灰の谷の灯 ― 炉の息を待つ夜
(エイラ視点)
灰は、今日も降っていた。
この谷では、それが朝の音。
火の灯りは消えず、息のように明滅していた。
あの夜、彼女は言った。
「……わたし、また来る。何度でも」
その声だけが、今も火の奥に残っている。
思い出すたび、胸の奥の火がかすかに鳴る。
火は眠らない。けれど、待つことは眠るよりも長い。
一日目、風が止んだ。灰がまっすぐ落ちた。
二日目、屋根に積もる灰が重く沈んだ。
三日目、火は弱まり、息を潜めた。
四日目――彼女の声が幻のように聞こえた。
「……また来る。何度でも」
その言葉を信じて、炉の前に座り続けた。
会いたい――
その一語が、熱よりも重く胸に溜まっていく。
夜になると、灰が静かに降る。
外の風の音が変わり、谷の呼吸が浅くなる。
炉の光が、まるで誰かの鼓動のように脈を打つ。
「……火よ、眠るな」
掌で囲む。
熱が皮膚を焼き、心臓の拍と重なる。
その痛みが、確かに“生きている”証のようだった。
灰の向こうで何かが動いた気がした。
風が鳴り、扉の蝶番が小さく軋む。
嵐の前の音――
それでも心臓が跳ねた。
扉を押す音がした。
重く、湿った音。
灰の粒が光に浮かび、空気が揺れる。
彼女が立っていた。
白い影、静かな瞳。
呼吸が、熱に変わる。
「……また来たのか」
自分でも驚くほど低い声。
待っていた――それだけでいいはずなのに、
言葉はそれしか出なかった。
「火が……見えたから」
その声を聞いた瞬間、
炉の火が強く鳴いた。
赤い光が揺れ、影が動く。
「火?」
「うん、あの夜の。あなたの胸の音の色」
火の色――あの夜の記憶が蘇る。
もう言葉はいらなかった。
炉の奥で火がぱちりと鳴る。
それが、再会の合図だった。
⸻
灰は、今日も降っていた。
だが、降り方が違う。
空が息を詰め、谷が静かに圧を孕んでいる。
屋根の穴から差す光が、灰を裂いて落ちる。
火は浅く息をし、怯えるように揺れていた。
「……風、変わってきたね」
彼女の声。
外気が頬をかすめる。
鉄の焦げた匂い、稲妻の前触れ。
「嵐が来る」
「火、弱まってる。……灰が湿ると、空気が詰まるんだ」
「わかってる」
床が鳴る。
巨体が立ち上がり、空気が重くなる。
火がそれに応えるように揺れた。
彼女が炉口に膝をつく。
火箸を持ち、炭をかき集める。
けれど火は、苦しげな息をしていた。
「ねえ、もっと風を入れられない?」
「外の風は、もう灰を運んでる」
静寂。
赤が青に滲む。
火は――声を失っていた。
「……ねぇ、エイラ。もしこの火が消えたら、どうなるの?」
答えられない。
その問いの奥には、
“もし”では済まない何かがある。
膝をつき、炉口の光に掌を伸ばす。
灰をかき分け、残った熱を包み込む。
「――この火は、わたしたちだ」
風が唸る。
灰が旋回し、光が砕ける。
彼女が火を抱きしめるように腕を広げた。
汗と灰が頬を伝う。
その背中に、爪先で触れる。
「息をして、エルシア」
「……え?」
「火のように。わたしたちは、それでひとつになれる」
嵐が吠える。
灰が壁を打ち、風が声を裂く。
火が揺れ、奥でふたつの呼吸が重なる。
――重なって、ひとつになる。
火と灰のあいだで、ふたりの息が世界を保っていた。
⸻
風が止み、炉の光が再び赤を取り戻す。
彼女が振り返る。
その瞳が、まだ光を宿していた。
「……生きてる」
「火も、息も」
火は眠らない。
谷の空はまだ灰を降らせている。
けれどその灰の向こうで、火が静かに呼吸を続けていた。
すう……ふう。
灰は、音もなく降り続けていた。
そして、ふたりの心臓もまた、同じリズムで。
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