第4話 矢の狙う先に
「シュッ!」
弦を離れた矢が風を裂き、私の髪先をかすめて木造の小屋の壁に突き刺さった。乾いた木板が裂ける音とともに、目の前の壁に恐ろしい亀裂が走る。
それは、帰途につこうとしたまさにその時に起きた出来事だった。
すべて殿下に任せておけば安心――そう思っていたのに。
だが、その矢はまるで警告のようだった。
人の庇護のもとに隠れてばかりでは、生き残れないのだと。
「ちっ、またか。」
外にいた数人の商人たちが悲鳴を上げ、慌てて値の張る商品だけをつかみ取り、転がるように逃げていく。
私は市で買ったばかりの品を手に取る暇もなく、殿下に腕をつかまれて引き寄せられた。
「護衛!」
エドワルド様の焦った声が、まだ鳴り響く耳の奥に直接響いた。
なにが起こっているの?
私たちは――どうなるの?
私は無意識に彼の袖をぎゅっとつかんだ。
けれど、なぜか私たちのまわりには誰の姿もない。
足音も剣戟の響きも、何一つ聞こえなかった。
もし皇族の護衛たちが一瞬で片付けられたのだとしたら、敵は一体何者なのだろう……。
夜風がざわめき、沈黙があたりを覆う。
その静けさが、むしろ目の前の危機を際立たせていた。
「……どうやら護衛の中に裏切り者が紛れ込んでいたようだな。」
エドワルド様が舌打ちする。
「この先に森がある。まずはそこへ避難するぞ。」
小屋と森の間には、荒れた草原が広がっていた。そこを越えねばならない――そしてそここそが、最も危険な場所だった。敵が近くに潜んでいれば、狙い撃ちされるのはたやすい。
「シュッ」――。
またしても矢が飛来し、私たちの足元のすぐそばに突き刺さる。
「くそっ……!急げ!森まで行けば安全だ!」
「……っ!」
あまりの緊張のせいか、殿下に引かれる手首が痛いほどだった。
私は走るのが得意ではない。けれど命が懸かった今、息が切れても、立ち止まる勇気などなかった。
靴擦れした足が悲鳴を上げる。とうとう私はハイヒールを蹴り捨て、裸足のまま泥の中を駆け抜けた。
森のふちにたどり着いたとき、私はもう息も絶え絶えだった。木の幹に手をついて座り込み、足の裏に鋭い痛みを感じる。おそらく石か草の茎にでも切られたのだろう。
エドワルド様は別の木に手をつき、軽く咳き込みながらも、すぐに平静を取り戻していた。
「……歩けそうか、君。」
私が足を押さえているのを見て、殿下は心配そうに近づいてきた。
「申し訳ありません、殿下。少し痛くて……遠くまでは歩けそうにありませんわ。」
「では、このあたりに身を隠そう。夜も更けてきた。音を立てなければ、そう簡単には見つからないはずだ。」
私は痛みをこらえてうなずき、殿下に支えられながら茂みの中へ身を移した。そして、互いに言葉を交わさぬまま並んで腰を下ろし、息を潜めて周囲の気配をうかがった。
走り続けた脚はまだ震えていた。
もし刺客に見つかれば、私は逃げられない。
だが、殿下だけなら――きっと逃げられるかもしれない。
私は彼を見た。
殿下は静かに考え込んでいるようで、眉ひとつ動かさず遠くを見つめていた。
きっと裏切り者の正体や、援軍がいつ来るかを考えているのだろう。
私はそっと彼の手を取り、指先でその掌に言葉を書く。
――「お逃げください」。
暗闇の中でも、彼の青い瞳が驚きに揺れたのが分かった。殿下は私の手を握り返し、力強く首を横に振った。
その瞬間、近くで足音が響いた。私は息を止め、口と鼻を押さえる。
音ひとつ立てれば、命が終わる。
殿下は茂みの隙間から音の方を見たが、私には何も分からない。
三、四人だろうか。
彼らは聞き取れない言葉で短くやり取りすると、四方へ散っていった。
ひときわ重い足音が、私たちの近くをうろつく。
その足音が遠ざかろうとした時――。
木の上のカラスが、まるで死神の笛のように甲高く鳴いた。
心臓が凍りつく。
私は目を閉じ、心の中で神の名を唱えた。
せめて来世では、少しでも長く生きられますように――。
その気配の持ち主が、こちらへ歩み寄ってくる。鞘から抜かれる刃の音が、耳を裂いた。風が唸り、鋼の軋む音と混じり合う。
まるで死を告げる鐘の音だった。
絶望の中、突然、柔らかな布の感触が私を包み込む。細い骨ばりの腕、そして私よりも冷たい体温――。
間違いない。エドワルド様が私を抱き寄せたのだ。
……殿下?
どうして私と共に死のうとするの?
どうして――。
……兄上、来世で、私の愚かさをお許しくださいませ。
――
「シュッ!」
「ぐあああああっ!」
刃は振り下ろされなかった。
代わりに、男の悲鳴が夜を裂いた。
私は目を開けた。炎の明かりが視界を焼き、思わず目を細める。
エドワルド様が茂みを少し押し分け、私に向かって合図を送った。彼が指し示す方には、先ほどまで私たちを殺そうとしていた男がいた。
その男は全身に火を纏い、地面を転げ回っていた。
「な、なんだ!? 誰だ! おい、こっちだ、助け――」
言葉が終わる前に、別の方角から次々と悲鳴が上がった。男は悪態をつきながら火を叩き消そうとしたが、その場を離れる前に、再び矢が飛び、大腿を貫いた。彼は叫び声を上げて倒れ込み、草と石の中でのたうった。
そして――。
「我が目の前で、よくも卑怯な真似をしてくれたな。」
威厳のある男の声が闇を裂く。
やがて蹄の音が近づき、私たちのすぐそばで止まった。
先頭に立つ男は、長い髪を束ねた片眼の騎士だった。麦の穂のような深い金色の髪、そして露わになった片方の瞳は、冷たい深緑。その顔に浮かぶのは、勝利を確信した者の冷ややかな笑み。
彼が軽く手を上げると、背後の騎士たちが一斉に火を掲げ、刺客たちを取り囲んだ。
私がその人物が誰か考えるより早く、エドワルド様が立ち上がった。
「……やっと出てきたか、ランスヴィル卿。新妻をここまで怯えさせないと、動く気にならなかったのか?」
泥にまみれた衣のままでも、殿下の威厳は失われていなかった。
ランスヴィルと呼ばれた男は素早く馬から降り、右手を胸に当てて片膝をつく。
「リオ・ランスヴィル、参上いたしました! 救援が遅れましたこと、平にご容赦を!」
「構わん、間に合っただけでも良い。」
殿下は倒れ伏す刺客を見やり、冷ややかに命じた。
「こいつを塔へ連れて行け。残りは後で話す。」
「御意。」
「それと、もう一つ……。」
殿下はランスヴィルの脇を抜け、私のもとへ歩み寄った。
そして私の腕を支え、静かに立たせた。
ランスヴィルはそれを見ても気に留める様子はなく、埃を払いながら立ち上がった。
「皇太子妃を先に宮へお送りしろ。」
「承知。」
ランスヴィルは軽く頭を下げた。
「初めまして、皇太子妃殿下。護国卿のリオ・ランスヴィルと申します。」
「は、はじめまして……護国卿閣下。」
泥まみれの姿を見られた恥ずかしさに頬を染めながらも、私は礼を返した。
「部下に護衛を命じましょう。どうぞご安心を。」
ランスヴィルが軽く手を振ると、若い女騎士が馬を降り、私に同行を申し出た。
「ま、待ってください、エドワルド様!一緒にお戻りにならないのですか?」
「君は先に戻って休むといい。私はランスヴィル卿と話すことがある。」
エドワルド様は別れの挨拶として軽く私の頬に唇を寄せると、騎士たちの中へと姿を消した。
――ランスヴィル? 護国卿……?
まさか、あの戦で帝国を勝利に導いた無敗の将軍?
平民出の身でありながら、エドワルド様自らが爵位を授けた英雄、その人?
噂に聞く名将に助けられるとは――なんという日だろう。
命を狙われ、そして救われた。
今日という一日が、まるで劇のように思えた。
「やれやれ、なんとも仲睦まじい新婚夫婦じゃねえか。」
皇太子妃の一行が遠ざかるのを見届けたあと、ランスヴィルが苦笑混じりに肩をすくめた。
「まったくよ。殿下の命令通りわざと遅れて出てきたってのに、結局俺が悪者扱いじゃねえか。」
「気にするな。――まあ、彼女に少しくらい恐怖を教えておくのも悪くはない。このあとも暗殺は減らないだろうね。」
「おいおい、そう言っちゃなんだが、あの顔色は本気で怯えてたぞ。あとでちゃんと慰めてやれよ。」
「本題に戻ろう。」エドワルドは鋭い眼差しを向け、低く言った。
「――裏に誰がいるのか、だいたい見当はついている。」
「ほう?」
青い瞳が、地面に転がる捕虜へと落とされた。
その目は氷のように冷たく、まるで焼けた鉄の杭を突き立てるような威圧を放っていた。
「さて、こいつらキャストレイの残党から、どこまで吐かせられるか、見ものだな。」
捕らえられた刺客の一人が、縛られた体を必死にねじらせる。
血走った目が、なおもエドワルドを睨みつけていた。
「くっ……忌々しいエシュガードの野郎!我らの王女を返せ!」
「怒鳴るだけで救えるなら、もうとっくにそうしているはずだろう。
それに――君たちも知っているだろう。彼女は戦争が始まる前から、すでに私と協力関係にあったことを。」
「な、なにを……っ、それは嘘だ! 貴様、我らを愚弄する気か!」
「信じるかどうかは君たちの勝手だ。」
エドワルドは淡々とした声で言い、手を軽く振った。
「――やれ。」
命令を受けた近衛たちが前に出る。
鍛え上げられた数人の男が、ものの数瞬で刺客たちを引きずっていった。
「はっ! キャストレイの残党か……。」
ランスヴィルは弓を背に戻しながら、面倒くさそうに笑った。その余裕めいた口調の奥には、微かに殺気が滲んでいた。
「これは、また忙しくなりそうだな。」
「――あの件も、そろそろ動かす頃合いだ。」
エドワルドが小さくつぶやく。
「セモニエ様……どうかなさいましたの?」
私は少し不安になりながら、目の前の少女に声をかけた。
彼女は私と話す気があまりなさそうで、手にしたハンカチをいじりながら俯いていたが、私の問いかけに気づくと、ぎこちなく顔を上げて微笑んだ。
「あ、ううん……! 本当に楽しいお茶会ですわね。」
考えるまでもなく、セモニエ皇女は私と同じように、この令嬢たちの茶会という場に居心地の悪さを感じているのだろう。
彼女は私より少し年下で、体つきも華奢だ。重たいドレスに包まれたその姿は、風が吹けば折れてしまいそうなほど儚い。
私はエドワルド様に紹介された日のことを思い出していた。
あの日は珍しく雲一つない晴れの日で、二人の淡い金髪が陽光を受けて白く輝いていた。
「はじめまして、ヘローナ様。……わたくしはセモニエと申します。」
その少女は、精一杯の笑みを浮かべようとしていた。けれど、その瞳の奥に宿る陰りまでは隠せていなかった。
「君も宮中に知り合いの女性がいないだろうと思ってな。だから、以前話していた妹を紹介しておこう。彼女は少し事情があって、去年ようやく帝都に迎え入れられた。……まあ、君より先にここで暮らしている分、何か悩みがあれば彼女に相談してみるといい。」
エドワルド様はそう言っていた。
けれどそれ以来、セモニエの方から私に話しかけてくることは一度もなかった。彼女がどこに住んでいるのかさえ、私は知らない。
最初のうちは、私と同じく人付き合いが苦手なのだろうと思っていたが――ある日、昼寝のあとに偶然、噂好きの侍女たちの会話を耳にした。ジャンヌが以前言っていた通り、この皇女の心の状態はあまり安定していないという。そのため、皇太子殿下は特別に彼女を離宮に住まわせているのだとか。
定期的に皇女を診ているのは、医師でもあり主教でもある人物だそうだ。
その主教は殿下に進言した――「皇女殿下の心を癒すには、人と触れ合う機会を増やすのがよい」と。
ちょうどその頃、私はこの宮に嫁いできたのだ。
もし彼女と話すことで病が癒えるのなら、私としても喜んで協力するつもりだった。
……ただ、どうして彼女は今のようになってしまったのだろう。
セモニエは無表情のまま、紅茶を口にした。
その動作には、楽しさも興味も感じられない。
皇族として生まれた彼女も、きっとさまざまな運命の荒波に翻弄されてきたのだろう。
私は不用意に彼女の過去を刺激してしまわないよう、言葉を選びかねていた。
帝都の名門の令嬢たちは、入れ替わり立ち替わり私に話しかけてきた。
話題は新しいドレス、宝石、茶葉、そして「最近噂の素敵な殿方」。
彼女たちの善意と悪意が入り混じる視線を感じながら、私は「まあ、素敵ですわね」と相槌を打ち、時おり兄上や故郷の話を織り交ぜて応じた。
その間にも、多くの令嬢が礼儀としてセモニエに声をかけたが、彼女はほとんど反応を示さなかった。
軽く会釈するだけで、口を開くことはほとんどない。
彼女を見ていると、他人とうまく付き合えないというよりは、単に関わりたくないように見えた。
もしかすると、皇太子が流した噂のせいで、彼女は意図的に人々から距離を置かれているのかもしれない。……あるいは、彼女自身がそれを望んでいるのだろうか。
そんなとき、ルドヴィクス兄上がちょうど会場に現れた。
名家の令嬢たちは一斉に彼の方へ群がり、私はようやく一息つくことができた。
ほっとして紅茶を口にしようとしたが、カップの中はすでに空になっていた。
おそらく、セモニエが無意識のうちに飲み干してしまったのだろう。
「まあ、もうお茶がなくなってしまいましたのね。皇女殿下は何か別のお茶を召し上がりたいですの?」
「どんなお茶でも結構ですわ。皇太子妃大人のお好みで。」
予想通りの返答だった。
私は侍女を呼び、新しい茶を用意させた。やがて湯気の立つカップが運ばれてくる。一口味見をしようとしたその時、セモニエが何か言いたげにこちらを見ていることに気づいた。
「どうかなさいましたの?」
「そちらにいらっしゃる方……ヘローナ大人のご兄上なのですか?」
彼女の突然の問いに、少し驚きながらも私は頷いた。
「ええ、そうですわ。」
「先ほどお話を伺って思いましたの。ヘローナ大人とご兄上は、とても仲がよろしいのですね?」
「ふふ。仲が良いというより、気づけば利害が一つになっていた――そんな関係ですわ。」
「利害……ですのね。」
セモニエは何か言いかけたが、言葉を途中で飲み込んだ。まるで呪いで口を封じられたように。
彼女にはきっと、何か言えない事情がある。
……兄上に関することだろうか。
それがエドワルド様に関係することかもしれないと思うと、胸の奥がひやりとした。
私は察して話題を変えることにした。
「そういえば、まだ皇女殿下のお住まいの離宮にお伺いしたことがありませんの。静かで美しい場所だと聞いております。いつか訪ねてみたいものですわ。」
一瞬、セモニエの瞳に光が宿ったように見えた。だが、すぐにその光は消えた。
「お越しになるには、兄上――殿下のご許可が必要ですわ。私には決められません。」
「まあ、そうですの……。でしたら、殿下にお願いしてみますわね。」
そう言いながらも、胸の奥に得体の知れない違和感が残った。
日が暮れ、疲労と微睡みが同時に押し寄せてくる。その後の出来事――令嬢たちが何を話し、セモニエがいつ退出したのか――すべてがぼんやりと霞んでいた。
ただ一つ確かなのは、あの夜、エドワルド様は私のもとを訪れなかったということ。
それが、なぜか少しだけ安堵をもたらしたのだった。
私は自室に戻ると、侍女たちを下がらせ、羽根ペンと白紙の紙を取り出した。
一人きりの静けさの中で、これまで得た情報を整理しはじめる。
皇女の離宮を訪れるには皇太子の許可が要る――。
その離宮は、かつて亡き公爵夫人の居館であった場所だ。もしかすると、そこにはまだ何かが残っているかもしれない。
もっとも、火災で焼け落ちた建物を皇女の居住に耐えるよう修復したのなら、痕跡を見つけるのは容易ではないだろう。
では、どうすれば皇女に近づけるか。
まずは殿下に相談し、離宮以外の場所で会えるよう誘い出すのが安全だ。
もともとエドワルド様が彼女を紹介してくれたのも、妹の心を少しでも解きほぐすためなのだ。
ならば、きっと反対はしないはず。
さらに、皇女の主治医である主教も気になる。
彼は医術にも長けており、殿下と共に診察に赴いているという。
その人物に接触できれば、皇女に関する情報を間接的に探れるかもしれない。
……待って。
もし私が病気を装えば、その主教に診てもらえるのではないだろうか。
皇族の診療を任されるほどの人物なら、殿下が信頼を寄せる存在に違いない。
しかも私は皇太子妃――いずれ後継者を生む立場にある。
体調を崩したとなれば、殿下が放っておくはずがない。
行動の方針が決まると、私は手元の草稿をそっと火にくべた。
紙がぱちぱちと音を立て、あっという間に灰になっていく。
「けほっ、けほっ!」
私はハンカチで口を覆い、わざとらしく咳き込んだ。
「この春と夏の境目の気候、本当に気まぐれですわね。少し油断しただけで風邪を引いてしまいそう。」
隣で本を読んでいたエドワルド様が顔を上げ、ゆっくりと本を閉じた。
「医師を呼ぼう。明日は何もせず休むといい。……まったく、前にも言っただろう。衣が足りなければ、私の予算から仕立てればよかったものを。今では私の持病よりもひどくなってしまっているじゃないか。」
殿下の言う“持病”とは、喘息に似た病のことだ。
幼い頃は体が弱く、外出すらままならなかったという。
成長とともに少しは回復したものの、季節の変わり目には今も再発するらしい。
「西の領地では、春の冷気もここまで厳しくはありませんでしたの。油断しておりましたわ。」
「私の落ち度でもある。」
エドワルド様は立ち上がり、厚手のショールを私の肩にかけた。
「あの日、君を市場に連れ出したせいかもしれないな。あるいは、森の冷気が原因か。」
「まあ、殿下のせいだなんて、とんでもありませんわ。」
本当は、私は目的のために自ら体を冷やしたのだ。
刺殺未遂の翌日にはもう元気を取り戻していたけれど、主教に会うためには病気の理由が必要だった。
窓を開けて冷たい風に当たり続け、ようやく喉を痛めて軽い風邪をひいたのだ。
殿下は幼い頃から薬漬けの生活をしていた。そんな人の前で芝居をしても見抜かれるに決まっている。
だから、私は“本当に病む”という回りくどい手段を選んだ。
――けれど、思っていたより風邪はつらい。
喉が焼けるように痛く、声までかすれてしまった。
「殿下、咳をなさる時は、やはり……」
口にしてから、自分の不用意さに気づいた。
「申し訳ありません、今のは聞かなかったことに。」
「……君は、私の病が風邪に似たものかどうかを聞きたかったのだろう?」
私は小さく頷いた。
エドワルド様は怒ることもなく、穏やかに息をついた。
その姿に、少しだけ距離が縮まった気がした。
「そうだな……胸の内の焼けるような痛みは、もはや私自身の一部になっていたようだ。」
彼は無意識に胸へ手を当てた。
その指先に宿るのは、燃え尽きぬ炎――病という名の火。
「そういえば、若い頃の話をしていなかったな。明日、君を診に来る友人にも関係があることだ。」
エドワルド様が“友人”と呼ぶことは滅多にない。
ふだんは爵位や官職で相手を呼ぶ彼がそう言うのなら、よほど親しい間柄なのだろう。
殿下がまだ少年だった頃――。
病弱な体を看病され続ける日々に、彼はとうとう我慢ができなくなったという。
ある朝、眠ったふりをして使用人をやり過ごすと、窓から庭へと抜け出した。
春先の冷え込みが残る頃で、殿下は薄衣のまま、湿った地面に身を伏せて息を荒らした。
どこへ行くあてもなかった。ただ、閉ざされた部屋から逃げ出したかったのだ。
たとえこのまま凍え死んでも構わないと、半ば本気で思っていた。
けれど、体は思うように動かず、すぐに咳き込み、地面にうずくまった。
胸の奥で炎が燃え上がり、呼吸が詰まる。
彼は心の中で小さく懺悔をつぶやいた。
――そのとき、白い髪の少年が通りかかった。
「白髪……?」
私は思わず口にした。
「それは、とても珍しい髪色ですわね。」
「その友人こそ、“神の子”と呼ばれた枢機卿――今の教皇の養子、レヴィン・フォスタスだ。」
エドワルド様の言葉に、私は思わず息をのんだ。
その名は、帝国の貴族なら誰もが知っている。
皇太子の誕生一周年の祝宴の夜、帰途についた老教皇が教会の門前で見つけたという赤子。
その白髪と赤みを帯びた瞳の不思議な美しさに驚いた教皇は、神の導きと信じ、養子として迎え入れた。
“神の子”――その存在は滅多に人前に姿を見せず、皇都の大聖堂で祈る背を見たことがある者もごくわずかだ。
だが、神学と医術の双方において高い才を示し、皇室から深い信頼を受けているという。
多くの貴族が患う病の薬方も、彼が調合したものだと噂されている。
「その時、フォスタス卿が摘んだ草が、私の命を救った。しばらくは伴読として側にいたが、やがて教皇に呼び戻され、後継者として育てられることになった。……そんなところだ。」
殿下はそれ以上多くを語らなかった。
おそらく、続きは明日の診察で自分の目で確かめろ、ということなのだろう。
夜が更け、私は衣を脱いで寝台へ入った。
整えた寝具を軽く叩き、エドワルド様に合図を送る。
「なかなか興味深いお話でしたわ、殿下。では、お礼に今度はわたくしの子どもの頃の話でもいたしましょうか?」
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