エアコンの鼓動を聴けよ
澪葉流
エアコンに無常感は適用されますか?
スマートフォンなるものが普及した昨今に、あらゆる娯楽が溢れに溢れた昨今に、折角の利き腕をただ、自分の火照った頬を扇ぎ立てるために使う愚か者はこの男をおいて他にいない。
テレビに映るニュースキャスターは、やれ地球温暖化だとか、やれ10年ぶりの猛暑だとか、そんな、既に誰しもが知っていることを手元の原稿に目を落としながら矢継ぎ早に話している。
前述した通り、男は未だに頬を手で扇ぐことをやめていない。その理由は、エアコンという暑さを乗り切るためのメインウェポンが故障してしまい、その修理業者を待つ間それしか講じる手立てがないからである。
こんな時に頼りになるサブウェポンの扇風機は、かつてエアコンがあるからと捨ててしまっていた。だから、まず男は立ち上がり、おもむろに窓に立ち向かって勢いよく開いた。その瞬間男は、死も同然と生へと執着を完全に切り去った覚悟で這い上がっていた洞窟の目先に一筋の光が差し込むのを見たようなそんな気持ちになった。
それは、そよ風が男の体中の毛という毛を靡かせ、男に生きている実感を味合わせたことが大きく関係していた。
男は自分の頬に手を当てて熱が少しずつこの体から去っていくのを感じ、カラッとした青空に背を向けて、ソファの上に戻った。
数十分後、この部屋がまた先ほどのような熱気を帯び始めているのを感じ取った男は、もう窓から入る風が無いことを確認すると、窓を閉めた。
風という友人が部屋を後にした今、男は本当の意味でこの熱い部屋に一人になった。
一人になったということは、一人で向き合っていく他ない。なにか手立てを講じようと氷、川、風鈴、雪、アイスクリームと涼しげなものを思いつく限り暗唱してみても気休め程度にしかならず、風の偉大さがわかった。
陽光が男の疲弊しきった体を嘲笑うかのようにカーテンの隙間から差し込み、男を不快にさせる。待っても待っても業者は来ない。
メロスを待つセリヌンティウスもきっとこんな気持ちだったのだろうか。
もうこんな時は寝るしかない、そう思った。
業者が到着するまで寝ていよう。そうしようと。男は無駄な抵抗はよして、ただ良い子にしていようと思った。そうして男は目を閉じた。
ピンポーン
その音で、男は目を覚ました。
口から唾液を零し、腹毛の生えた腹をたくし上げた肌着から覗かせている。そして、極め付けは両手の在り処がパンツの中だった。なんとも万端みすぼらしい。
男はのっそりと体を起こし、頭をポリポリ掻きながら玄関に向かい、扉を開けた。
そこには、青色作業着を着た、如何にもあなたの家のエアコンを修理しにきましたよと言いたげな顔をした30歳ぐらいの男性が立っていた。男は、ようやくこの地獄から解放されるのだと思うと涙が出そうになるが、それを押し込み、平然を装ったまま、業者を部屋に入れて、壊れたエアコンのもとに案内した。
なんの整理もされていない自室を他人に不承不承になることなく披露できるのもある種この男の良さなのかもしれない。
業者は道具を取り出すと、素早く作業にとりかかり、6時間程で直して見せた。真夏だからか、外はまだ明るい。もう一度エアコンの風を浴びることができると考えると、男の胸に安堵か、歓喜か、またはその両方の性質を併せ持つ感情が湧き上がって来るのを感じた。男は代金を業者に渡し、感謝を込めて冷蔵庫に入っていたブラックコーヒーも一緒に手渡した。ありがとうございましたと言って浅くお辞儀をする業者を、笑顔で優しく見送る。
ドアを閉めてからの男の足取りは、今にも宙に舞って天井に頭をぶつけてしまうのではないかと心配になるほど軽かった。
リモコンで冷房ボタンを押すと、エアコンは見慣れた表情で男の目を見た。その男の目には涙が浮かび、先程まで火照っていた頬を濡らした。男はリモコンを手に呆然と立ち尽くしたまま、文明への感謝を心で唱えていたが、やがてハッとなにかを思い出したようにリモコンを凝視すると、風速を最大にした。
おしまい
エアコンの鼓動を聴けよ 澪葉流 @kiryudown
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