」
「ただいま」
柚羽が応える。朧丸は目を細め、
「君は、ひとの胸に落ちた花だね」
「そう」
「花はね、花瓶の水が澄んでいるうちは、美しい匂いを保つの」
「水が濁れば?」
「匂いは甘くなって、重くなって、最後には毒になる」
柚羽は笑った。
「毒でも、あなたは舐めるでしょう」
朧丸は肩を竦め、
「人間は、毒に名をつけて、愛と呼ぶ」
と言い、灯のほうへ跳ねて消えた。
その夜更け、わたくしはついに留香の包みを開いた。
柚羽は寝息を立て、薄い唇が灯の色を吸っている。焚口に粉をひとさじ落とす。
香は、雪が溶けて白い土になる瞬(またた)きの匂いがした。座敷の輪郭がわずかに太り、畳の目が深くなり、柱の木目が、過去の川の流れを見せ始める。
柚羽の姿は――
濃くなった。
まるで、これまで彼女の周囲に置かれていた薄い硝子が取り払われ、空気と同じ重さを手に入れたように。
「柚羽」
名を呼ぶと、彼女のまぶたが震えた。
「わたくしは、あなたを、この世に留めたい」
言った瞬間、香の煙が揺れ、座敷の隅に影が立った。
紅蓮尼さまでも、淡雪でも、夫人でもない。影は影のまま、しかしその内側で、鈴がひとつ鳴った。
――魂を縫いとめる毒。
澄川の声が、どこからともなく追い打ちをかける。
わたくしは手を退(の)けかけて、退けなかった。
香が尽きるまで、わたくしは黙って、柚羽の輪郭が世界に馴染んでゆくのを見ていた。香が尽きると、輪郭はそのままに、匂いだけが去った。
わたくしはそこでやっと、長い息を吐いた。
「珠乃さま」
柚羽が目を開ける。
「わたし、重くなった」
「ええ」
「重くなると、落ちなくなる?」
「落ちる場所が、ここになる」
彼女は微笑し、わたくしの手に自分の手を重ねた。
「ここが、わたしの水」
わたくしは頷いた。
夜はさらに深く、屋敷の柱の中で、古い木霊が眠りに就く。
庭の柳は、風のない空気を梳き、燈籠の脚に白い蜻蛉が止まる。遠くで、祭りの鈴が最後のひと振りをし、音の尻尾を夜の裏地へしまい込んだ。
わたくしは、柚羽の髪に口づけし、「薄紅の面影」と、胸の内でゆっくり呼んだ。
面影は、呼ぶほどに、こちらを振り向く。
そして、そのたびに、わたくしはすこしずつ、花に似てゆくのだった。
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