第12話 裁判への序章
目を開けると、神々の創世を描いた天蓋の絵が視界に入った。
その前に、私は眠ったふりをしたまま、人々に運ばれていくしかなかった。
周囲が完全に静まり返ったとき、ようやく警戒を解き、そっと身を起こす。
「……お目覚めになりましたか?」
氷晶のように無機質な声が、正面の紅檀の大きな書棚の裏から響いた。
水色の教服に身を包んだ人物が、その隙間から顔を覗かせ、耳のあたりで揺れる幾筋もの銀白の髪。
腕に抱えていた数冊の本を棚に戻すと、フォスタスはまっすぐこちらへ歩み寄ってきた。
隣の寝台に視線を向けると、そこは空だった。
ランスヴィル様は別の場所に移されたのだろう。
とはいえ、事前に取り決めたとおり、私たちは最後まで“昏睡状態であり、互いの存在を知らない”と主張しなければならない。
「ここは……どこなのでしょう?」
「ここは皇都大聖堂付属の建物、聖霊の間の二階、病人を収容するための部屋です。」
「……ずいぶん長いこと眠っていたような気がしますわ。何か、起きたのですか?」
「本来であれば、すぐに解毒の薬をお飲みいただくところですが……まずは事の経緯をお聞きになってからお決めになった方がよいでしょう。」
そう言って、フォスタスは静かに立ち上がり、自らの視点から今回の事件の経過を語り始めた。
彼はいつも通り自室で読書をしていた。そこへ突然、ヴァレン公爵が訪ねてきたのだという。公爵はひどく焦った様子で、理由も説明せぬままフォスタスを連れて馬車に乗り込んだ。事の重大さを悟ったフォスタスは、問う暇もなく彼の後に続いた。
道中でヴァレン公爵は事情を説明した。
——皇太子との会議の最中、皇女が突然現れ、皇太子妃と護國卿の“私通”と訴えたという。驚いた皇太子と大臣たちはすぐに離宮へ向かい、密室で倒れていた二人を発見した。
フォスタスは医師としてその場で診察に当たり、昏睡している二人の身体を詳しく調べた。皇室の名誉に関わる一件である以上、軽々しく結論を出すべきではないと進言し、症状を分析するために一日だけ猶予を願い出たという。
「……わたくしとランスヴィル様が、密室で倒れていた?なんて奇妙な話でしょう。」
混乱したふりをしながら額に手を当て、私は深いため息をつく。
「少なくとも、私やあの場にいた者たちには、そう見えました。」
フォスタスは表情を変えずに淡々と事実を述べ、そばの机から空の薬瓶と細身の小刀を取り上げた。
「毒の成分を調べるため、皇太子妃様の腕から少量の血をいただきたいのですが……よろしいですか?」
「……痛いですの?」
「恐れることはありません。目を閉じて、蟻に噛まれたと思っていただければいいです。これは、皇太子妃様の潔白を証明するためでもあります。」
「……わかりました。お任せいたしますわ。」
緊張のあまり喉が鳴る。
私は目を閉じ、差し出した腕をそっと伸ばした。冷たい液体が皮膚に触れ、刺激的な酒精の匂いが漂う。次の瞬間、針のような痛みが神経を伝って脳へ届いた。唇を噛みしめ、身を震わせぬよう耐える。
やがてフォスタスは白い包帯で傷口を覆い、「しばらく押さえてください」と告げた。言われた通りに圧をかけているうちに、血は止まっていた。
「これで、本当に薬の成分が分かるのですか?」
「もし安神花であれば、容易に判別できます。」
フォスタスは背を向け、机の上の瓶をいくつか手に取っては置き、乾いた音を立てた。
「現在、皇都で流通している鎮痛系の薬の多くは安神花を原料にしています。少量であれば害はありませんが、大量に用いれば幻覚を引き起こし、昏睡状態に陥ることもあります。近年、この花を悪用する事件が相次いだため、教会では使用を厳しく制限し、研究を続けているのです。」
フォスタスは透明な液体をほんの少し、血の混じった小瓶に注いだ。ゆっくりと揺らすと、消毒液のような酒精の香りが立ち上る。
「やはり……皇太子妃様と護國卿様は、安神花の毒に侵されていました。」
「どうしてそんなことに……?」
そう問うと、フォスタスは静かに答えた。
「安神花の毒素は水と混ざると酒精の匂いを放ちます。これは教会が最近発見した検査方法でして、実験数がまだ少なく、公にはされていませんが……お二人の血液から、確かにその反応がありました。」
「そう……それなら、わたくしたちは運が良かったということですわね。」
「ええ。護國卿も同じ症状でした。もし頭痛や吐き気が残るようでしたら、このリコリス草から作った薬をお飲みください。少し楽になるはずです。」
「ありがとうございます。」
瓶を受け取り、私は一息に飲み干した。
思いのほか苦味はなく、淡い甘さと草の香りが口に広がる。
「これは……砂糖か蜂蜜を加えていらっしゃるのですか?」
「いいえ。リコリス草そのものが甘いです。」
「そう……。」
「では、もうお加減もよろしいようですし、皇太子様にご容体を報告してまいります。お身体が完全に回復されるまで、この聖霊の間でお休みください。明日、再び診察に伺います。」
フォスタスはいつものように丁寧に一礼し、書棚の影を抜けて、足早に部屋を後にした。
——治療という名の、監視。
髪を軽く乱しながら、思わずため息を漏らす。
もっとも、王宮で暮らしていた頃から私的な空間などほとんどなかったので、今さら気にすることでもないのかもしれない。
これは私だけのことだろうか。護國卿の行動にも、制限があるのでは……?
証拠を探しに動くことは、許されているのだろうか。
翌朝、私が目を覚ますよりも早く、フォスタスの声が響いた。診察を終えたあと、彼は皇宮からの新しい知らせを伝えた。
——三日後、皇太子妃と護國卿の“私通の件”が、教会法廷で公開審理される予定だという。
「まさかここまで大事になるとは思いませんでした。ですが、私が証拠となる検査結果を提示し、皇太子妃様の無実を証明いたします。必ず、良い結果になります。」
いつになく柔らかな声音だった。私の表情に滲んだ不安と疲れを感じ取ったのだろう。
「ありがとうございます、フォスタス卿。……わたくしは大丈夫ですわ。」
彼の穏やかで理性的な言葉に、私はほんの少し救われた気がした。
神はきっと、潔白な者の側に立ってくださる。
私はひとりではない。
「お身体に支障がないのなら、審理までの限られた時間で、できる限り有利な証拠を集めたいのですが……外出してもよろしいでしょうか?」
「ううむ……護國卿様とヴァレン公爵も、すでに証拠集めに動いておられるようです。皇太子妃様がどうしても行きたいというなら、私も反対はしません。」
「自分の運命は、自分で掴みたいのです。フォスタス卿なら理解してくださいますよね?」
「……理解します。ですが、事件の黒幕が再びあなた様を狙う恐れがあります。ですから、これから三日間、私は常にそばにいさせていただきます。」
「フォスタス卿が……わたくしをお守りに?」
「ええ。皇太子妃様はエドの大切な方であり、私の友人でもありますから。」
思いがけず告げられたその言葉に、胸が温かくなった。
静かに頷き、彼に微笑みかけた。
「それでは、これから三日間……よろしくお願いいたしますわ。」
まず、私たちはあの日セモニエ皇女とお茶を飲んでいた場所を調べに行った。
私とセモニエは、ふたりとも静かな場所を好むため、普段から侍女を遠ざけて会話することが多い。そのゆえ、私が倒れた瞬間を目撃した者はいなかった。あの日の机の上に、茶器や茶の残りが残っていないか調べたが、結果は——何もなかった。
さらに、侍女たちにも当日の様子を尋ねてみた。彼女たちの話によれば、セモニエ皇女は一人で戻り、「皇太子妃のご機嫌がすぐれないので、しばらくひとりにしてあげてほしい」と告げたという。
その言葉を信じ、侍女たちは皇宮のあちこちを探し回ったが、私の姿はどこにもなかった。夕刻になっても見つからず、不安が募る中、誰かが皇女が議事堂へ駆けていくのを見かけ、「きっと見つかったのだ」と安心したらしい。
だが、その夜、皇太子一行が戻った直後、“皇太子妃と護國卿が密通した”という噂が流れ、侍女たちは再び恐慌に陥った。
私に仕えて長い侍女のファロールは、その日、法廷で証言すると申し出てくれた。
「こんなの、どう考えても罠じゃないですか!」
ファロールは怒りを隠さなかった。
「皇女様はヘローナ様の信頼を利用して、わざと侍女を遠ざけ、毒を盛ってから連れ出したんです。ヘローナ様は、護國卿様との関係は公務以外にないことも、皇太子様と夫婦として深い信頼を結ばれていたことも、私たちはよく知っています!」
「ありがとう、ファロール。こんな時に力になってくれるなんて……本当に感謝しているわ。」
「ご心配なく。たとえ偽証だとしても、ヘローナ様をお守りします!」
次に問題になったのは、皇女がどうやって私を皇宮の外へ運び出したのか、という点だった。
ファロールの話では、侍女や侍衛たちは時おり“裏の通路”を使うことがあるという。セモニエ皇女とお茶を飲んでいた庭園の一角にも、灌木で隠された小道があるかもしれない、と。
その話を確かめるため、私たちは手分けして探した。案の定、鉢植えが並ぶ棚の裏、一見ただの植え込みの奥に、狭い通路が続いていた。そこを抜けると、森へと続く小径が現れた。踏み固められた跡から、かなり多くの人が往来していることが分かる。さらに進み、三十分ほど歩いたころ、ようやく開けた場所へ出た。
二つの街道が交わる場所で、宿屋、酒場、馬屋などが並ぶ小さな宿場だった。宿の主は年老いた男で、客は休息中の商人や護衛の兵士ばかり。その主人に声をかけ、「昨夜、怪しい人物を見なかったか」と尋ねた。老人は少し躊躇したが、私たちの服装を見て王宮関係者だと悟ったのか、正直に答えてくれた。
「昨日の夕方、変わった女を見たんだ。顔も髪も粗布で覆っていたが、美しい青い瞳をしていた。低い声で“外の荷車を売ってくれないか”と頼まれてね。古い荷車だったから安く売ったんだが、帰り際に、屈強な男が彼女に二つの大きな麻袋を渡していた。ずいぶん重そうで、長い形をしていた。彼女は苦労して荷車に積み、代わりに男へ小さな袋を手渡したあと、その男は姿を消したよ。」
「つまり……あの男が、わたくしと護國卿様を皇宮から運び出し、そのあと皇女が荷車で離宮まで運んだ、ということですね。」
フォスタスと顔を見合わせた。
——まさに、皇女が犯行を行った目撃証言だった。
私は耳飾りを外して老人に渡し、「三日後の法廷に証言してほしい」と頼んだ。
「主人様が見たことをそのまま話してくれれば、必ず礼をお支払いします」と。
ところが老人はため息をつき、ぼそりと呟いた。
「……また、あの皇女か。」
「ご存じなのですか?」
「見覚えがある気がしてな。あの娘、家出したときも、ここに泊まったんだ。それから数日後、皇宮の使いがやってきて、宿の名簿を提出しろと言われた。どうやら、泊めてはいけない客を泊めてしまったらしい。」
「……それは、偶然というより場所の問題ですね。」
老人は煙管をくゆらせながら、静かに言った。
「まぁ、私がこの目で見たんだ。三日後の法廷でも、そのまま話そう。礼金なんて要らんよ。その金は、もっと必要な人に使いなさい。」
「……ありがとうございます。」
宿の主人との話を終えたあと、私とフォスタスはさらに道を進み、彼の指し示した方向へ向かった。
三十分ほど歩くと、やがて離宮の敷地が見えてきた。
「どうして皇女は自分で荷車を押したのかしら?あんなに力のない人なのに。屈強な男に任せていれば、誰にも見られずに済んだのに……。」
「おそらく、離宮の近くに修繕の監督をしている侍衛がいたのでしょう。皇女様は離宮の主としてこの辺りを出入りしても不審に思われません。だからこそ、自ら運んだ――そう考えるのが自然です。」
「なるほど……それで、かえって証拠を残したのですね。」
私たちは離宮の門前で警備の兵士を見つけ、話を聞いた。昨日巡回していたという一人の兵士が、記憶を頼りに語ってくれた。
「たしかに昨晩、皇女様がお一人で何かを押して来られました。“市で買った美術品を運びたい”とおっしゃって、私に手伝いを頼まれたのです。変だとは思いましたが、皇女様は最近よく品物を集めておられましたので、特に疑うこともなく……そのまま運び入れました。」
「その“美術品”、触ったときに違和感はありませんでしたか?」
「ええ……重くて、妙に温かかったような気がします。でも、皇女様は“蝋細工でできた彫像だから、運ぶうちに少し溶けてしまったのだろう”とおっしゃって……。」
「はあ……兵士さん、あなたは、知らず知らずのうちに皇女様の共犯にされたのですわ。」
「な……なんということだ……!」
「どうか落ち着いてくださいませ。三日後の法廷で、見たままを証言してくだされば、自身の潔白も証明されます。それから――その荷車、まだ覚えていますか?」
「はい。あの二つの袋を離宮の部屋に運んだあと、荷車は庭の隅に置いたままにしました。ほかの荷車と一緒に並んでいるはずです。」
兵士に案内され、私たちは花園の一角へ向かった。そこには新しい荷車がいくつも並び、その脇に一台だけ、古びたものが立てかけられていた。
「よくやりましたわ。この荷車も、当日法廷に持って行ってください。」
こうして、二人の重要な証人を確保できた。
まだいくつか物的証拠は見つかっていないが、これで皇女が事件に関わっていた事実は、ほぼ確実になった。
思索に沈んでいた私の視線に、フォスタスの柔らかなまなざしが触れた。
「フォスタス卿……どうしたんですの?」
「ただ、ヘローナ様の無実が必ず証明されると思っているだけです。」
彼は静かに目を閉じ、両手を組み合わせて祈る姿を見せた。
「神はきっと、正しき者の味方です。」
「……ええ。そう信じていますわ。」
だが、サノー伯爵の関与を示す証拠だけは、いまだ何ひとつ掴めていないのだ。
あの屈強な男の正体、そして安神花の薬がどこから流れたのか――。
私はすぐに筆を取り、手紙をしたためた。それをその場にいた侍衛に託し、ルドヴィクスの屋敷へ届けさせる。
日が傾く頃、私とフォスタスは宿場へ戻り、馬車を借りて皇都へ戻った。フォスタスは「自室はヘローナ様の隣ですから、何かあればすぐお呼びください」と言い残した。
私は窓の外を眺めた。
聖霊の間の部屋は病人用だというのに、病の気配など一つもない。漂う酒精の匂いと、白く清潔な寝具。本棚も机も、整然と整えられていた。
王宮の外に宿をとるのは新鮮だったが、今はそんな感慨に浸っている場合ではない。
兄上から返書が届いた。
——安神花の流通経路を調査中であり、屈強な男の行方は護國卿に任せた、と。新しい進展があれば、また手紙を送ってくれるそうだ。
最後の一行だけ、筆跡が荒れていた。
「ヴァレン家を貶めようとする者たちは、必ず一人残らず粛清する。心配はいらない。」
……いつものルドヴィクスらしい言葉だった。
叱責の一つも書かれていないことに、少し安堵する。
だが、あの優雅で完璧な兄上がここまで乱れるとは、それだけ怒りが深いのだろう。
——みんな、セモニエの覚悟を甘く見ていた。
その間に、彼女は綿密な準備を整えていたのだ。
でも、もうすぐ真実は明らかになる。
心の中で、私は静かに呟いた。
ごめんね、セモニエ。
あなたを本気で助けたかった。
けれど——この茶番は、そろそろ終わりにしましょう。
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