虐げられΩに転生した元αパティシエ。お菓子作りしか生き甲斐がなかったのに、最強の鬼団長に見初められて運命の番として溺愛されています

藤宮かすみ

第1話「虐げられΩと秘密のお菓子」

 冷たい石の床に膝をつき、リヒトは一心不乱に床を磨いていた。

 雑巾を絞る手は赤くかじかみ、継ぎはぎだらけの古いシャツからは、痩せた肩の骨が浮き出ている。

 ここはアシュフィールド男爵家の広い廊下。

 リヒトがこの世界で目を覚ましてから、もう半年が過ぎようとしていた。


(前の世界じゃ、俺はαだったのにな……)


 そう、リヒトは転生者だ。

 現代日本でパティシエ見習いとして働いていたαの青年が、不慮の事故で命を落とし、気づけばこの異世界のΩの少年、リヒト・アシュフィールドになっていた。

 Ωとは、この世界で最も虐げられる性。子を産むための存在と見なされ、社会的地位は低い。

 おまけにこの家の嫡男で、義理の兄にあたるユーリからは、目の敵にされていた。


「おい、リヒト。まだそんな所でぐずぐずしているのか。薄汚いΩめ」


 背後から投げかけられた冷たい声に、リヒトの肩がびくりと震える。

 振り返ると、銀色の髪を揺らし、整った顔を不快そうに歪めたユーリが立っていた。今日も完璧に着こなした上等な服が、リヒトのみすぼらしさを一層際立たせる。


「も、申し訳ありません、ユーリ兄様。すぐに終わらせます」


「ふん。お前がいるだけで空気が澱む。さっさと終わらせて俺の目の前から消えろ」


 吐き捨てるように言うと、ユーリはリヒトの横を通り過ぎて行った。

 胸に残されたのは、ちくりと刺すような痛みと、どうしようもない無力感だけだった。

 この家にリヒトの居場所はない。

 父である男爵は仕事でほとんど屋敷におらず、母である男爵夫人はユーリを溺愛し、Ωであるリヒトをいないものとして扱っている。使用人たちも、次期当主であるユーリを恐れて、リヒトを見て見ぬふりをしていた。


 そんなリヒトの唯一の心の支えは、夜、皆が寝静まった後に、厨房の片隅でこっそりと行うお菓子作りだった。

 前世で学んだ知識と技術が、この世界でも通用することが唯一の救いだ。材料は限られている。厨房の隅に追いやられた古い小麦粉や、少しだけ残った砂糖。

 それでも、リヒトは工夫を凝らして、ささやかなお菓子を作った。

 誰に食べさせるでもない。ただ、無心で生地をこね、甘い香りに包まれている時間だけが、辛い現実を忘れさせてくれた。


 その夜も、リヒトは音を立てないように厨房へ向かった。

 今日のメニューは、ありあわせの木の実を入れた素朴なクッキーだ。生地を丁寧に成形し、古いオーブンの火加減を慎重に調整する。

 やがて、厨房に香ばしい匂いが立ち込め始めた。完璧な焼き上がり。

 リヒトは熱いクッキーを一枚つまみ、小さな口でかじった。


「……うん、美味しい」


 サクサクとした食感と、木の実の香ばしさ、そして優しい甘さが口の中に広がる。思わず笑みがこぼれた。この瞬間があるから、明日も頑張れる。

 リヒトは焼きあがったクッキーを冷まし、いつも使っている小さな布袋にいくつか詰めた。残りは、見つからないように戸棚の奥深くに隠す。

 これが、リヒトのささやかな幸せであり、秘密だった。


 数日後、リヒトは男爵から街へのお使いを言いつかった。

 滅多にない外出の機会に、リヒトの心は少しだけ弾む。もちろん、あの秘密のクッキーも少しだけポケットに忍ばせて。

 用事を済ませ、少し遠回りをして広場に出ると、ひときわ大きな人だかりができていた。

 何事かと覗き込むと、きらびやかな鎧をまとった騎士たちが、馬に乗って行進しているところだった。


 その中心にいる一人の騎士に、リヒトは目を奪われた。

 陽の光を反射して輝く、美しい銀髪。彫刻のように整った顔立ちは氷のように冷たく、近寄りがたい雰囲気をまとっている。しかし、その瞳の奥には、鋭い知性と強い意志が宿っているように見えた。

 周囲の人々が畏敬の念を込めて彼の名を口にするのが聞こえる。


「クレイスト騎士団長様だ……」

「相変わらず、お美しいがおそろしい……」


 彼が、この国の守護者と名高い、アレクシス・フォン・クレイスト。αの中でも特に優れた能力を持つ、若き騎士団長。

 リヒトは、ただ呆然とその姿を見つめていた。

 住む世界が違いすぎる。自分のような薄汚れたΩとは、決して交わることのない存在。

 そう思った瞬間、ぐぅ、とリヒトのお腹が情けない音を立てた。朝から何も食べていなかったことを思い出す。


 リヒトは人混みを離れ、広場の隅にあるベンチに腰掛けた。そして、ポケットから大事に持ってきたクッキーを取り出す。これが今日のお昼ご飯だ。

 一口食べると、優しい甘さが空腹に染み渡った。

 その時だった。


「――良い匂いがするな」


 低く、落ち着いた声が頭上から降ってきて、リヒトはびくりと顔を上げた。

 そこに立っていたのは、先ほどまで遠い存在だと思っていた、あの騎士団長――アレクシス・フォン・クレイスト、その人だった。

 なぜ、こんなところに?

 リヒトが驚きで固まっていると、アレクシスは感情の読めない青い瞳で、リヒトの手の中にあるクッキーをじっと見つめた。


「それは、お前が作ったのか?」


 その問いに、リヒトの心臓が大きく跳ねた。

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