灰の谷の残響 ― 呼吸を合わせ、灰を裂く
灰は、今朝も降っていた。
けれど、風の匂いが違っていた。
眠る前に誰かの声を聞いた気がして、
目を開けたときにはもう、靴を履いていた。
すう……ふう。
灰もまた、わずかに息をした。
気づけば、灰の谷の縁に立っていた。
どうしてここにいるのか、分からない。
ただ、足が勝手に動いた。
胸の奥の奥――心臓のさらに内側が、
炉の熱に似た脈を打っていた。
灰はゆっくりと降りて、頬を撫でる。
あの夜、爪先で触れられた感触に似ている。
触れられぬまま撫でられた、あの記憶。
それが、どこかでまだ続いている気がした。
歩くたび、心臓の音が強くなる。
風が冷たいのに、身体の内だけが熱い。
呼ばれている――そう思った。
言葉ではなく、火の音で。
火は、眠らない。
丘を下りきったとき、空がひときわ低く唸った。
灰が風に舞い、視界が白む。
その白の裂け目に、ひと粒の赤が灯った。
谷の底で、誰かが火を守っている。
「……やっぱり」
呟いた声は、灰に溶けて消えた。
けれど、胸の中では確かに返事があった。
――待っていた、と。
わたしはそのまま足を進めた。
崩れかけた工房の屋根が見える。
扉は半分灰に埋まり、木の節がひび割れていた。
それでも、炉の赤は途切れずに呼吸をしていた。
火は生きている。
火が、わたしを呼んでいる。
その声に従う以外の選択肢を、
わたしの世界はもう持っていなかった。
⸻
扉を押すと、重い音が鳴った。
中の空気がわずかに動く。
灰の粒が光に浮かび、ゆらゆらと舞う。
炉の火が頬を照らし、
そこにまだ、温もりがあった。
椅子の上に、彼女はいなかった。
炉の奥で、金属の軋む音がする。
その音を追って奥へ進むと――
背中の広い影がゆっくりと振り返った。
「……また来たのか」
低く、深く、懐かしい声。
その響きが胸に落ちる。
わたしは頷く。
灰が髪に落ちる。
そのたびに、心臓がまた跳ねた。
「火が……見えたから」
「火?」
「うん、あの夜の。あなたの胸の音の色」
巨人の影が少しだけ傾ぐ。
言葉の意味を測るように。
けれど、それ以上は問わなかった。
炉の奥で火がぱちりと鳴る。
その音が、挨拶の代わりになった。
⸻
灰は、今日も降っていた。
けれど、その落ち方が違っていた。
ひとつひとつの粒が、いつもより重く、湿り気を帯びていた。
まるで空そのものが息を詰めているように、谷は静かに圧を孕んでいた。
工房の屋根にあいた穴から、灰が斜めに差し込む光を切り裂いて落ちる。
炉の火は赤く息づいていたが、その揺らめきは浅く、
まるで何かに怯えているように小さく瞬いていた。
「……風、変わってきたね」
わたしは手を止め、窓辺に歩み寄る。
外気が頬に触れる。冷たい、けれど違う冷たさだ。
灰の香りの奥に、遠くの鉄の焦げた匂い――稲妻の前触れ。
「嵐が来る」
背後で、低く静かな声。
椅子の上の巨影――エイラが、鉄の槌を置いて炉を見つめていた。
その瞳は、炎の奥の何かを測るように細められている。
「火、弱まってる。……灰が湿ると、空気が詰まるんだ」
「わかってる」
エイラは立ち上がった。
床が低く鳴り、梁がわずかに震える。
天井すれすれのその影が動くだけで、工房全体の空気が変わる。
わたしは慌てて作業台に走り、炉口の前にしゃがんだ。
小さな両手で火箸を取り、まだ残っている炭をかき集める。
火は息をしていた――けれど、それは苦しげな呼吸だった。
「ねえ、もっと風を入れられない?」
「外の風は、もう灰を運んでる」
巨人の声は静かだった。
その静けさが、逆に嵐の近さを教えていた。
炉の光がゆらりと歪み、
赤が一瞬だけ青みを帯びる。
わたしは思わず息を呑んだ。
火は、声を失っていた。
「……ねぇ、エイラ。もしこの火が消えたら、どうなるの?」
巨人は答えなかった。
ただ炉の前まで歩み寄り、片膝をついた。
その手が鉄の灰をかき分ける。
掌の大きさが、炉口の光をすっぽり覆ってしまう。
「――この火は、わたしたちだ」
その言葉とともに、工房の奥がかすかに軋む。
外では風が立ち上がり、谷の灰が旋回を始めた。
灰の粒が空を裂き、遠くで稲光が走る。
わたしは炉口の火を守るように両腕を広げた。
熱が顔にまとわりつく。
頬を伝う汗と、灰の湿りが混ざり、指先に光の膜が残る。
火の光が頬に映る。
ふう。
その瞬間、巨人の指先が、わたしの背に触れた。
爪先――それだけで、十分だった。
「息をして、エルシア」
「……え?」
「火のように。わたしたちは、それでひとつになれる」
次の瞬間、外の嵐が吠えた。
灰が壁を打ち、打たれた灰が弾け、風が声を裂いた。
火が揺らめいた。
だがその揺らぎの奥に、確かにもうひとつの呼吸があった。
重なって、ひとつになる。
火と灰のあいだに、二人の息が、世界を保っていた。
⸻
灰は静まり、炉の光が再び赤を取り戻す。
工房の空気がゆっくりと落ち着いていく。
わたしは振り返り、エイラの影を見る。
その大きな掌がまだ、炉の上に置かれていた。
「……生きてる」
わたしの声が微かに震えた。
エイラの唇が動く。
「火も、息も」
火は眠らない。
谷の空はまだ灰を降らせている。
けれどその灰の向こうで、火が静かに呼吸を続けていた。
すう……ふう。
灰は、音もなく降り続けていた。
そして、ふたりの心臓もまた、同じリズムで。
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