第3話 仮装の祝祭

もうすぐ夜になる。

昨日何事もなかった夜を思い出すと、少しだけ気が楽になった。

けれど、会うはずのない場所で顔を合わせるというのは、やはり良くないことなのだろう。気まずさを避けるかのように、エドワルドは今夜姿を見せなかった。政務が忙しいから先に休むように、と伝言を寄こしたけれど、それが本当なのか口実なのかは分からない。

平穏な日々はあっという間に過ぎ、私は次第に皇宮の構造を覚え、似たような部屋の中でも迷わず歩けるようになっていた。

そんな折、兄ルドヴィクスから「皇太子との仲は順調か」と尋ねる手紙が届き、胸の奥が少しざわめいた。

……もし兄に、私と殿下がこの数日まったく言葉を交わしていないことを知られたら、きっと何時間も説教されるに違いない。

だから私は、珍しくも勇気を出して無視することにした。

「もし兄上が聞いてきたら、最近は皇宮の仕事を覚えるのに忙しくて、手紙を開ける暇がなかったと伝えてください。」

使いの従者は困った顔をしたが、そのまま公爵閣下にそう伝えると約束してくれた。


翌日の午後、私は部屋で静かにお茶を楽しんでいた。

すると突然、「バン!」という音とともに、ルドヴィクスが扉を開け放って入ってきた。驚いた私は、危うくティーカップを落としかけた。

「ヴァレン家の情報網によれば、結婚後三日も皇太子と顔を合わせていないそうだが、本当か?」

「兄、兄上……それには理由が……」

「はぁ……救いようがない!」

ルドヴィクスの衣服は以前よりもさらに豪華で、いつもの彼らしい派手さを増していた。高価で誇張された耳飾りが、窓から差し込む陽光を受けてぎらりと輝いている。

「結婚前に花嫁修行の授業を受けたはずだろう?結婚して数日も顔を合わせないなんて、そんなの普通だと思うのか?」

「で、でも……皇太子殿下は、あまり私のことをお好きではないようで……」

「いいか、もう昔みたいにおどおどしている場合じゃない!皇太子の心を掴みたいなら、もっと積極的に行動しろ。例えば、お前の夫を茶会や狩り、馬球の試合に誘うとか、そういう社交の場を作るんだ。そんな行事、いくらでもあるだろう。それから、ヴィリウス皇帝の傍にいる厚化粧の女が見えるか?そう、私の妻だ。あいつは見ているだけで吐き気がするが、男の扱い方という点では、お前にとって良い見本になる。困ったときは相談してみろ。……もっとも、これは全部お前のせいというわけでもない。あの腹の底が読めない笑みを浮かべた皇太子は、まだヴァレン家を完全には信用していない。まあ、それも仕方のないことだが……くそっ!」

彼はひとりでまくし立て、何度も大げさに目を回した。私は笑い出しそうになるのをこらえ、真剣に反省しているふりをしながら頷いた。けれど、少しだけ驚いた。彼がこんなにもこの件にこだわるなんて。

おそらく、彼が気にしているのは私の気持ちではなく、皇室とヴァレン家の同盟の方なのだろう。ヴァレン家はまだ正式な皇族の一員ではない。この立場なら、皇室の側がいつでも一方的に関係を断つこともできる。彼の言う通り、それも仕方のない話だ。

「分かりました、兄上。ご心配には及びません。このままの状態を放っておくつもりはありませんから。」

「分かっているならいい。ただ、もう一つ忠告しておく。あの男には、余計な感情を抱くな。噂程度のことしか聞いていないが、私の勘が言っている。あいつは危険な男だ。私のように他国の商人相手に交渉を重ねる者でも、彼と話すときはいつも神経を張る。……とにかく、自分の身を最優先に守れ。もし何かあれば、私もヴァレン家も必ずお前の味方になる。」

ルドヴィクスは私の肩に手を置き、軽く叩いた。その複雑な眼差しには、少しの心配と、ほんのわずかな優しさがあった。私は一瞬、彼が本当の兄のように思えて、胸の奥が温かくなった。

そんな顔、彼らしくないのに。

「ありがとう、兄上様……も私は大丈夫ですから!」


夜になる前に、私は寝室でひとり、いくつもの言い訳を頭の中で組み立てては否定していた。エドワルドに、自分が何かを企んでいると思われるのは嫌だった。

「殿下、明日お時間があれば、一緒にお茶でもいかがでしょうか……?」

でも、いきなりこんな誘いをしたら不自然だろう。しかも、特別な菓子も用意していない。

「殿下、外にご一緒しませんか?……ううん、もっと怪しい響きになってしまった。」

気づけば外はもう暗くなっていて、私はベッドの上でため息をついていた。どんなに遠回しな作戦を立てても、夜になっても彼が寝所に来なければ何の意味もない。

……次に会うとき、少し大人っぽい服を着た方がいいのかもしれない。彼は私より年上だし、しかも一度結婚を経験している。男女のことについては、私なんかよりずっとよく知っているはず。

廊下の向こうから、かすかな足音が聞こえた。私は慌てて頭の中の妄想を断ち切り、髪を整える。

えっ、まさか……今日も来ないと思っていたのに。

これはチャンスよ、ヘローナ!

さっき練習した言葉を思い出して、今日は少しでも関係を良くするの。

エドワルドが扉を開け、私がベッドの上で緊張した顔をしているのを見ると、からかうように笑った。

「おや、皇太子妃はずっと私を待っていたのか?」

「はい!……いえ、そういうわけでは……」

何とか言い訳を探そうとしたとき、彼が上着のボタンに手をかけるのが見え、私は反射的に言葉を変えた。

「あっ、それなら、今夜は私が殿下のお着替えをお手伝いしますね!」

立ち上がろうとすると、彼は手を上げて私を制した。

「ヴァレン卿が昼に君へ何か言ったんだろう?知っている。同じことを、私にもくどくど言っていたからな。」

その一言で、私が考えていた言い訳はすべて無駄になった。兄のつもりはあくまで助言だったのに、殿下の口から「うんざりしたような声」で言われると、逆に恥ずかしくなってしまう。

「この数日、君を避けていたつもりはない。南部から戻った重要な部下と、あちらの情勢について詳しく話す必要があっただけだ。……ヴァレン卿の話は置いておこう。君自身は、どう思っている?」

「えっ?」

「君の考えを聞きたい、皇太子妃。」

エドワルドはカーテンの脇に体を預け、腕を組んで私を見下ろした。その目は静かに光を帯び、どこか楽しんでいるようでもあった。

「愛してもいない男と同じ寝台に入る。それで満足なのか?」

「……。」

そう言われて、何も言えなくなる。

たしかに、私には無理だ。エドワルドは確かに美しい人で、顔立ちも好みだったけれど、彼と裸で抱き合う姿を想像することはできなかった。

唇を噛み、視線を逸らす。彼の瞳は不思議だった。冷たくもなく、温かくもない。その中に、私の心の中をすべて見透かしているような光があった。

「ほらね。前にも言ったけど、君にはまだ時間が必要だ。まあ、それで私にとっても都合がいい。私は感情のもつれに時間を取られたくはないからね。」

ま、待って。

それでは最初の日と何も変わっていないじゃない。

あのとき「なんとかする」と兄に約束したのに、今すぐ過去に戻ってその言葉を撤回したい。

私はこめかみを押さえ、深呼吸した。

「殿下、今のは考えをまとめていただけです。正式な答えを言ってもよろしいですか?」

「ほう……では聞かせてもらおう。」

「百年前、エシュガード帝国の建国者ヘンリ・エシュガードとエリザベート・ヴァレンが結ばれました。二人の結婚は、長く続いた両家の争いを終わらせ、帝国統一の礎となったのです。本来なら憎み合うはずの二人が歩み寄り、やがて生涯の伴侶となりました。……ですから、たとえ政略結婚でも、愛は生まれると思います。」

「帝国史に詳しいようだな。では、その息子ヘンリ二世が七人の妻を迎え、誰一人とも幸福な家庭を築けなかったことも知っているかな?」

「ヘンリ二世の行いは、決して見習うべきものではありません。殿下は彼とは違います。……殿下は優しい方です。」

「優しい、ね。」

耳元で、彼が自嘲するように笑うのが聞こえた。

「ヘンリ二世よりも上手く隠すことができるだけだ。」

「隠す……? 何を、ですか?」

彼は数秒だけ黙り込み、話題を変えるように言った。

「さっきの答え、悪くはない。例を挙げて結論を導く……及第点だな。」

「完璧な答えではないのは分かっています。“愛が生まれる方法”も、まだ分かりません。」

私は彼をまっすぐ見た。その視線には誠実な思いがあった。

「でも、私は殿下を知りたい。愛する努力をしてみたいと思っています。運命の糸で結ばれたのなら、殿下はきっと……私の“運命の人”なのでしょうから。」

首筋に冷たい感触が走る。彼の指先だった。

あの青い瞳が、ゆっくりと私の世界を満たしていく。

「ひとつ思い出したことがある。“感情を持たぬ二人であっても、肉体の調和によって魂の共鳴に至る”と、ある学者が言っていた。」

「……すみません。無理です。」

「せっかくいい雰囲気だったのに。興が削がれたよ。……だが、どうやら私は君という人間に少し興味が湧いてきた。」

どこが「いい雰囲気」なのか、まったく分からない。彼はきっと、私の混乱した様子を楽しんでいるのだろう。

「……君たちの計画は成功したようだ。」

またもや、互いに干渉しないままの夜だった。

朝日の光がカーテンの隙間から差し込み、部屋の中に射してくる。私はなんとか身を起こし、まばたきをすると、空気の中に小さな塵が舞っているのが見えた気がした。

エドワルドはまだ目を覚ましていない。その穏やかな寝顔は、まるで絵画の中の精霊のように整っていて美しい。ただ、淡い金色の髪の数束がいたずらっぽく羽毛枕の上に跳ねていて、その光景を少しだけ可愛らしくしていた。

――こんな一面もあるよね。

噂に聞くあの冷徹で名高い皇太子殿下も、今はただのひとりの人間にすぎないのだと思うと、不思議と彼と過ごすことが、それほど難しいことではないように思えた。


数日も経たないうちに、帝国の一年に一度の祝祭の日がやって来ることになった。

祝祭の日は、百年以上にわたって受け継がれてきた帝国の伝統であり、春の女神を迎え、あらゆる命の繁栄と再生を祈る祭りである。

祭礼や儀式を司る官吏によると、王宮の慣例では、皇族は昼間に祝典の挨拶を行えばよく、夜は政務を免じられ、自由に休むことが許されるという。

つまり、ほんの短い間ではあっても、民とともに祭りを楽しめる時間が与えられるのだ。

私はエドワルド様に提案した――祝祭の夜、庶民の装いをして一緒に城を抜け出しましょう、と。

これは殿下との距離を少しでも縮める絶好の機会。その機会を逃すつもりはない!

「城を出るだけならともかく、庶民の服に着替えるとは……?皇太子妃は、なかなか特異な趣味があるようだな。」

エドワルド様はわずかに眉を上げ、半ば呆れたように言った。

「殿下、それは違いますのよ……」

私はわざと残念そうにため息をついた。

「以前、ヴァレン家の領地におりました頃、兄上はいつもわたくしの行動を厳しく制限なさいましたの。十年以上もあの地で暮らしておりましたのに、一度も自分だけで冒険したことがございませんのよ!」

「ヴァレン卿は君の安全を思ってのことだろう。」

「けれども今、こうして偉大なる皇都に参りましても、まだ一度も宮殿の外に出たことがありませんの。

書物に記されている賑やかな祝祭――人々が集まり、料理を作り、歌い踊るあの光景……わたくしはきっと、それを見ることすら叶いませんわ。

ああ……わたくしほど退屈な人生も、そうそうございませんのね。」

エドワルド様は考え込むように顎に手を当て、しばらく黙っていた。

やがて小さく息を吐き、両手を広げて言った。

「行くのは構わない。ただし、行き先も移動の手段も、すべて私が決める。万が一に備えるためだ。」

「まあ……本当に? 殿下! ご安心くださいませ、わたくしはただ庶民の方々がどのように祝祭を過ごしていらっしゃるのか、この目で確かめたいだけですの。ご迷惑なんておかけいたしませんわ。」

「まったく……普通なら、こんな危険な提案は受け入れないが……まあいい。

実のところ、君の言う祝祭の光景というもの、私も少し興味がある。今回は特別に許そう。」

「ありがとうございますわ、殿下。すべて殿下のお考えに従わせていただきます。」


約束の日が近づいていた。

侍女のファロールが気を利かせて、これまで自分たちがどのようにこの盛大な祭りを過ごしてきたのかを楽しげに話してくれた。

「まず、新鮮な塩漬け焼き魚は絶対に召し上がってくださいませ!それから羊のミルクチーズパン、トマト煮込みの牛肉、蜂蜜の果実酒もおすすめです!どれもお祭りの時にしか味わえないご馳走なんですの……ああ、話しているだけでお腹が空いてきました。」

「ふふ、どれも珍しい食べ物ね。お祭りの時はそんなに豪勢に食べるの?」

「ええ。普段は粗末なパンしか食べられませんから……せっかくのお祭りですし、いつも食べられないものをたくさん食べようって思うんですよ。」

宮廷衣装を仕立てる職人たちも、庶民の服装を模した二着を届けてくれた。

どちらも見た目は質素だったが、よく見ると上質な絹地で作られていた。

私はその服を手に取り、鏡の前で何度もくるくると回ってみる。胸の奥が高鳴り、祝祭の日が待ち遠しくなった。

エドワルドを誘う口実として兄の厳しさを口にしたのは半分は演技だったが、もう半分は本当のことでもあった。

かつての祝祭の日、私たちはいつも祖先から受け継がれた習わしを守っていた。

たとえば夕食では、獣の内臓を使った特別なソースを小さなパンに塗って食べる。

それは、まだ人々が荒野に生きていた時代の名残であり、自然の恵みを忘れぬようにという願いから、西部地方では今も続けられている風習だという。

私はその味を嫌いではないし、むしろ好きだった。母と一緒にその料理を食べた幼い頃の思い出がよみがえるからだ。

だが、ルドヴィクス兄様はその料理を好まなかった。いつも濃いウイスキーを一杯添えて、ようやくそのソースのついたパンを飲み込んでいた。

どれほど嫌いでも、兄様は毎年欠かさず、伝統に従って少しだけ口にしていた。

夕食が終わると、ルドヴィクス兄様は決まって小領主や重要な資源を握る商人の家を訪ねていった。

その日ばかりは、私も礼儀作法の授業を免除され、しばらく一人で家にいられる。

そんなときは、本を読むくらいしかすることがなかった。けれど、それで十分だった。

物語の世界に没頭している間だけは、現実の自分を忘れられる。

王宮の祝祭の伝統も、料理の変化という形で表れているようだった。

もっとも、日頃から王宮の食卓はすでに十分に豪華であったせいか、祝祭の献立は普段と大きく変わることはなかった。

それでも多くの近衛や侍女たちは郷里へ帰り、家族と共に祭りを過ごすため、宮中の空気はどこか静まり返っていた。


そして――祝祭の日の朝。

夜明けとともに、私はエドワルド様とともに目を覚まし、祝典の挨拶式のために用意された豪奢な礼服に袖を通した。

婚礼ほどではないにせよ、宝石が縫い込まれたその衣はまばゆく、帝国皇室の威光をこれ以上なく示すものだった。

これから数万の民の前で言葉を述べると思うと、自然と手のひらが汗ばんでくる。

不思議なことに、結婚式の時よりもずっと緊張していた。

――おそらく、今日こそが本当の意味で「皇太子妃」としての責任を果たす最初の日だからだろう。

隣に立つエドワルド様は、いつも通り落ち着き払った表情をしていた。

彼にとってこの程度の公務など、日常の延長にすぎないのだ。

七、八年も政務の第一線に立つ男の余裕が、そこにはあった。

やがて十時を回り、儀式が始まった。

私と殿下は並んで巨大なバルコニーに立ち、眼下に広がる民の海に向かって微笑み、手を振った。

――落ち着いて、いつもの練習通りに。大丈夫。

そう自分に言い聞かせながら視線を下ろすと、無数の視線がこちらへ注がれていた。

好奇、羨望、あるいは探るような眼差し。

胸の奥で鼓動が跳ねる。

そんな私の緊張をよそに、エドワルド様は既に口を開いていた。

「親愛なる帝国の民たちよ。皇室を代表し、心よりの挨拶を述べられることを光栄に思う。昨年は幸運な年であった。われらは内海の汚染を解決し、新たな農法によって南部の食糧不足を補い、西方諸国との交易をさらに拡大した。そして何より、東のキャストレイ王国との戦いに勝利し、分裂していたキャストレイの地を再び帝国の栄光のもとに取り戻した。」

その声は穏やかで柔らかく、それでいて驚くほど力強かった。

近くにいる群衆なら、誰もがはっきりと聞き取れるだろう。

広場の至るところから歓声と賛同の声が沸き起こり、民たちはその功績に誇りを感じているようだった。

私は殿下の堂々たる姿に、少しだけ心を動かされた。

こんなにも自然に、こんなにも流麗に言葉を紡げる人なのだ――そう思うと、尊敬にも似た感情が胸の底に生まれた。

「そして、ご覧の通り、帝国皇室には新たな家族が加わった。私の愛する新妻――皇太子妃ヘローナを紹介しよう。それでは、彼女から祝祭の日の挨拶を。」

ついに私の番が来た。

深呼吸。大丈夫。――練習通りに。

「親愛なる皆さま。帝国皇室を代表して、このような機会をいただけたことに心から感謝申し上げます。厳しい冬は去り、春の風が帝国の隅々にまで命を運んでまいります。

いかなる身分の者にも、健やかなる体を、豊かなる土を、絶えぬ技を、満ちる富を――女神の祝福がもたらしますように。

ではここに、祝祭の日の始まりを宣言いたします!」

「おおおっ!」

「万歳!」

波のような歓声と拍手が広場を包み、誰かが熱狂的に叫んだ――「栄光あれ、エシュガードに!」

エドワルド様も拍手を送ってくださった。

その微笑には、どこか誇らしげな色があった。まるで「これこそ皇太子妃たる姿だ」と言っているかのように。

――無事に言えた。

胸の中で小さく息をつく。完璧に、書いた通りの言葉を言い終えた。

よかった。本当に、間違えずに済んだ。


夕暮れ時、王宮の庭園の片隅にある古びた木の扉が、きぃと小さな音を立てて開いた。

そこに現れたのは、庶民の衣を身にまとったエドワルド様だった。

約束の時間どおり――その姿を見た瞬間、胸の奥が少し高鳴った。

白いシャツに黒いベストという、あまりに簡素な装い。

けれど、整った顔立ちと鋭い眼差しは隠しきれず、彼の放つ気品はどうしてもにじみ出てしまう。

「殿下、こちらですわ!」

私は小さく手を振り、少し得意げにスカートの裾をつまんでくるりと回ってみせた。

「いかがでしょう、わたくしのこの服装?」

私の着ているのは、侍女たちの衣装に似た質素なワンピース。

ファロールが自分のスカーフを貸してくれて、髪も簡単にまとめてくれた。

「ふむ……なるほど、よく似合っている。――皇太子妃の美貌は、どんな衣でも隠せないものだな。」

殿下はいつものように微笑んだ。

その笑みは柔らかく、冗談とも本心とも取れる。

けれど、今の私はどちらでも構わなかった。

「そうですわ、殿下。せっかく庶民のふりをいたしますのですから、お互いの呼び方も変えませんとね。」

「呼び方を?」

エドワルド様は少し首を傾げ、すぐに愉快そうに微笑んだ。

「なるほど、面白い。では……ヘローナ嬢? それとも、名前で呼んだ方が自然かな。」

「ヘローナで結構ですわ。代わりに、わたくしは殿下のことを……エドさま、とお呼びしても?」

「好きに呼ぶといい、ヘローナ。」

私たちはあらかじめ用意されていた馬車に乗り込み、庶民の街のなかでもっとも賑やかな市場の近くへと向かった。

そこはあまりにも活気に満ちていて、目に映るすべてが人、人、人。

杯を掲げて騒ぐ男たち、花冠をかぶって踊る女たち、甘い菓子を抱えて駆け回る子どもたち――。

呼び声や笑い声、吟遊詩人たちの楽の音が入り混じり、夜空の下で渦を巻いていた。

秩序と静寂に慣れた私の頭は、その光景に圧倒され、思わず立ちすくんでしまった。

「どうした、君。そんなに呆然として……中へ入らないのか?」

エドワルド様はすぐに私の様子に気づき、そっと手を取った。

「ほら、あそこの店に行こう。焼き肉の屋台のようだ。君も空腹だろう、まずは何か食べよう。」

そう言って殿下は私の手を引き、店主と自然に言葉を交わした。

だが、私の意識は食べ物には向いていなかった。

殿下の指は節ばっていて、少し冷たいのに、触れていると安心する感触だった。

どれくらいの力で握ればいいのだろう――強すぎても、弱すぎても、だめな気がした。

これまで人の手を取ったのは、兄上と舞踏の稽古をしたときくらい。

あのときは当然のことのように思っていたが、今は――何かが違った。

「はい、どうぞ。」

胡椒の香りが立ちのぼる焼き肉の串が私の目の前に差し出された。

我に返って慌てて受け取り、そのまま口を開いてかぶりつく。

「あっ、あつっ……!」

「はは……。」

エドワルド様は口元を押さえて笑った。

「君のその様子を見ると、私の妹を思い出すな。数年前、あの子も同じように焼き肉を急いで食べては舌を火傷していた。」

私は少し悔しそうに串を持ち直し、何度も息を吹きかけてからひと口かじった。

――これは、まさしく天上の味。

「んんっ……おいしいですわ!」

数秒もたたぬうちに、手に残ったのは空の串だけだった。

エドワルド様はゆっくりと味わっていて、まだ半分ほど残っている。

「まだ食べたいなら、もう少し買ってこようか。」

「いえ、大丈夫ですわ。ほかの屋台の食べ物も味わってみたいですもの。」

私はスカーフで口元の油を軽く拭い、尋ねた。

「えっと……殿――いえ、エドさまは先ほど、妹君と一緒にここへいらしたことがあるとおっしゃいましたわね? この辺りにはずいぶんお詳しいようですわ。」

「子どもの頃、よくあの子と一緒に、祝祭の日にこっそり王宮を抜け出してここへ遊びに来たものだ。」

「その“あの子”というのは……セモニエ皇女殿下のことですの?」

「ほう、君はもうその名を耳にしていたのか。」

「そんなご家族のことまで、わたくしにお話しくださって……よろしいのですの?」

「構わないさ。いずれ君にも紹介するつもりだった。」

殿下は私をほかの屋台へ導きながら、妹との昔話を語ってくれた。

彼は幼い頃から、父王に外にもう一人娘がいると知らされていたという。

興味を持った殿下は身分を隠し、友人としてセモニエに近づいた。

その頃、セモニエは貴族の家に養われており、彼が兄であることも知らなかったが、二人はすぐに親しくなったらしい。

のちにヴィリウス皇帝は考えを改め、その娘を正式に皇族として迎え入れた。

兄妹は再会し、彼女は宮中に戻った。

だがこの事実はまだ公にはされておらず、皇族とその近しい者のみが知っている。

殿下は遠くを見つめながら話していた。

その横顔には、どこか言葉にできない哀しみが滲んでいたように見えた。

彼の語った話は、私がジャンヌから聞いた情報とは食い違っていた。

どちらが真実か、今の私には判断がつかなかった。

「そう……いつかお会いできる機会がありましたら、わたくしもぜひお話ししてみたいですわ。」

「君たちがうまくやっていけるといいな。」

皇女の話はそれで終わり、私は代わりに兄ルドヴィクスとの昔の出来事をいくつか話した。

もちろん、実の両親にまつわる部分は省いた。

殿下はすでに知っているかもしれないが、それを自ら語る気にはなれなかった。

ファロールに教わった食べ物を一通り味わい終えると、私は若い娘たちの輪に誘われ、歌いながら踊り始めた。

エドワルド様は少し離れた壁にもたれ、静かにこちらを見ていた。

音楽の合間、ふと目が合う。彼の長いまなざしが、確かに私を見つめていた。

胸の鼓動が速くなる。

それでも踊りの手を止めず、最後の一曲まで踊りきった。

――見てくださるなら、存分に見ていてもよくてよ。

もしかしたら、少しは心を動かしてくださるかもしれませんもの。

音楽が終わり、夜が深まるにつれて、人々は少しずつ散っていった。

娘たちは笑いながら私に声をかけた。

「すごいわね、初めてなの?」「どこのお嬢さん?」

私は慌てて答えを濁し、「家に用があるの」と言い訳してその場を離れた。

「まあまあ、恋人持ちだったのね!」という冗談めいた声が背中に飛んできたが、振り返った時には彼女たちの姿はもういなかった。

「恋人、か……別に間違いではないな。」

エドワルド様のその言葉は、どこか愉快そうでもあり、どこか挑むようでもあった。

「違うのかい? 今夜だけは、君の相手は私だろう。」

エドワルド様の声は、どこか詰問のようにも聞こえた。

けれど、その眼差しに浮かぶ笑みを見れば、彼が本気で怒っていないことなどすぐに分かった。

「相手というより……エドさまは、わたくしを口説いていらっしゃる方ではなくて?」

「ふっ……よく言うな、ヘローナ。」

「……今夜だけ、ですわよ。」

私は名残惜しそうに、まだ明かりの残る人波を見つめた。

「本当に、ありがとうございましたわ、エドさま。今夜だけは、わたくしのわがままを聞いてくださって。」

その言葉に、エドワルド様は少し驚いたように目を瞬かせたが、すぐに穏やかに笑った。

「君がこんなに楽しそうにしている姿を見られたのなら――今日の約束は、それだけで価値があったな。」

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