第2話 ただ知らないふりをする

その後の仕事は、宴に招かれた客人たちをもてなし、彼らからの祝福を受けることだった。しかし、来客の数があまりにも多く、一人一人に挨拶するのは想像以上に骨の折れることだった。

しかも、それまで私は皇都の貴族たちの誰一人として知らなかった。初めて訪れた私は、出会った人々の名前や爵位、顔立ちを必死に覚えようとするしかなかった。

幸い、エドワルド様はこうした挨拶の場に慣れており、私は隣に立っているだけでよかった。

もし私が不用意に口を開けば、彼らはすぐに私が田舎育ちの金色の小鳥にすぎないと気づいてしまうだろう。

ルドヴィクスは違っていた。彼は皇都に来てからわずかな日々で、あらゆる手段を使って上級貴族たちと親しくなっていた――少なくとも表面上はそう見えた。

私はちらりと彼の方を見たが、若い貴族の令嬢と楽しそうに談笑している姿が目に入り、思わず視線をそらした。

彼に比べ、私は異性との関係の扱いが得意ではなかった。礼儀正しく接することはできても、恋愛となるとどうしても身を引いてしまう。

それは、両親の失敗した結婚の影響から生まれた自己防衛なのかもしれない。

少女のころ、いつか誰かと恋に落ち、すべてを投げ出して愛に身を委ねる日が来るのだろうかと夢見たこともあった。その夢の中で思い描いた相手は、ヴァレン家の護衛や御者、庭師、そして――義兄ルドヴィクスだった。

今思えば、それは私が接することのできた男性の数があまりにも少なかったせいだろう。

あるいは、それは雛鳥が親を慕うような感情に似たものだったのかもしれない。


当時、ルドヴィクスはいつも夜更けを過ぎてから帰宅した。

使用人たちの噂話は嫌でも私の耳に届いた。彼は商談の相手と共に高級な酒場や娼館へ行くこともあれば、接待を終えて一人で出かけることもあったという。

ルドヴィクスが私に屋敷の外出を禁じていたせいで、私は屋敷の図書室の恋愛小説を読み漁り、彼の夜を想像するしかなかった。男女のことを少しは知るようになっていた私は、次第に好奇心に駆られ、恋愛の自由を持つ人々を羨むようになった。

ある日、私は恋愛小説を夢中で読んでいるうちに夜が更け、ようやく寝ようと思い立った。

屋敷の中は静まり返り、彼はまだ戻っていなかった。廊下の明かりを消して回る使用人が二人ほど残っていたが、私は人目を避けるため、普段使われていない部屋の方の階段を回って自室へ向かった。

だが、二階へ上がったとき、本来なら誰もいないはずの部屋から、女の甘い息づかいが漏れてきた。

文字で読んだ物語とは違い、現実に耳で聞くそれはあまりにも生々しかった。

私は魂が抜けたように立ち尽くし、部屋の中で交わされる愛の言葉をただ聞いていた。

胸の鼓動がうるさくて、思わず胸元を押さえる。扉にそっと触れた指先にわずかな隙間ができた。

その瞬間、私は心底後悔した。

見なければよかった。

ルドヴィクスが、服を乱した侍女を抱いていたのだ。

二人はすぐにもさらに親密な行為へと移ろうとしていた。

信じられなかった。

その優しげな笑顔で侍女を見つめる彼が、あのルドヴィクスなのか。

声を上げないように口を押さえた。あまりの衝撃で、感情の形が分からなかった。

二人の表情は陶酔に満ち、まるで神の祝福を受けているかのようだった。

その幸福そうな姿が、どうしようもなく羨ましかった。

やがて侍女が衣服を抱えて部屋を飛び出し、廊下にいた私にぶつかった。

「申し訳ありません、お嬢様……!」

彼女は怯えたように頭を下げ、足早に階段の方へ消えていった。ルドヴィクスはシャツを一枚羽織り、私が外に立っているのを見ても、少しも驚かなかった。

「どうした?」

彼は乱れた髪を手でかき上げ、まだ熱を帯びた目で私を見た。その視線には、私が彼の気分を台無しにしたという苛立ちが混じっていた。

「まさか、兄上様が屋敷でそのようなことをなさるとは思いませんでした……。」

「君には関係ない。見物はもう十分だろう。部屋に戻って寝ろ。」

私はそのまま追い返された。

その瞬間、私は彼に抱いていた幻想が壊れたことに気づいた。

私たちは恋人にはなれない。私の純潔は、未来の夫に捧げると決められている。

そう考えると、不思議と涙は出なかった。

あの侍女について、私はその後のことをあまり知らない。

彼女が追い出されたのか、自ら屋敷を去ったのかも分からなかった。けれどルドヴィクスが愛人たちに飽きては捨てるという噂は、何度も耳にした。

情熱的に追いかけ、そして冷酷に切り捨てる。

彼はいつもそうだった。

その意味では、彼と恋人にならなかったことは幸運だったのかもしれない。


夜が更け、人々が去っていく。皇宮の管理官が来て、「皇太子殿下はまだ政務が残っている」と告げた。

私は一足先に寝室へ向かい、蝋燭と薔薇の花で飾られた婚礼の部屋に入る。侍女たちは私の重い礼服を脱がせ、薄い白絹の寝衣を着せてくれた。

一日の疲れがどっと押し寄せ、頭がぼんやりしてくる。

肩の痛みを揉みながら、私は小説で読んだ新婚の夜を思い浮かべる。

……でも、そんなことしたくない。ただ眠りたい。

殿下が戻る前に寝てしまおうか。

いや、だめ。

今日だけはきちんと“初夜”を過ごさなくちゃ。

昔の物語には、初夜の不和がその後の一生を狂わせた夫婦もいた。

そんなことを考えながら、私は立ち上がり、夜番の侍女に紅茶でも頼もうと扉に手を伸ばす。

けれど、扉を開けた瞬間、金色の影が目の前に現れた。

エドワルド様だ。

彼は一歩下がり、眉を少し上げる。私がここにいることに驚いたような顔をしていた。

表情には疲れがにじんでいて、「憔悴」という言葉がぴったりだった。

気まずい空気が流れる。

先に口を開いたのは、彼の方だった。

「こんな夜更けに、皇太子妃はどこへ行くつもりだ?」

「侍女に紅茶を持ってきてもらおうと思いまして……。」

「この時間に紅茶を?お茶にずいぶんこだわりがあるようだね。」

「……。」

私は無理に笑みを作る。

「確かにそうですね。では、今日はもう休むことにします。紅茶のことは、明日の朝でも遅くありませんから。」

「うむ。」

エドワルドは背を向け、ゆっくりと扉を閉めた。

狭い部屋に残されたのは、私と彼だけ。

一瞬で緊張が走る。

私は寝台の端に座り、息を潜める。

この瞬間、自分が処刑を待つ兵士のように感じられた。

覚悟と諦めが胸の中で交錯し、心臓の音がうるさいほど響く。

彼はゆっくりと濃紺の上着のボタンを外していく。脱ぎ捨てられた上着が床に落ちる音が、やけに大きく響いた。続いてベスト、そしてシャツ――その細い体が月明かりに照らされ、白磁のような肌が淡く光る。私が固まったまま動けないでいると、殿下は腕を組み、少し興味深そうに私を見つめた。

「その怯えた顔を見ると、一気に興が冷めたよ……夫の愛を受けるのはそんなに怖いのか?」

その目は試すようで、底の見えない青の深さに吸い込まれそうになる。彼は今、わざと私の反応を観察している。

「初めてのことですから……。寛大な殿下なら、初心者を責めたりなさらないでしょう?」

私は視線を外しながら、できるだけ落ち着いた声で答える。

「ふむ……仕方ないな。それなら、経験豊富な年上の男として、私が手ほどきをしてあげよう。」

冷たい指先が肩に触れ、軽く押される。体の重心が崩れ、私はそのまま寝台に倒れ込む。

突然の動きに思考が止まり、息が詰まる。気づけば彼がすぐそばにいて、その整った顔が手の届く距離にある。

見惚れる余裕などない。胸の奥で、恐怖にも似た鼓動が暴れていた。

痛みはないけど、知らないものへの恐れが波のように押し寄せてくる。

息を殺して目を閉じた。

……けれど、どれだけ待っても、次の動きがない。

「あれ、殿下……お続けにならないのですか?」

「早く義務を果たしたい気持ちもあるが、こうして震えている君を見ていると……どうにも気が進まないな。」

そう言いながら、彼の指先が首筋から鎖骨、肋骨をなぞり、やがて腹の上に触れる。顔が熱くなり、息が漏れそうになる。布の上から感じるその動きが、私の形を確かめるようで、逃げ出したいのに体が動かない。

「まずは、私に触れられることに慣れてもらおう。そして……私はどんな人間か、少しずつ知るといい。」

「は、はい……。」

彼の体の重みが離れ、空気が戻る。私は胸に手を当てて息を整えた。エドワルドは横に寝そべり、肘をついてこちらを見ている。

「どうせ二人きりなのだから、少し話でもしようか。」

「殿下は……何を話したいのですか?」

「そうだな。新婚の夜のしきたりについてでも。百年前、皇室の結婚では初夜を他の貴族たちが一晩中見届ける決まりがあった。今こうして二人きりでいられるのは、前皇帝の改革のおかげだ。」

「見届ける? そんな……ひどい習わしですね。」

「そうだ。だがそれは婚姻が有効であることを示す証だった。その風習が廃れたということは、政略結婚の拘束力もそれだけ弱まったということだ。……結局のところ、結婚しても他に愛人を持つ者は多い。つまり、夫婦という形に縛られなくなったわけだ。」

その言葉を口にしたあと、エドワルドの瞳が少し翳る。

もしかして、それは――。

「もし将来、君が私に飽きたなら、別に恋人を作ってもかまわない。この結婚は簡単に解消できないからね。ただし、私たちの子は必ずエシュガードの血を継ぐ者でなくてはならない。それだけは譲れない。」

思わず息をのむ。殿下が人に優しいと聞いてはいたけれど、まさかここまで寛容だとは思わなかった。

「でも殿下……それは当然のことではありませんか?」

「君はまだ若い。異性と関わったこともないのだろう。だからそう思うのさ。」

「小説のように、互いを一生愛し続ける清らかな愛を求めるのは……間違いなのですか?」

彼は子どもをあやすように、私の頭を軽く撫でた。

「人の心は変わる。……さあ、今日はもう休もう。おやすみ、皇太子妃。」

彼は欠伸をひとつして背を向ける。それ以上、何も言わない。私は静かに息を吐き、目を閉じる。その夜は、何も夢を見なかった。


エドワルド様と結婚する前から、私は彼にかつて妻がいたことを知っていた。

その頃、愛する騎士と駆け落ちする物語を夢見ていた私はまだ十二、三歳で、ルドヴィクスと共に西部領にいた。

けれど、それは皇太子の婚姻であり、国にとって利益のある政略結婚だったから、知らない者はいなかった。エドワルド様の結婚相手は北方の属国、アスカーナ公国の女公爵で、彼より少し年上だった。北方公国との縁組は、当時皇帝が彼女の領地を手に入れたいと望んだからだ。その土地は北の隣国を牽制できる要衝であり、鉱物資源も豊富だった。戦争になれば、戦略上これほど重要な場所はなかった。

しかし、女公爵の体は皇太子よりも弱かったらしい。嫁いでから二、三年も経たないうちに重い病にかかり、ほどなく亡くなった。二人の間に子はなく、貴族や民たちの噂の種となった。ある者は、どちらかに子をつくる力がなかったのだと言い、ある者は、女公爵には祖国に恋人がいて、殿下と同じ寝台を共にすることを拒んだのだと言い、またある者は、女公爵が誰かに殺されたのだと囁いた。

ともあれ、彼女の死によって、その土地は自然とエシュガード皇室のものになった。

数年後、皇室が今度は西部の領地に目を向け、そこから得られる利益を求めたとき、同じような話が、私の身にも降りかかることになるのだった。


「あらまあ、これは珍しいお客様だわ。」

華やかな衣装をまとった貴婦人が、赤いベルベットのソファに腰をかけ、優雅に羽扇を揺らしていた。その目にはどこか探るような笑みが浮かんでいる。

「皇都に来てからずいぶん経つのに、ヴァレン公爵殿は一度も顔を見せに来ないのに、妹のあなたの方が先に来るなんて。」

「遅くに伺ってしまって申し訳ございません、ヴァレン公爵夫人。」

私は深く礼をした。

「私は長く領地におりましたので、皇都のことには不慣れで……これから色々と教えていただければと思いまして。」

私はジャンヌが平民出身だということを知っていたが、それについて特別な感情はなかった。皇帝の寵愛を受け、公爵夫人の地位にまで上りつめたのだから、彼女にはそれだけの才覚と手腕があるのだろう。それに彼女はヴァレン家と皇室を繋ぐ重要な存在だ。宮廷の内情を知るには、彼女ほど適任な人はいない。

「まったく、あの嫌な孔雀男は、あなたを見習うべきね。陛下がいなければ、二度と顔も見たくないところよ。」

「兄上様は……誰に対してもあのような態度ですから。」

私は彼女の言葉に合わせて微笑んだ。

「まあいいわ。あなたが素直な子で助かるわ。」

ジャンヌは笑みを浮かべ、机の上のアーモンドをつまんで口に運んだ。

「それで、今日はどんな用件で?」

「ええ、さすがにお見通しですね……少しお伺いしたいことがありまして。」

私は少し恥ずかしそうに言葉を選びながら、彼女の向かいの椅子に腰を下ろした。

「実は、その……殿下がどういう方なのか、教えていただけませんか?」

「あらあら、そう来たのね。あなた、なかなか正直でいいわ。」

ジャンヌは扇を閉じ、楽しそうに身を乗り出した。

「ちょうどいい話を知っているの。殿下に関係する二人の女性の噂。聞きたいの?」

「ぜひお願いします!」

「でもね、知らない方がいいこともあるのよ。たとえ知っても、知らないふりをするのが賢い女というもの。」

「どうか教えてください。夫がどんな方なのか、知りたいんです。」

私が真剣にそう言うと、ジャンヌは小さくため息をつき、語り始めた。

彼女の話に出てきた二人の女性――一人は前の皇太子妃、アスカーナ公国のシャリン女公爵。もう一人は皇帝の私生児だと噂される皇女セモニエだった。

前の皇太子妃の死については、不審な点が多かったという。亡くなったのは皇都北部の離宮で、皇宮ではなかった。亡くなる数か月前、皇太子は「体調を崩した彼女を静養させるため」と言って、彼女をその離宮に移していた。その間に何があったのかは、誰も知らない。そして、二人の仲が良くなかったのは有名な話だった。最初のうちは同じ部屋で過ごしていたが、やがて言葉も交わさなくなり、顔を合わせれば冷たい視線を交わすだけだったという。

「女公爵には、結婚前から恋人がいたって噂、聞いたことある?」

「ありますけれど……皇室の名誉に関わることですし、軽々しくは言えません。」

「でもね、その恋人に関する証拠は、全部火事で燃えちゃったのよ。」

ジャンヌは声をひそめて言った。

「しかも今、その不吉な離宮に住んでいるのが皇女セモニエなの。」

「まさか……。もし本当に女公爵が無念の死を遂げたのなら、その場所に住むなんて、縁起が悪すぎます。」

「でしょ? だからあの皇女、どこかおかしいのよ。少し狂っているって話。」

ジャンヌは意味ありげに笑う。

「皇太子は毎月、医術に長けた主教を連れて彼女を見舞っているわ。そういえばあなた、皇室の家族構成をどれくらい知ってるの?」

「陛下と皇太子のお二人だけだと思っていました。皇女がいらっしゃるなんて初耳です。去年、陛下に認められたとか。」

「その前年に何があったか、思い出せる?」

「キャストレイ戦争の勝利……ですか?」

「そう。それが終わった途端に、突然“皇女”が現れたのよ。金髪に青い瞳、陛下も認めたから誰も異を唱えられないけれど……。」

ジャンヌは目を細めた。

「でもね、私は知っている。陛下はそんな子を持った覚えはないって。陛下ご自身がそう誓ったのよ。私以外に愛した女はいないって。」

「では、その皇女の出自は……?」

「昔、陛下の妹がキャストレイへ嫁いだでしょう?その若い頃の顔立ちに、そっくりなのよ。」

「でも、キャストレイの王族は戦で全員亡くなったと聞きましたが……。」

「そういうこと。つまり――セモニエ皇女は、キャストレイ王家の生き残り。帝国はそれを隠して保護しているのよ。」

「そんな……。」

「面白い話でしょ?」ジャンヌは肩をすくめて、再び紅茶を口にした。

「まあ、それが真実かどうかはさておき……とにかく、殿下と関わりのあった二人の女性については、それくらいね。」

彼女は小さく笑い、扇を閉じた。

「せっかくだから、もうひとつ話してあげるわ。……昔ね、ひとりの平民の娘がいたの。」

ジャンヌはゆっくりと話し始めた。

「貧しい家に生まれて、十代のころから生計を立てるために貴族の屋敷で使用人として働いていた。お金のために、その娘は屋敷で開かれるサロンのたびに、いろんな貴族たちに愛想を振りまいた。もちろん、その中で本気の恋なんてできるはずもない。たとえ本気で誰かを好きになっても、身分の違いで結ばれることなんてありえなかったから。」

「だから彼女は待っていたの。現実をよく知っている、冷静な娘だったわ。やがてある日、爵位を金で買った商人に出会って、その人と結婚した。自分の人生はもうそれで終わりだと思っていたの。でも、運命は違ったのよ。」

ジャンヌは少し微笑んだ。

「仮面舞踏会の夜、彼女はある男性に出会ったの。身分を隠していたその男は、実は――皇帝陛下だった。」

「まさか……。」

「ええ、二人は惹かれ合い、恋に落ちた。彼女は陛下の愛人となり、すべてを手に入れた。豪華な衣装、富、地位。誰もが彼女に頭を下げるようになった。でもね、どれだけ年月が経っても、子どもは授からなかった。医師に見てもらった結果、彼女は子を持てない体だと分かったの。彼女はその事実を静かに受け入れたわ。」

「それから彼女は、名誉や権力を争うことをやめた。静かに、穏やかに過ごしたの。」

ジャンヌは言葉を切り、ふっと笑った。

「――どう? つまらない話だったかしら。」

「いいえ……素敵なお話です。」

「そう。ならよかったわ。」彼女は紅茶を一口飲み、穏やかな笑みを浮かべた。「さて、話も終わったし、そろそろ帰って休みなさいな、妹さん。」


私は侍女のファロールに頼んで、亡くなった女公爵がかつて住んでいた部屋を見せてもらった。アスカーナ風の装飾が施された華やかな寝室だった。現在は外国の賓客のための部屋として使われており、侍女たちが定期的に掃除をしているという。離宮の方はさすがに訪ねることができないが、少なくともこの部屋なら自由に出入りできそうだった。

前の皇太子妃がどんな暮らしをしていたのかを知りたかったし、噂にあった“恋人”の話にも少し興味があった。ただ、他人の部屋のものを勝手に触るのは礼を欠くことだと思い、家具の配置を眺めただけで帰ろうとした。

ところがそのとき、思いがけないことが起きた。二階の窓越しに、下の回廊を歩くエドワルド様の姿が見えたのだ。

私は反射的に身を隠したが、つい彼の進む方向を目で追ってしまう。

殿下はこの部屋の方へ向かっているのかもしれない。

せめて遠ざかってから出た方がいいだろう。見つかれば、前妻の部屋をうろついていたなどと誤解されかねない。

私は適当な本を手に取り、ファロールに下の様子を見張ってもらうことにした。

殿下が通り過ぎたら教えてほしい、と。

けれど、一冊読み終わるより先に、眠気が襲ってきた。

秋の午後の日差しが心地よく、いつの間にかソファに横になって眠ってしまった。

どれくらい眠っていたのか、目を覚ますと部屋に淡い香りが漂っていた。

白い椿のような香り。

ぼんやりと体を起こし、目をこすると、視界の端にエドワルド様の姿が映った。

「やあ、目が覚めた?」

殿下は軽く言いながら、手にしていた紅茶を口に運んだ。

私は瞬きをし、状況を理解しようとした。次の瞬間、ここが前妻の部屋であることを思い出し、全身の血の気が引いた。

――よりによって、殿下に見つかるなんて。

「殿下……ごきげんよう。」

「皇太子妃、説明してもらおうか。ここで何をしていた?」

いつものように穏やかな笑みを浮かべていたが、その目は冷たかった。

「申し訳ありません。女公爵の部屋を汚すつもりなど決してございません。ただ、部屋の調度を拝見して、今後の出費の参考にしようと思っただけです。」

「ふむ……それだけか?」

青いガラスのような瞳には感情が映らない。

私はため息をつき、正直に答えた。

「……少し、気になったんです。」

「好奇心は猫を殺す、という言葉を知っているかい。私は今、すべてを話すつもりはない。君もあまり深入りしない方がいい。」

「承知いたしました。もうこちらには来ません。」

「別に君の行動を制限するつもりはない。」

エドワルドはそう言い、私の顎を指で軽く持ち上げた。

「だが、この部屋は普段人がいない。もし君に何かあれば厄介だろう。」

「ご忠告、感謝いたします。」

「それでいい。」

私はすぐに立ち上がって礼をし、部屋を出ようとした。扉に手をかけたとき、背後から小さなため息が聞こえた。

振り返ると、殿下は何も言わず、「行きなさい」とでも言うように手を軽く動かした。

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