第5話 花園に眠る禁断の箱
若き主教は静かに一礼した。束ねきれずにこぼれた一房の銀白の髪が、耳元から肩へと滑り落ちる。水色の祭服に映えるその髪と、煉瓦を思わせる深い紅の瞳、そして彫刻のように整った清冽な容貌――それこそが“神の子”の証だった。
私は隠すことなく彼を見つめた。けれど彼は、その視線を受けてもまるで気にする様子がない。すでにこのような注目には慣れているのだろう。
「帝国教会の栄光、フォスタス卿……でいらっしゃいますわね?」
わざと咳をひとつして、世辞まじりの挨拶を交わす。
本題に入るための、形式的な前置きだ。
「皇太子殿下から、あなたのお噂は何度も伺っておりますの。お忙しい中、わたくしのためにお時間を割いてくださって、本当に恐れ入りますわ。」
「臣の光栄にございます、皇太子妃様。」
彼は表情ひとつ変えぬまま静かに答えた。
「もしよろしければ、まずは体温を測らせていただけますか。」
フォスタスは携えていた木箱を開き、真っ白な布を取り出した。
「ご安心を。直接お体に触れることはいたしません。」
「ええ、お願いしますわ。」
少し緊張しながら答える。
「どのようにすればよろしいのかしら?」
「額と首筋の温度を確認いたします。目を閉じて、力を抜いてください。」
確かに、見知らぬ男性と目を合わせたままでは落ち着かない。
私は素直に頷き、そっとまぶたを閉じた。
絹のような布が肌をかすめる。
触れたか触れないか――その軽さに、思わず息を止めた。
こんな方法で本当に熱が分かるのかしら、と半信半疑になる。
「終わりました。……次に、お口を少し開けていただけますか。」
「えっ……その、少しお待ちを……お茶を一口だけ……。」
診察の手順だと分かっていながら、頬が熱くなる。
封地で診てくれたのはいつも年老いた医師ばかり。
自分と同じくらいの年の男性に口の中を見られるなんて、どうにも落ち着かない。
フォスタスは何も言わず、私が茶を飲み終えるのを静かに待っていた。
観念して口を開くと、彼は近づいて手際よく覗き込み、すぐに離れた。
「もういいです。」
ほっと息をつく。
長く見られずに済んで助かった。
彼は再び木箱から紙と筆を取り出し、短く何かを書き留めると、道具を片づけはじめた。
その動きに、私ははっとした。
――しまった。私は“診察してもらうため”に呼んだのではない。
ここからが本当の目的なのだ。
「ま、待ってくださいませ!」
慌てて立ち上がり、彼が扉へ向かう前に声をかけた。
「せっかくですし、もう少しお話していきませんこと? 大聖堂まで戻られるのも大変でしょう?」
フォスタスは手を止め、静かに私を見た。
その透明な瞳に、一瞬、わずかな逡巡の色が浮かぶ。
「臣は神官の身。……宮中のことには関わらぬよう務めております。」
「ですが、あなたは殿下のご友人でもありますわね?」
私は穏やかに笑いながら続けた。
「政治の話などいたしません。ただ少し、夫のことをもう少し知りたいだけですの。――ほんの、世間話ですわ。」
「……分かりました。」
「まあ、ありがとうございますわ!」
私は嬉しさを隠しきれず、彼の前に椅子を引いて示した。
フォスタスは一瞬だけ迷いを見せたが、結局は静かに腰を下ろした。
「では、何をお尋ねになりたいのですか。」
幼いフォスタスが、初めてその病弱な皇太子を見かけたのは、王宮で催された大規模な宴の夜だった。
当時、枢機卿であった大主教は政治や宗教の場にこの白髪の少年を同伴させることが多かった。彼は少年の非凡な才を誇示し、自らの慧眼を示すことで権威を高めようとしていたのだ。
フォスタスはそのことを十分に理解していたが、特に不満は抱いていなかった。
多くの人と接することで学べることもある――そう思っていたからだ。
やがてその才能が皇帝陛下の目にも留まり、フォスタスは王宮への出入りと皇室図書館の閲覧を許された。
それが、彼とエドワルドとの最初の出会いにつながった。
その日、彼は図書館に向かう途中で異様な気配を感じた。灌木の隙間から見えたのは、淡い金の髪と荒い息づかい。その光景だけで、彼は何が起こっているのかを察した。
足音を立てずに近づき、彼は草むらに身を伏せる少年のそばに膝をついた。そして、慣れた手つきでその額に手をかざし、体温を確かめた。
エドワルドはその瞬間、発作の眩暈の中からようやく現実に引き戻された。
「……お願いだ、誰にも言わないでくれ。」
その少年はまだ、目の前の白髪の少年が何者かを知らなかった。自分と同じくらいの年頃で、少し大きめの水色の祭服を着ている。
けれども、その目と声には、どこか静けさと落ち着きがあった。
「だが、このまま放っておくわけにはいかない。」
フォスタスは小さな革袋を取り出し、その中から細い瓶を選び出す。近くの草花を見回し、目当ての薬草を見つけると、その茎を折って液体の中に落とした。
瓶を軽く振ると、たちまち液体の色が変化し、やがて草の形も溶けて消えた。
「これを飲めば、少しは楽になる。」
彼はそっと瓶をエドワルドに差し出した。
「けほっ……まさか、毒じゃないだろうな……?」
咳き込みながらも、エドワルドは瓶を受け取り、中身を一気に飲み干した。知らない相手を疑いながらも、不思議と彼の言葉だけは信じられたのだ。そして奇跡のように、喉と胸を焼く苦しみがすっと和らいだ。
「……ふう、助かったよ。ありがとう。」
「無事で何よりです。――私はこれから図書館へ行きますので、これで失礼いたします。」
「待て!」
エドワルドは彼の服の裾をつかみ、息を整えながら言った。
「君は教会の学生か? 皇室図書館は限られた学識ある聖職者にしか開かれていないはずだ。」
「皇帝陛下のご許可をいただいております。」
「今の薬草は……どこで手に入れた? ぜひ教えてくれ。」
二人はそんな他愛ないやり取りを続けながら、いつの間にか図書館へ向かって歩き出していた。
ほどなくして、騒ぎを聞きつけたヴィリウス皇帝と家臣たちが、怒り狂ったように庭へ駆けつけてきたのだ。
フォスタスは距離を取りながら、咳き込みながら叱責を受けるエドワルドの姿を見つめた。
「……父上、私は決めた。このフォスタス卿を、私の伴読にしたい。」
「殿下にそんな少年時代があったなんて、驚きですわ。」
私は思わず笑みをこぼした。
「殿下は子どものころから少々手のかかるお方でいらっしゃいました。それは……今に始まったことではございません。」
フォスタスはわずかに唇を緩め、茶を一口含んでから静かに言った。
「年配の侍女たちに尋ねれば誰でも知っております。」
「けれど、侍女たちの話というのは、どうも信じがたい部分が多いのですわ。」
私はカップの中の茶を小さな匙でくるくると回しながら言った。
視線はそっと部屋の隅――待機している侍女の方へ向く。
「ご存じの通り、嫁入りの際に自分の家の使用人を連れてくることは許されておりませんの。ですから、今の侍女たちがどこまで信用できるのか、わたくしには分かりませんわ。彼女たち自身も知らずに噂を口にしているだけなのかもしれませんもの。」
「宮廷の出来事に関しては、私も軽々しく真偽を申し上げることはできません。」
フォスタスの声音は変わらず穏やかだった。
「すべての因果は、神の御心のもとに定められるものです。」
「神の御心、ですのね……。」
私は微かに笑い、匙を置いた。
「身近に頼れる人がいないというのは、なかなかつらいものですわ。そういえば、フォスタス卿は皇女セモニエ様の主治医でもいらっしゃるとか。殿下はいつもおっしゃるのです、わたくしに“もっと妹と親しくしてやってほしい”と。
卿から見て、あの方はどんなご性格ですの?」
フォスタスは一瞬、視線を外して沈黙した。
まるで、言葉を選んでいるように。
「皇女様はご健勝でいらっしゃいます。皇太子妃様がお望みになれば、いつでもご一緒にお出かけいただけます。宮殿でも、離宮でも問題はありません。ただ……皇都の街中に出られる際は、殿下にお伺いを立てられた方がよいでしょう。」
「そう……ですのね。」
私は顎に手を当て、心の中で考えを巡らせた。
宮殿でも離宮でも構わない、ということは――つまり、どちらの場所にも“探しているもの”はもう残っていないということか。
すでに清められ、証拠を隠されているのかもしれない。
けれど、なぜ前皇太子妃の邸で、あのときエドワルドはあんな警告の目を向けたのだろう?
「皇太子妃様。」
フォスタスの低い声が、私の思考を断ち切った。
「――あまり深入りなさらぬ方が賢明かと存じます。」
「わたくし、何のことをおっしゃっているのか分かりませんわ。」
私はわざとらしく微笑み、誤魔化した。
「まあ、皇女様はお優しい方のようですし、すぐに打ち解けられそうですわね。」
「皇女様が帝都に来られてから、まだ一年ほど。おそらく、皇太子妃様も似たようなお気持ちを抱かれるでしょう。」
――それは、エドワルド殿下が以前に話していたことと同じだった。
「皇女様のご気分が優れないという噂も耳にしましたけれど……実際のところは?」
「ただの噂にございます。先ほども申し上げた通り、皇女様のお体も心も健やかでいらっしゃいます。皇太子妃様がお望みなら、いつでもお訪ねください。」
「……ということは、月に一度の診察というのは、形式的なものですのね?」
「はい。殿下の診察も、同じように月に一度行っております。」
「なるほど……。」
それ以上、彼から新たな情報を引き出すことはできなかった。
私は微笑みながら立ち上がり、軽く会釈する。
「今日は本当にありがとうございました、フォスタス卿。」
「神のご加護が、あなたの上にあらんことを。」
彼は恭しく一礼し、静かに部屋を後にした。
「前回の集まりは人が多すぎて、ゆっくりお話しする時間が取れなかったんです……こうしてわざわざ王宮までいらしてくださって、お話しできるなんて、本当にご親切ですわ!」
私は皇女セモニエに向かって、あまり重要でもない話を取りとめもなく続けていた。
フォスタスの言うとおり、皇女は確かに多くの時間はあまり話さないものの、ときおり丁寧な笑みで私の熱のこもった言葉に応えてくれた。その様子からして、精神的に問題はなさそうだった。
「い、いえ……こちらこそヘローナ様にお礼を申し上げねばなりません。私のほうからお手紙を差し上げて、御花園を見てみたいと申し出たのです。実は、もうずいぶんと……」
言葉の途中で、彼女はふいに口をつぐんだ。言いかけた言葉を飲み込んでしまったようだった。
「……花を見るの、ずいぶん久しぶりです。」
「それはちょうどいいですわ!御花園には、色々な新品種が植えられたばかりなんですの。せっかくですから、ご一緒に見に参りましょう?」
王宮の主建築の裏手には、小さな広場があり、その中央には大きな噴水がある。噴水を回り込んで奥へ進むと、手入れの行き届いた芝生が広がっていた。
この場所は皇族や、謁見に訪れる貴族たちの娯楽のために用いられており、茶会や球技会、屋外舞踏会などがよく催される。だが、大きな催しがない時でも、ここを散歩する者は少なくない。
芝を抜けると、御花園にたどり着く。
入口の並木はとても高く、花園と芝地を分ける役割を果たしていた。
花園の中心には灌木で作られた小さな迷路があり、その中央にはガラス張りの温室が立っている。帝国でもっとも貴重な花々はほとんどそこで育てられているという。しかし、温室まで行かずとも、薔薇、アイリス、チューリップなど、よく見られる花々は枝道のあちこちに咲いていた。
「この迷路、なかなか難しいんですよ!」
私は迷路の入口まで彼女を案内し、少し困ったように言った。
「自分で何度も挑戦してみたんですけど、結局あの温室の端にもたどり着けなくて。最後は侍女たちに案内してもらってようやく中央に……でも、せっかく初めていらしたんですもの、今回は自分たちで歩いてみましょう?」
「わたくし、方向感覚があまりよくなくて……迷ってしまいそうです。」
皇女は少し恥ずかしそうにうつむいた。
「ヘローナ様が導いてくだされば安心です。」
「ええ、お任せくださいまし!」
私は自信満々にスカートをつまみ上げ、今にも駆け出したくなるのをこらえた。
「今日はきっと、中央まで行けますわ!」
私たちの後ろに控える侍女たちを思い出し、振り返って声をかけた。
「あなたたちは外で待っていなさい。もし迷ったら、そのとき呼びますから。」
そう言って、戸惑っている小さな皇女の手を取り、私は一目散に駆け出した。
正直なところ、同年代の女性とこうしてのんびり歩くのは久しぶりだった。侍女たちが悪いわけではないけれど、ファロール以外の者を完全に信頼することはできなかったし、身分の差からか、考え方を理解し合うことも難しかった。
「ヘローナ様、これは……?」
セモニエの瞳がわずかに見開かれ、驚いたように私を見た。
「ふふっ。」
私はにっこりと笑った。
「あなたも私と同じで、一日中たくさんの人に見張られているのでしょう? 息が詰まりますものね。だから、みんな外に待たせたのですわ。」
「ですが、あの方々は皇兄がおつけになった護衛で……もし、もしも刺客でも現れたら……」
「まあまあ、この世にそんなに都合よく刺客なんて現れませんわよ。御花園を歩いているだけで刺されるようなら、帝国の近衛はもう終わりですわね。」
周囲に誰もいないせいか、言葉も少し大胆になった。
前回の襲撃を思い返す。あれも夜更け、人の気配が少ない場所だったから狙われたのだろう。
「仕方ありませんわね。では、ヘローナ様にお任せしますわ、ふふ。」
今日のセモニエは、心から笑っているように見えた。その笑顔はとても美しく、エドワルドにどこか似ているけれど、彼よりもずっと純真だった。
「たとえ小さな自由でも……きっとわたくしの宝物になります。ありがとうございます、ヘローナ様。」
「気に入ってくださったなら、また遊びにまいりますわ!」
あまりに可愛らしい言葉に、私は思わず彼女の頭を撫でた。
同じ女性であるのに、彼女の体つきは私よりもずっと華奢で細い。風が吹くと、淡い金色の長い巻き髪がふわりと宙に舞い、まるで異国の書物にある金色の砂漠のようだった。
……なんて愛らしい妹分なのかしら!
笑いながら歩いているうちに、いつのまにか灌木の壁まで来ていた。道を間違えてしまったが、私は少しも残念には思わなかった。むしろ、この可憐な皇女ともう少し一緒にいられることを嬉しく感じていた。セモニエは自分を方向音痴だと言っていたけれど、私から見ればずっと頼もしかった。少なくとも、どの道を通ったか、どちらの方角から来たかを覚えているのだ。やがて、ほぼ一時間ほど経ったころ、ようやく灌木の隙間から温室の姿が見えた。
「やりましたわ!」
美しい光景が目前に迫ると、私は思わず手を叩いて喜んだ。
「もう諦めかけていましたのに。侍女たちを呼ぼうかと思ったほどですわ……でも皇女様のおかげで助かりました!」
褒められた皇女は、少し恥ずかしそうに視線を逸らした。
「……わたくしは大したことをしていません。でも、見つけられてよかったです。」
「宮廷の庭師と侍女以外は、あまりここまで来ませんのにね。」
私はガラス温室の扉をそっと開け、慎重に首を突き出して中を見回した。それから足を踏み入れ、花々を驚かせないように歩いた。
「妹君も足もとに気をつけてね。もし知らない花の芽を踏んでしまったら、宮中に弁償しないといけませんわよ……」
温室は広くはなかったが、造りはとても工夫されていた。吊り下げて育てるタイプの植物――たとえばオリヅルランやセントポーリア――は糸で天井近くに吊られ、水中で育つスイレンやスイセンのためには、小さな水池が用意されていた。その水源は外の井戸から引かれたものだという。
そのほかの土植えの花々は狭い通路の両側に種類ごとに整然と植えられ、数や配置も庭師によって厳密に管理されていた。
「見てください! あれは帝国皇室の象徴、淡い青の薔薇ですわ。」私はその特別な花に見惚れていた。
「帝都に来るまでは、こんな色の薔薇を見たことがありませんでした……」
「実は、わたくしの生まれた土地では青い薔薇は珍しくありませんの。たぶん、土壌の成分が違うのでしょうね。」
皇女の声には、どこか懐かしさと寂しさが混ざっていた。
「でも、今では温室の中にあるこの数本だけかもしれません……」
「大丈夫ですわ! 数年もすれば、帝国でも青い薔薇を育てる技術が広まりますわきっと!」
「……ええ。」彼女は軽くうなずいたが、急に振り返った。
何かを見つけたようだった。
「そういえば、あちらは庭師の道具でしょうか?」
皇女は脇の雑多なものを指さした。そこには鍬や小さなスコップ、つるはしが何本もまとめて置かれ、そのそばに小さな木箱がいくつか積まれていた。
ふと、私は一つの鉄の箱に目をとめた。木製の箱の中でそれだけが妙に浮いていた。
もっとよく見ようと近づく。
その鉄箱は他のものとはまったく違っていた。外側は錆びついていたが、蓋の合わせ目には珍しい菱形の赤い宝石がはめ込まれていた。
「庭師がルビーの品を持っているはずがありませんわ。ルビーの採掘と販売は、皇室が独占しているはずですもの。」
「もしかすると、ほかの貴族が庭師に花の育て方を習いに来て、そのまま忘れていったのかもしれませんね。」
皇女も興味深そうに覗き込み、一通り見たあと、それを私に手渡した。
「この箱は持ち歩くにも便利ですし、殿下がお持ちになって宮中で皇兄様にお渡しになってはいかがでしょう。」
「なるほど、ごもっともですわね。」
私はその箱をスカートのポケットに入れた。ちょうどぴったり収まった。
そのときの私は遊びに夢中で、自分がとんでもない火種を拾ってしまったことなど、知る由もなかった。
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