天秤に計れずとも

餅辺

第1話

 ああ、今日もだ。薄目を開くだけではっきりと分かった。見渡す限りに黒一色で染まった世界。それもただの黒ではなく、光を全て飲みこんでしまうほどの、完全な黒。


 もちろん、例外はある。自分が立っている、ガラスのように透明で無機質な、教室くらいの広さの足場。その北端には二つ突き出した箇所があり、それぞれに決まって何かが置かれている。それから――


「あらぁ、おはよう」


 麻倉 美散あさくら みちるは振り返り、5mほどの高さの円柱を見上げた。そこにはやはり、彼女がいた。てっぺんに腰掛けている、色っぽく足を組んだ長い黒髪の妙齢の女性。


 彼女は決まって、黒を基調としたひどく扇情的な服を着ていた。けれどもその顔には灰色の仮面を付けている。不気味で無機質な、覗き穴すら見当たらない、笑顔を模った仮面を。


「おはようって、夢だろ?」


「うふふ……」


 美散が鬱陶しそうに問うと、女性はくすくす笑いで返した。不快だが、流す。彼女は疑問形の言葉にはまともに返さない。慣れっこだ。それ以上構わず、北側へと足を進めた。今日そこに置かれていたのは、野球のバットと、リンゴだった。


「……せめてさ、何か、くらいは教えてくれてもいいんじゃない?」


「それはね?」


「え?」


 思わぬ返事に目を丸くすると、女性は仮面の口元に指先を当て、もったいぶってから続けた。


「野球のバットと、リンゴねぇ」


 うふふ、とまたも笑い声。……聞くんじゃなかった。彼女に背を向け、2つを見比べる。どちらも何の変哲もない、ありふれた日常の品だ。この中から1つを選ぶ。選び終えねば、いつまでも目覚めない。だから美散はこうして、毎晩何が正解か不正解かもわからない2択に取り組み続けているのだ。


 それでも何も考えないのも気味が悪い。美散はしげしげと品物を眺めた。……バットの方はどこかで見たような気がするが、どれほど頭を捻っても思い出せない。知り合いの持ち物か何かだろうか。そう思うと、なんとなく手を伸ばすのは躊躇われた。やがて彼は、リンゴの方に手を伸ばした。


「そっちでいいのねぇ?」


 女性が問いかける。いいも何も判断材料がない。さも意思決定をさせているような物言いに腹が立つが、どうせこの問答すら無意味。


「はいはい、いいですよ」


 同意した途端、足場が黒に溶けた。何度味わっても慣れない不気味な浮遊感の中、美散はともに落ちていくバットを見た。それは、鈍い光を放っていた。光源などどこにもないにも関わらずに。


(何だ?)


 不吉な予感を覚えたまま、彼の意識もまた黒へと溶けていった。



―第1話―


 朝の通学路。晴れ晴れとした空に、さんさんと輝く太陽。放たれる光は寝不足なまぶたの隙間から、美散の眼球を直接焼いてくる。せめてもの抵抗のように大あくびで返すと、コツンと肩が叩かれた。


「お前、ちゃんと聞いてるか?」


 友人の中崎 翔真なかざき しょうまがわざとらしく人差し指を突き出し、目の前でゆらゆらと揺らした。


「ぁあ」


 頷き代わりにあくびで返すと、翔真は顔をしかめた。


「また寝不足かよ? ちゃんと寝てんのか?」


「寝てるよ。寝てて、寝不足、なんだよ」


 重いまぶたを気力で持ち上げる。重いのでまた降りてくる。それを繰り返すうちによろよろとよろける体。不意に、足がもつれた。


「あ、おい!」


 翔真は反射的に手を伸ばした。が、届かない。美散はなすすべなくアスファルトに顔をぶつけた。……そのはずだった。しかし現実には、彼はクラスメイトの少女に受け止められていた。


(え? 今、前……いたか?)


 翔真は目を瞬かせた。美散はわけもわからず顔を上げた。それから黒い髪の少女と視線を合わせ、今しがたその胸元に顔を突っ込んでいたことに気づくと、慌てて飛び退いた。


「姫木さん!? うわ、ごめん!」


 姫木はその美しい顔立ちに何ら表情を浮かべることもなく、平謝りする美散を無言で見つめていた。……やがて謝罪が収まると、彼女はカバンから何かを取り出し、美散に手渡した。


「これ」


「え?」


 冷や汗を拭う間もなく、反射的に受け取る。……どこからどう見ても、何の変哲もない、ありふれた、ただのリンゴだ。


「どう?」


 どこか優しい声色だった。それが余計に美散を困惑させた。


「どう、って。その……」


 姫木は吸い込まれそうなほどに美しい瞳で、じっと美散を見つめている。気まずい沈黙の後、結局彼は当たり障りない言葉を返した。


「い、いいリンゴなんじゃないかな」


「……そう」


 姫木はくるりと後ろを向いた。艷やかな黒の長髪がふわりと舞い、陽光を受けて一瞬きらりと輝いた。そして何ら答えることもなく、無言で立ち去っていった。後には登校することも忘れ、呆然とする2人が残される。


「……何だろな、あれ」


「俺が聞きたいよ」


 ぼやき、また歩き出す。2人とも彼女はいない。健全な男子高校生としては浮ついた話に向かいそうなところだが、流石に意味不明さが勝った。


「昨日は何だっけ。もみじの葉っぱか。で、一昨日がえーっと」


 翔真が指折りしながら尋ねた。


「輪ゴムの箱な」


 それから飴玉、餅、栓抜き……ありふれた品物の名を上げていく。食べ物以外は自室の机の引き出しに詰め込んで、今の今まで思い出すこともなかった。彼女はこうして毎朝何かを、それも取るに足らないものばかりをくれる。そして「どう?」と一言尋ね、「そう」と静かに去っていく……


「女の子ってわかんないよな」


 美散が呟くと、翔真がいやいや、と手を振る。


「あれは特殊だと思うぜ。……にしても、お前の眠気もひどくなってきたな。病院行ったか?」


「行ったよ。行って、このザマなんだよ」


 ストレスでしょうね、と医者にまるで緊張感なく言われたことを思い出す。毎晩、何かの夢を見る。それも決まって、同じ何かを。何かはわからないが、同じであることだけは分かる……そんな曖昧な訴えに対してなら、まあそういうしかないのだろう。


「推しでも作れよ、お前も」


 翔真がピンク髪の女の子のアクキーを取り出し、これみよがしに見せた。


「かわいいだろ?」


「かわいいんじゃないか」


 もう十回は交わした気のする会話だが、名前は未だに覚えられていない。

次は『かわいいだけじゃなくってさ』。それから昨日の配信だなんだの話に続くわけだ。……心配で提案してくれているのは分かる。けれどもどうしても興味は持てていない。適当に相槌を打ちながら、美散は自身の内面に思いを馳せようとして――唐突に、怒鳴り声が聞こえた。


「何だ何だ?」


 翔真が金網状のフェンスに向かっていく。声はその向こうからだ。慌てて後を追うと、もう一度怒鳴り声がした。音のした方には、野球部の部室があった。


「翔真、今の声ってさ」


「ああ、西は」


 怒声が返事を遮り、部室のドアが開いた。中から出てきたのは同じクラスの西原 大和さいはら やまとだ。険しい面持ちがさらに怒りで歪んで、恐ろしい形相になっていた。翔真が一歩引いた。


 乱暴に地面を踏んで歩き出す西原。その背中に、部室から何事か声が掛かった。彼はそれを怒鳴り声でかき消すと、ドアノブをねじ切らんばかりの勢いでドアを閉じてしまった。


「やっべ……何だよアレ」


 翔真が隠れつつ呟く。西原は憤懣やる方ないといった様子で周囲を睨みつけている。けれども美散は、まっすぐに部室を見ていた。いや、正確には、その中に一瞬見えたものに思考を奪われていた。


「ちょっ、ちょい! バレるって……」


 数度の促しに、美散はようやく気づいた。けれども彼はまるで構わなかった。西原はすぐに彼の姿を見つけると、大柄な体を揺らしながら詰め寄ってきた。


「おい、麻倉よォ」


 ガシャン、と金網が揺れた。まるで猛獣の檻だ。


「何かあったのか?」


 美散は率直に尋ねた。西原の表情が消えた。彼は低く、唸るように笑い声を上げていた。翔真はとっくに逃げていた。


「『何か』『あったのか』って?」


 一瞬、間があった。美散は威圧されないよう、腹に力を込めた。


「あるんだよ! いっつもいっつも、あの野郎が!」


 真正面からの怒声が美散の鼓膜を大いに揺さぶった。空気がビリビリと震え、熱を帯びているかのようだった。


(よっぽど苛つかされたんだろうな)


 荒く息をする西原を前に、美散は思考を巡らせる。やがて三半規管が落ち着くと、彼は心配そうに尋ねた。


「ならさ、俺が相談に……」


「チッ……!」


 大きな舌打ちを返答代わりに、西原は去っていった。美散はしばしその後姿を見送ると、ゆっくりと振り向く。すると事態を遠巻きに見守っていた野次馬が何食わぬ顔で登校に戻り始めた。


「……」


 やがて美散も登校に戻った。けれども彼の心には、その間も妙な胸騒ぎが残り続けていた。


(……何だったんだ? あれ)


 西原の怒り。まず、それが心配だ。だが、それだけじゃない。部室の中に見えた、1本のバット。何の変哲もないそのフォルムが、頭の中にこびりついて離れなかった。

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