第9話 科学と錬金術による究極の温泉

賢者の計画


 賢者の館の窓から差し込む朝の光が、大賢者イヴリンの顔を照らしていた。彼女の視線は、目の前の机に広げられた魔導紙の記録に釘付けになっている。


 『被験体ノア・ラビスタ。骨と組織の結合は正常。しかし、治癒速度が遅い。想定回復時間の三倍を要する見込み』


 イヴリンは静かに魔導紙を握りしめた。ノアの事故以来、彼女の心に巣食う賢者としての責任感と焦燥が、この遅々とした回復速度に耐えがたく、冷静さを保つのが難しいほどだった。


 「エルザ」イヴリンは、館内の管制区画にいる妹に向かって声をかけた。


 『はい、姉様』妹のエルザの声が冷静に返ってくる。


 イヴリンは、立ち上がり、街の区画図に視線を移した。


「私は、この館の隣接地に、傷の治りを早める効果を持つ温泉を建設することにしたよ」


「え?」 エルザの普段の冷静なトーンからは想像もできない、わずかに上擦った声が、一瞬、間の抜けた音を発した。


 その直後、研究所の自動扉が勢いよく開き、白衣を翻した天才科学者アイリスが飛び出してきた。その手には、ノアの回復に関する新たな資料が握られていたが、彼女の顔は興奮に頬を染めて輝いていた。


「温泉ですって!? 温泉!? 入りたいっ!」


 イヴリンは眉をひそめた。


「君がいきなりこんなに肯定するとは珍しいね、アイリス」


 アイリスはすぐに顔を引き締め、そっぽを向いた。


「だってあたしも入りたいし……じゃなくて、ノアに早く治ってほしいからね。それに街興しにもなるんじゃない? ……仕方ないから、あたしも協力するわ」


 ◇



こだわりの衝突


 イヴリンが示した温泉の設計図には、全自動湯守りゴーレム、薬草の蒸気サウナ、冷却のルーンが刻まれた滝など、豪華な要素が書き込まれていた。


「イヴリン様! 待ってください! この地盤は不安定です。必要な資材の費用対効果も悪すぎます。これは看過できません!」


 エルザが採算性の悪さを指摘する中、アイリスは興奮を隠しつつも、科学者としての主張をイヴリンに突きつける。


「イヴリン先生! 協力するけど、あたしの科学力も入れさせてもらうわよ。ちょうど試したかった装置があるの。衛生面で強化できるわ」


 イヴリンは、アイリスの科学的な批判を無視し、自らの錬金術のプライドを叩きつける。


「黙れ。余計な機能の余地はない。この温泉は、湯温を自動調整し、薬草の錬金術の蒸気を発生させる『全自動・湯守りゴーレム』を核とする。湯上がりには『超冷却ルーンの滝』で活力を取り戻す。私の技術が、ノアに安息を与えるだろう」


 アイリスは首を横に振って、対抗する。


「馬鹿げてるわ! 相変わらず技術は凄まじいけど湯守りゴーレムなんて大掛かりすぎるわ。『再現性』と『安全性』が低いでしょ。身体の安全を確保するには、最新の殺菌装置と、体調を細かく把握できる健康管理装置のほうが必須だわ」


 二人の天才の「こだわり」が衝突した。その根底にあるのは、ノアの回復を誰よりも願う不器用で、熱すぎる情だ。



 ◇



 協働


 一日の長ゆえか温泉づくりは、イヴリンが主導で動き出した。エルザの悲鳴にも似た「資材を使いすぎです」という小言を無視し、イヴリンは強行的に建設を開始した。


「仕方ないから手伝うけど、あたしの装置も使わせてね」


「私の完璧な設計に隙間があればだが、支援したあとなら許そう」


 アイリスは、イヴリンの錬成炉を分析し始めた。彼女は、科学の力で地盤の弱さを補強するコンクリート状の化合物を生成し、イヴリンの錬成炉に「給湯効率を限界まで高める科学的なパーツ」を組み込むことで支援する。


「錬金術の非日常性」と「科学の精密性」が、現場で融合していく。


 全自動湯守りゴーレムは、アイリスの高性能殺菌装置を黙々と背負い込み、湯の浄化と温度管理を同時に行う、究極のハイブリッドアイテムへと変貌した。


 結局、イヴリンの考えた大掛かりな錬金装置も、アイリスの精密機器もどちらも導入されたのだ。満足する二人の裏でエルザは嘆いていた。

 

 そんな三人の口論や議論の中、アムリタの街の片隅に完成した温泉は、周囲の景観から浮き立つほど豪華絢爛で、街の復興計画の『非効率の象徴』として夜には数千の人工蛍石が輝き、日中も薬草の甘い香りが周囲に漂っていた。まるで、科学と錬金術の粋を集めた、『愛情という名の浪費の芸術』のようだった。



 ◇



究極の治療とノアの悲劇


 建設された温泉に男女の差はなかったが、ノアの傷の治療と、女性陣への配慮から、ノアの入浴は先行して行われた。


 ノアは、精巧な図解と美しい筆致で、各薬湯の効能や適切な入浴時間が詳述された「温泉を楽しむ虎の巻、オススメの湯十二選」と題された施設の利用順や楽しみ方を記した説明書を手に、感謝を込めて一番風呂に入った。


 女性陣は少し時間をずらしてから、ノアの通過した泉に入浴する。


 説明書には、「湯の効能を最大限引き出すための徹底した手順」が記されていた。ノアは、一つ一つの設備を完璧に試すことが二人の天才への最大の感謝だと考えた。


 彼は錬金術の薬草石鹸で体を洗うと、目玉の露天岩風呂はもちろん、効能の違う複数の薬草の湯に順に浸り、薬草特有の芳醇な香りに包まれる錬金術式サウナコースを完走。そして、温度制御された水風呂に入り、超冷却装置付きの滝に打たれた。


「あれ、なんだかおかしいな……」


 健康計測装置が設置された脱衣所に戻った瞬間、ノアはふらつき、床に倒れてしまう。すべての設備を試した結果、湯に入り過ぎてのぼせたのだ。傷は塞がっていたものの、本人が限界を超えていた。


 「ちょっ、ノア!?」


 計測装置のアラーム音を聞いたアイリスは、タオルを巻いた姿で駆けつけると、彼女の顔からは科学者としての冷静さが完全に消え失せ、代わりに純粋な焦燥と心配が浮かび上がっていた。彼の血圧と体温が危険値を示しており、倒れているのを見て絶叫した。


「ちょっ、馬鹿なの!?  あたしの警告を無視して、すべての設備を試すなんて!」


 アイリスはノアを抱き起こし、その傷が完全に塞がっていることを確認して、安堵の息をついた。いや、違う。今起きている事態は別だった。


「本当に傷は全部治るのね。すごい……けど……」


「……この温泉は、最高に効きます。けれど、おかしいな。精霊たちが、いつもより強く僕の体に働きかけている。星がきらきら落ちてきて、世界が回る……」


 見えてはいけないものが見えているノアは、幸せそうに微笑んだまま意識を失ってしまった。


「ノアっ! ダメよっ!」



 ◇



 癒やしの湯


 ノアが安眠に入ったのを見届けた女子組三人は、改めて湯船に浸かった。イヴリンの不器用な情とアイリスの科学が融合した湯は、エルザ含めて三人の心を穏やかに解きほぐした。 


 彼女らはノアのような過酷な湯巡りツアーにせず、それぞれの好みに合わせて、琥珀色に輝く美肌の湯に浸かり、清涼なハーブの香りが満ちるサウナで汗を流し、時には冷たい滝の水しぶきを浴びては、心地よい嬌声を上げた。


「それにしても、この薬草の香り、姉様らしいです」


「まあね。効能もとびきりよ。アイリスのおかげで清潔だしね……って、アイリス?」


「な、なに?」


「ちょっと成長したんじゃない? 計測器で見てみたら、スリーサイズどころか、精密なデータを得られるから」


「う、うん。さっき見たらちょと大きく……」


 アイリスは、エルザの鋭い指摘に顔を赤らめ、湯気でぼやけた鏡に映る自身の姿を、どこか嬉しそうに、しかし恥ずかしそうに見つめた。


「女の子は恋をすると綺麗になりますからね」


「なっ、何言ってるのエルザさん。そんなの迷信よっ!」


 温泉という平和な空間で、三人の女子トークは弾み、笑い声が静かに響いた。街再建の疲れや傷を癒すだけではない、温泉の効能が確かにあった。


 だが、その安息は長くは続かなかった。



 ◇



お説教


 賢者の館に戻ったエルザが温泉建築に使用した資材記録を確認すると、彼女の目は、普段の理性的な光を失い、まるで深海の氷のように冷たく、イヴリンとアイリスの心を射抜いた。


 いつも通りの冷静沈着な表情。口元はやや笑みを浮かべているが、目が笑っていない。


 「イヴリン様、アイリスさん。ノアさんの傷が治ったのは良かった。ですが……」


 エルザは、テーブルに広げた記録を指さした。テーブルには、何十枚もの高級な資材使用記録と、希少な鉱石や薬剤の空の容器が並べられ、二人の天才が引き起こした途方もない出費を物語っていた。温泉の凝りすぎた設備のために、街の復興に必須な希少素材が大量に、文字通り湯水のように使い込まれていた。


「あなたたちの愛情は素晴らしいものがありました。しかし、代償は大きい。これから三日間、わたくしはあなたたち二人に資材管理の基礎を徹底的に教えます。しばらくの間、研究は中止です。街再建に使う予定の資材が整うまで、資材集めに没頭していただきますからね」


 エルザの言葉は、氷のような冷たさで二人の天才のプライドを打ち砕き、普段は傲慢なイヴリンも常に冷静なアイリスも、ただただ沈黙するしかなかった。


 一方そのころ、街の目玉となった温泉施設に見知らぬ影が迫っていた……。

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