第2話「運命の出会いは甘い香り」

「こ、これは……」


 リヒトは突然の出来事に言葉を失った。

 目の前にいるのは、先ほどまで畏怖の念を持って遠くから眺めていた騎士団長、アレクシス・フォン・クレイスト本人だ。その彼が、今はリヒトの手の中にある、みすぼらしいクッキーを真っ直ぐに見つめている。

 冷たいと噂される青い瞳が、何を考えているのか全く読めない。


(どうしよう……怒られるんだろうか。こんな所でこんな物を食べているなんて、みっともないって……)


 恐怖で体が縮こまる。義兄であるユーリにいつも言われている言葉が、頭の中をぐるぐると回った。

 しかし、アレクシスの次の言葉は、リヒトの予想を完全に裏切るものだった。


「一つ、もらってもいいだろうか」


「……え?」


 リヒトは自分の耳を疑った。今、この人は何と言ったのだろう。聞き間違いだろうか。

 リヒトが呆然としていると、アレクシスは少しだけ眉を寄せた。その表情に、リヒトははっと我に返る。


「あ、も、もちろんです!どうぞ、こんなものでよければ……!」


 慌てて布袋から一番形の良いクッキーを取り出し、震える手でアレクシスに差し出した。

 アレクシスは、その小さなクッキーを優雅な仕草で受け取ると、じっと眺めた後、ためらいなく口へと運んだ。


 ごくり、とリヒトは唾を飲み込む。心臓が早鐘のように打っている。

 鬼団長とまで呼ばれる人が、自分の作った素朴なクッキーをどう思うだろうか。甘すぎるとか、固すぎるとか、文句を言われるかもしれない。最悪の場合、地面に叩きつけられるかも。

 そんな想像までしてしまい、リヒトはぎゅっと目を閉じた。


 しかし、訪れたのは静寂だった。

 恐る恐る目を開けると、アレクシスは目をわずかに見開き、口元に手を当てて固まっている。その表情は、驚いているようにも、何かを深く味わっているようにも見えた。


「……美味い」


 ぽつりと、アレクシスが呟いた。

 その声は、リヒトが今まで聞いたどんな言葉よりも、心に温かく響いた。


「このクッキー……今まで食べたどんな菓子よりも、心が安らぐ味がする。不思議な感覚だ」


 アレクシスはそう言うと、もう一度リヒトの手元に視線を落とす。

「甘いものは得意ではないのだが」と呟きながらも、その表情はどこか柔らかい。

 リヒトは、その言葉が信じられなかった。

 ユーリからはいつも「お前の作るものなど、誰も食べたいとは思わない」と言われ続けてきた。だから、誰かに「美味しい」と言ってもらえるなんて、夢にも思っていなかった。


「あ、ありがとうございます……」


 やっとのことで絞り出した声は、震えていた。喜びと安堵で、目の前が滲む。

 そんなリヒトの様子に気づいたのか、アレクシスはふっと表情を和らげた。


「礼を言うのはこちらのほうだ。素晴らしいものを食べさせてもらった。名は?」


「リヒト、です。リヒト・アシュフィールド……」


「リヒトか。良い名だ」


 アレクシスはそう言うと、懐から小さな金貨を一枚取り出し、リヒトに差し出した。

「クッキーの代金だ」と言うアレクシスに、リヒトはぶんぶんと首を横に振った。


「そ、そんな、いただけません!勝手に差し上げただけですから!」


「そうか。では、代わりに一つ頼みがある」


 アレクシスは金貨をしまうと、真剣な眼差しでリヒトを見つめた。

「また、お前の作った菓子が食べたい。騎士団の詰所まで届けてはもらえないだろうか」


 その申し出は、リヒトにとってあまりにも衝撃的だった。

 騎士団の詰所へ、この自分が?アレクシス様のために、お菓子を?

 まるで夢物語のようだ。しかし、アレクシスの瞳は真剣そのものだった。


「……はい。喜んで」


 リヒトは、自分でも驚くほどはっきりとした声で答えていた。

 初めて誰かに必要とされた気がした。初めて、自分の作るお菓子が、誰かを喜ばせることができた。その事実が、リヒトの心に温かい光を灯した。


 アレクシスは満足そうにうなずくと、「待っている」とだけ言い残し、部下たちが待つ方へと去って行った。その大きな背中が見えなくなるまで、リヒトはずっとその場で見送っていた。

 手の中には、まだクッキーの甘い香りが残っている。


(俺、騎士団長様にお菓子を作るんだ……)


 屋敷に帰る足取りは、信じられないほど軽かった。

 もちろん、帰り着けばまたユーリの嫌味と、冷たい視線が待っているだろう。それでも、今のリヒトの心は、不思議な高揚感と、未来への小さな希望で満たされていた。


 その夜、リヒトはいつも以上に心を込めて、新しいお菓子作りに取り組んだ。

 アレクシス様の口に合うだろうか。どんな顔で食べてくれるだろうか。

 そんなことを考えながら生地を混ぜる時間は、今までで一番幸せな時間だった。

 メニューは、ハチミツと少しだけ手に入ったスパイスを使った、香り高いパウンドケーキ。リヒトが持てる技術と愛情のすべてを、その小さなケーキに注ぎ込んだ。


 翌日、リヒトは焼きあがったケーキを大切に抱え、緊張しながら騎士団の詰所を訪れた。

 門番に事情を話すと、怪訝な顔をされながらも、なんとか中へと通される。案内されたのは、団長の執務室だった。

 重厚な扉を開けると、そこには書類の山に囲まれたアレクシスがいた。

 リヒトの姿を認めると、彼はわずかに目元を緩めた。


「来たか、リヒト」


 その声に、リヒトの緊張が少しだけほぐれる。

 持ってきたケーキを差し出すと、アレクシスはすぐに一口食べ、そして昨日と同じように、わずかに目を見開いて動きを止めた。


「……やはり、美味いな。お前の菓子は、疲れた体に染み渡る」


 アレクシスの言葉に、リヒトの胸が温かくなる。

 この人のために、また作ろう。そう、心から思った。

 この出会いが自分の人生を根底から変えるとは、リヒトはまだ知る由もなかった。

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