第二章 想いの紺碧

二年前〜チャコール・グレイ〜

チャコール・グレイと朝のひと時

 夜の静かな空気の名残がまだかすかに漂う海辺の町並みを、朝日が照らす。

 チャコールは肩に大きなカゴをかついで、島の石畳を軽い足どりで下っていく。

 パンの匂いと潮風が混ざって、鼻の奥がくすぐったい。


「おはようございまーす!」


 まだ眠そうな老人が戸口に顔を出すと、チャコールは笑顔でパンの袋を差し出した。

 ついでに郵便ギルドから預かった手紙を取り出す。

 老人は「まったく、あんたは朝から元気だねえ」と苦笑して、手紙を受け取った。


 だって、元気じゃない朝なんて、どうやって歩き出したらいいのかわからないよ。

 心の奥のほうで、そんな声が少しだけ響いた。

 でもチャコールは首をふって、次の家へと駆け出す。

 風に髪をあおられながら、笑顔を取り戻すのは慣れっこだ。


 坂を下りきると、教会の白い屋根が見えてきた。

 子どもたちがもう外で待っている。

 チャコールは大きく手を振って、

「おはよう、みんなー!今日はね、パン屋のおじさんがチョコをおまけしてくれたのー!」

 と明るく声を上げた。歓声が返ってくる。

 ――こういう瞬間が、いちばん好き。

 自分が誰かの朝を少し明るくできる。それが実感できる瞬間が、チャコールは何より好きだ。

 

 それなのに――

 ふとカーマインとレモンの笑い声が脳裏をよぎる。

 二人の姿が、海の向こうの光みたいに遠く感じた。


 子どもたちがパンを分け合う。

「ありがとう、チャコ」

 寮母のオリーブ・グリーンが、あたたかいふくよかな手のひらでチャコールの頭をなでる。

 この瞬間は、チャコールはまるで幼い子どものころに戻ったかのような気持ちになる。

 この「こどもの寮」で暮らしていたころ。

 なにも知らずに明日を夢見ていたあのころに。

「またいつでも遊びにきてね」

 オリーブの優しい笑顔。あのころより少し丸くなり、少ししわが増えたけど、変わらない、安心できる笑顔だ。

「うん、今度絶対遊びに来るよ」

 そう答えながら、しかし、チャコールは心の中で自問する。

 ――遊びに来るひまなんてあるかなあ?

 剣だってもっともっと練習しなくちゃいけないのに。

 あたしはもっと強くならなきゃいけないのに。

 ――そんな心の声を振り払い、チャコールは笑顔で手を振った。

「おねえちゃん、またねー!」

 子どもたちの声に背中を押してもらいながら、次の家へと走り出す。


「今日も精が出るねえ」

 漁師のおじさんがそう言って、天日干しした赤墨イカをくれた。

 農家の奥さんは「ちょっとこれたくさんあるから持ってって」と青菜をたくさんくれた。

 配達が終わるとパン屋さんは「焦げたやつで悪いけど、おまけ」と言って、大して焦げてない大きなパンをくれた。

 これで当分ご飯には困らなそうだよ、とチャコールは笑う。

 みんなのおかげで生きているなぁと、あらためて思う。

 

「よいしょっと」

 チャコールは、顔の位置くらいまである大きな剣をかつぐと、深呼吸をひとつして背筋を伸ばした。

 今日の配達は無事終わった。「こどもの寮」の子どもたちも、町の人たちも、みんな笑顔だった。

「さ、カーマインたちのところに行かなくちゃ」

 小さくつぶやき、扉を開けるり

 待ち合わせ場所は、洞窟の南側、町の外れの小さな見晴らし台。

 そこからは、朝の光に照らされた海と島の家々が一望できる。

 チャコールはそこに向かって走る。心の中で小さく呪文を唱えるように自分に言った。

 「今日も、笑顔で、楽しく。みんなと一緒に—―」


 でも、頭の片隅にはいつもカーマインとレモンの姿がちらつく。

 カーマインの相変わらず無邪気で、太陽みたいに明るい笑顔。

 レモンのあきれたような顔。数日前に言われた言葉。

 ――足を引っ張るくらいなら、何もしないでほしいんだけど。

「大丈夫かな、今日は怒られないかな。嫌われたくないな……」

 胸の奥でせりあがる感情を、チャコールはぎゅっと押し込む。

 それでも、足は自然に速くなる。

 待ち合わせ場所で二人に会えれば、きっと、今日も楽しい時間になるはず。


 見晴らし台に着くと、海からの風が顔を撫でる。

 カーマインはもう着いていて、手を振ってくれる。

 レモンは少し離れたところに立ち、日の光を受けて輝く髪をそよがせていた。こちらに振り向き、ニコッと笑顔を見せてくれる。

 チャコールの心がぱっと明るくなった。

「……あれっ」

 チャコールに手を振っていたカーマインが、目を丸くしてチャコールの後ろを見る。

 チャコールは振り向いた。

「……おはよう」

 カーマインの父――この島の島主、バーミリオン・レッドが、坂を上ってくるところだった。

「親父!どうかした?」

 カーマインが歩いてくる。

 後ろのレモンの表情に、少し緊張の色が走ったことに、チャコールは気づき、あれっと思った。

「いや、ちょうど洞窟の見回りに来ただけだ」

 バーミリオンはそう言って、ふとチャコールを見て言った。

「元気でやってるか」

「はい!おかげさまで、今日もめっちゃ元気です!」

 チャコールは笑顔で答える。バーミリオンは無口だが、こうしてなにかと気にかけてくれていることを、チャコールはよく知っていた。

「ならいい」

 そう言ってバーミリオンはきびすを返そうとする。

「あ、親父!この子!前話した、レモン!」

 カーマインが慌てて呼び止める。バーミリオンはそこで初めて気がついたとでもいうように、レモンを見た。

「はじめまして。レモン・イエローです」

 レモンは美しく微笑み、優雅に頭を下げた。

 朝日に照らされてさらさらの金髪がキラキラ輝き、チャコールも見とれるほどだった。

「ああ、きみが……大陸からいらしたという」

 バーミリオンはうなずいた。「島主のバーミリオン・レッドです。息子がよくしていただいてるようで」

「とんでもないです、わたしの方こそ、息子さんにはいつも助けていただいていて、勉強させていただくことがたくさんあります」

 レモンはそつなくすらすらと返す。

「まーたまたあ。ホントかよー」

 カーマインが茶化す。レモンは華麗にスルーする。

 レモンと二、三言交わし、じゃあ、とバーミリオンは坂を下って行った。

 坂の下に、朝日に照らされてほのかに赤く、カーマインの家が見える。

 チャコールは昔、バーミリオンに剣を教わったり、カーマインの家でごちそうになったりしたことを、懐かしく思い出していた。

 バーミリオンは変わってない。

 カーマインだって、変わってない。

 変わったのはわたしだ。

 距離を取るようになったのもわたしだ。

 もう昔のように、あの家で、食卓を囲むことは、ないんだろうな。

 そんな心の声を振り払うように、チャコールは大きくうなずいて、笑顔を作り、

「よし、行こう!」

 カーマインとレモンに向かって、明るい声をかけた。

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