第8話 科学を超えた心
理の不備と誓い
ノアの意識が戻るまでの数日間、管制室には重い空気が漂っていた。緊急医務室のベッドで眠るノアの傍らでは、アイリスが静かに、しかし深く涙を流していた。
「……目を覚ましてよ、ノア。あなたまで、あたしを置いていかないで。リアムも……ノアも……あたしが大切だと思った人は、みんないなくなってしまうの? また……あたしのせいなの……?」
アイリスは、温もりの消えたノアの手に触れながら絞り出すような声で呟いた。その姿は、管制室の監視モニター越しに、大賢者イヴリンの目に焼き付いた。
イヴリンは管制室のデスクで、顔面蒼白のまま、虚ろな目で解析データを見つめていた。ノアの命の危機、そしてアイリスの崩壊寸前の感情。師として、彼女は自らの過失の大きさを痛感していた。
静かに管制室に入ってきたのは、エルザだった。
「エルザ」イヴリンは重い口を開いた。
「私の失態だ。あの転移罠(トラップ)は、被験者の安全を軽視した、危険すぎる配置だった。そして、魔物に倒された場合の救援・救護体制は、あってないようなものだった」
イヴリンは自らの過失を認め、エルザに深々と頭を下げた。
「ノアの命の危険だけではない。私はまた、アイリスの心を深く傷つけた。彼女に、あの時の悲劇を繰り返させてしまった」
イヴリンは決意に満ちた顔つきで立ち上がり、エルザを見据える。
「この教訓を元に、『0.01%の非効率なアノマリー』にも対応できる、人命を最優先とした、緊急の救援システムを完成させよう。エルザ、人命救助の機構を、『制御不能な事態への対応策』として、このアムリタの最優先インフラとするんだ。若い二人を苦しめてしまったことへの後悔を刻もう。年長者の責任としてね」
「そうですね。分かりきっています。当面は、わたくしがダンジョンの受付や救援管理を実施しますわ」
この判断は、後に新生アムリタの街の象徴になる錬金術のダンジョンに挑む冒険者向けのギルドの前身となるのだった。
◇
想い出のりんごパイ
ゴーレム撃破の興奮が冷めた後、アイリスは自室のキッチンへと向かった。
ノアの食事は、通常であれば栄養価を最適化した『完全栄養ハンバーグ』が科学的に正しい。しかし、今アイリスが作り始めたのは、温かみのあるリンゴパイだった。
彼女の指先は、慣れない手つきでパイ生地を練り、リンゴを剥く。リンゴパイの香りは、アイリスに二年前の記憶を呼び起こす。街の滅びという悲劇の中心にいた少年の名前はリアムという。
リアム・グラント。
大賢者イヴリンのもう一人の弟子であり、アイリスにとって大切な幼馴染でもあった。聖霊に通じ、『異端の錬金術師』として『生命の真理(アムリタ)』を追い求めたがゆえに、その力に飲まれ、街を滅ぼした悲劇の中心人物となった。
リアムは、心温まる愛の料理であるリンゴパイを得意としていた。アイリスが魔法を憎み、科学に執着する理由はすべてこの過去にあったが、彼のりんごパイが栄養だけでない心の温かさを与えてくれることを知っていた。自身も幾度もそれに救われていた。
パイが焼き上がり、アイリスは自らそれを医務室へ運んだ。
医務室にいたエルザは、アイリス自身がパイを運んできたという、いつも科学と論理に生きるアイリスの非合理的な献身に静かな敬意を払い、口を開いた。
「アイリス様。ノアさんが目を覚ましたら、きっと喜んでくれます」
アイリスはパイをベッドサイドのテーブルに置くと、感情を押し殺した声でノアに話しかける。
「ノア。目を覚ましなさいよ。これ、温かいうちが美味しいのよ。あたしがこんな『非効率な手間』をかけて料理するなんて……。めったに作らないんだからね!」
すると、ずっと眠っていたはずのノアの目に、微かな光が灯った。
その光はすぐに意識を取り戻した者の確かな輝きへと変わり、ノアはゆっくりと瞼を開けた。
「……う、うう……」
ベッドサイドで静かに佇んでいたアイリスは、その呻き声を聞いた瞬間、凍り付いた理性の檻が、完全に音を立てて崩壊した。
「ノア!」
次の瞬間、アイリスはパイの入った皿を気にもせずベッドに前のめりになり、意識の戻ったノアの身体に、乱暴なほど強く抱きついた。
熱い雫が、ノアの首筋に落ちる。
「バカ……っ! 本当に、本当にバカね、ノア! 死んだかと思ったじゃない! あたしを、置いていかないで……!」
ノアは、抱きしめられた痛みと、アイリスの体温、そして嗚咽で、状況を理解できずに驚愕した。視界がアイリスの胸元に埋もれている中、ノアの意識は、テーブルの上のリンゴパイの甘い香りに引き寄せられる。
「あ……僕の好きな良い匂いが……」
ノアは、驚きのあまり、抱きついているアイリスの名前ではなく、無意識に香りの感想を口にした。
一瞬、アイリスの嗚咽が止まる。彼女は顔を上げ、ノアがまだ状況を把握できていないどころか、自分の行動とは全く関係のないことに意識を向けていることに気づき、怒りと羞恥で顔を真っ赤にした。
「バカっ!」
アイリスは、そう叫ぶと、ベッドサイドのパイには目もくれず、そのまま医務室を飛び出していった。
「あ、アイリスさん……?」
ノアは、置き去りにされた温かいリンゴパイを見つめ、そこで初めて、アイリスの隠された心遣いに気づく。
(このパイ……アイリスが……。えと、どちらのパイも嬉し……いや、何を考えているんだ僕は!)
ノアは頭をブンブンと振って、邪な気持ちを払拭した。アイリスが自分を見守ってくれて美味しそうなパイまで焼いてくれた。それが本当に嬉しかった。
「ありがとう……」
ノアの視線の先には、メイド服のエルザが、静かに微笑みながら立っている。エルザは、アイリスの飛び去った背中を見つめ、そっと医務室のドアを閉じた。
そして、管制室のモニター越し。師であるイヴリンは、この光景を静かに見つめ、ただ一言、深く呟いた。
「ほんと……科学では、どうにもならないもの、ね。これが、錬金術の『第五の真理』かしら」
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