第2話

「で、どうだった?」


 美散が教室に入って着席するなり、翔真が話しかけてきた。


「気になるなら見とけよ」


「いやさ、怖いって」


 翔真はヘラヘラ笑った。そんな怖いものなら一緒に立ち向かってくれよ。口から出かけた言葉を飲み込んで、代わりに起きたことを語って聞かせた。

一通り話し終えると、翔真はため息をついた。


「お前さ、ほんと首突っ込むの好きな」


「好きなわけじゃない、ただ――」


「ただほっとけないだけさ、か」


「分かってるなら聞くなよな」


 今度は美散がため息をつく。翔真との会話はいつも、こうしてどこか既視感のあるものになる。それでも彼と話すのは不思議と楽しい。理由はわからないが、美散にとってはいい気休めだ。


 それから他愛のない話をしながらも、美散は目当ての男を待った。そして彼が涼しい表情を浮かべて入ってくると、即座に立ち上がろうとした。


「さて」


「待て待て待て!」


 その襟を翔真がぐい、と掴んで止めた。


「タイミングとか考えろって。たぶん喧嘩したばっかだろ? 火に油だぞ」


「ん……」


 一理あるか。彼は座り直し、その男……珠川 蒼汰たまがわ そうたを横目で見るにとどめた。西原と同じ野球部員だが、仲の悪さは折り紙付き。大方さっきの言い争いの相手もこいつだろう。


 始業のベルが鳴った後も、美散は彼らのことをずっと考えていた。熱血気味な西原と理論派の珠川。2人はいつも反発し合っている。だが、彼らは野球への情熱という面で極めて似通っている。珠川とは同じ中学だった。その内面の熱さは、分かっているつもりだ。


(仲良くさせてやりたい)


 ただ、それだけだった。




 三限目の体育は野球。となると、力が入るのが野球部の連中だ。愛用のバットやグラブを持ち込み、ここぞとばかりに暴れまわる。美散は早めに着替えを済ませると、部室へ向かおうとする珠川に声を掛けた。


「なあ、ちょっといいか?」


「どうした?」


「西原のことだけどさ」


 冷静な表情に、少しだけ影が掛かった。美散はそんなふうに感じた。


「……合わないなって思うこと、あるか?」


 選んでおいた言葉を慎重に発する。無駄に刺激せず、不満を口に出せるように。


「……」


 珠川は足を止めていた。


「お前もさ、昔は同じ……」


「分かってる」


 静かな、だけど重みある拒絶だった。美散は立ち去ろうとした。珠川は呟くように加えた。


「だからこそ、なんだ」


「そうか……」


 それ以上は聞かない。珠川はまた後でな、と力なく笑うと部室へと歩いていく。整理がつけば、話してくれる。今までも何度かあったこと。そう思った瞬間に頭痛が走り、脳裏に鈍く光るバットが浮かんだ。


(バット? なんで……)


 目の前がチカチカと瞬いた。その途端、異様な光景が見えた。ほぼ黒一色の光景と、現実のグラウンドの光景が、連続して切り替わり続けたのだ。


「うぐ、っ……!」


 強烈な吐き気。思わず蹲る。ぶつ切りに見える黒一色の世界。その奥に、何かが見える。灰色の、無機質な、笑顔。笑顔を模った仮面。それがカタカタ揺れている。まるで自分を嘲るかのように。


「――!!」


 遠くから聞こえた怒声が現実に引き戻す。翔真が背中を擦っている。滲んだ視界を野球部の部室に向ける。


「―――!!!」


 音はそちらから聞こえる。それも尋常な様子ではない。言葉を交わすたびにヒートアップしている。美散はよろめきながらも走り出す。翔真が止める声が聞こえる。一際大きな叫び声がそれを掻き消す。鼓動が早くなる。次に聞こえたのは、声ではなかった。


 ――ガン!


 鈍く、重く、そしてわずかに粘り気を帯びた、嫌な音だった。グラウンドが静まり返った。美散はようやく部室にたどり着くと、ドアを開けた。


「西原、珠……」


 呼びかける声は途中で止まった。西原は振り向きもしなかった。亡霊のように床に視線を落とし、倒れ込んだ珠川を見ていた。珠川の後頭部は真っ赤に汚れていた。血が出ている。反射的に目を凝らす。――ひどく、凹んでいる。


「……」


 真っ青になった西原が振り返る。その表情に、美散は思わずたじろいだ。握りしめたバットは少し凹んでいて、そこにべっとりと赤いものが付着していた。


「西原……」


 美散の声が震えた。


「違う」


 西原はハッキリとそう呟いた。その強さに反し、ゆらめくように体が動いた。今にも倒れてしまいそうな動き。美散は駆け寄ろうとした。突き出されたバットがそれを遮った。


「違う……違うって」


「西原……?」


「俺が。俺は違うんだよ。だってアイツ、正論ばっか言いやがってさ、だから、俺がさ、違う……脅かすだけで、俺は、でもアイツ、引かなくて、だから、当てるつもりじゃ――」


 西原は顔を覆うように手のひらを広げた。その指が一本一本、別の生き物のようにブルブルと震えていた。美散は何も言えなかった。ただ黙って、視線を珠川に落とした。救急車だとか、そういう方向に意識を逸らしたかった。けれども、そいつは、一目見ただけで。


「お前だ」


 ビクリと体が震えた。美散はおそるおそる視線を上げた。そこには目の端から涙をこぼし、口の端を奇妙に歪めた、見たこともない表情の西原がいた。それが真っ直ぐに、自分を睨んでいた。


「お前、今朝、知ってただろ」


「あ……ああ」


「なんでだよ」


 西原がバットを振り上げた。美散は思わず後ずさった。その少し手前に、バットが振り下ろされた。付着していた血が振り下ろす勢いで飛んで、美散の顔に掛かった。それはまだ、ほのかに温かかった。


「どうして止めてくれなかったんだよ!」


「ッ……!」


 怯える心を必死で抑え込み、美散はその場を動かなかった。説き伏せなければ。その使命感が彼を引かせなかった。それがマズかった。西原の血の気の引いた顔が、みるみるうちに真っ赤に染まった。


「そんな目で見るんじゃねえ! 全部お前だ、お前が、お前がァァァァァッ!」


 バットを体の後ろまで大きく振りかぶる。美散の時間感覚が薄れ、西原の動きがスローモーションで見えた。逃げろ。理性が叫ぶ。心が抑える。逃げてはいけない。苦しみに向き合わないと。バットが西原の頭上を越える。その『赤』が視界に入った途端、浮足立つ心は、恐怖の一色に飲まれた。


「あああああァァッ!」


「麻倉ァァァッ!」


 美散は無理に後ろを向き、全力で走り出した。ガン、と背後で轟音が響いた。西原はすぐには追ってこなかった。だがそれは本当に、一瞬の話だった。後ろから追ってくる。前方では蜘蛛の子を散らすようにクラスの連中が逃げていく。何か叫んでいるが、心臓の音がうるさすぎて、そんなものは耳に入らない。


(逃げろ!)


 心が叫ぶ。逃げるってどこへ。


(建物の中、アイツが入ってこれないところに!)


 目を動かし、手近な建物を探そうとする。だが遅い。思考のスピードに視界の移動速度が全く追いつかない。苛立つ間もなく、地面を蹴る荒い音が断続的に近づいてくる。


(校舎に)


 そうだ、アイツは。俺よりも、足が……


「ごっ!?」


 一瞬意識が飛んだ。遅れて脇腹の激痛を感じ取った。走る勢いのまま転んで、顔を地面にこすりつけた。唇にざらついた感触がした。美散は息を吸おうとした。だが無理だった。肺は壊れた機械のように、息を吐く動作を繰り返していた。


 半ば無意識状態で体を裏返し、西原を見上げた。逆光に照らされる中、バットを振り上げる姿が映った。


(死……)


 ぎゅっと目を閉じる。不思議と、その動作だけは一瞬で済んだ。だが、荒い呼吸をどれだけ繰り返しても、その瞬間は訪れなかった。……呼吸が落ち着いてくると、美散はおそるおそる目を開けた。西原は変わらずそこにいた。バットを振りかぶったまま、固まっていた。その後ろで、誰かがバットを抑えていた。


(姫木……さん?)


「離せよ! 俺は、こいつがッ」


「あなたが」


 世界が止まった。一瞬本気でそう思えたほどに冷たい声色だった。彼女はもう一度言った。


「あなたが、殺した」


 西原の瞳と口元が震えた。姫木は美散に視線を落とした。それはあまりに無感情で、厳かですらあった。


「――彼じゃない」


 痛いほどに長い沈黙。俺は西原を見ていた。彼のその、表情を。怒りが困惑に変わり、恐怖へ。そして――


 バットから手が離れた。地に落ち、無機質な音を鳴らした。俺のすぐ前に、西原は蹲った。


「うう、うあああああーっ!」


 やがて彼は大きな泣き声を上げ始めた。駆けつけた体育教師が、おずおずとその肩を抑えた。美散はそれを呆然と見ていた。その頭の中で、1つの言葉が反響し続けていた。


(お前のせいだ)


 ほんの数分前の光景がフラッシュバックする。珠川に声を掛け、それ以上は踏み込まなかった。その判断。それが、間違っていたから。こうなった?


(どうして止めてくれなかったんだよ!)


 助け起こされ、保健室へ運ばれていく間も、その声が頭にこびりついていた。

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