第五章 第二話
彩花との出会いは、中学二年生になったわたしの生活に、一筋の光を差し込んだ。彼女は、わたしの空き教室に来て、一緒に勉強してくれることもある。彼女の屈託のない明るさと、未来への前向きな姿勢を見ると、わたしがこの一年間で失っていた「普通」の欠片を思い出す気がした。
けれど、彩花と仲良くなるにつれて、わたしは、また新しい「壁」にぶつかることになる。
それは、わたしがポケットの中でいつも握りしめている、キーホルダーのことだった。
「ねえ、亜矢ちゃん、それ、何?いつも、ポケットの中で握ってるでしょ?」
彩花は、まっすぐに尋ねてきた。
彩花は、他の特例校の生徒たちや、前の学校の先生たちのように、わたしを腫れ物扱いや特別扱いをしない。だからこそ、彼女の質問は、いつも正直で、遠慮がない。
「えっと……これは、ただの……お守り、かな」
わたしは、曖昧に答えた。
けれど、彩花は、それだけでは納得していない。
「お守り?でも、なんでそんなに大事なの?ボロボロじゃない。何か、特別な理由があるんでしょ?前の学校で、何かあったの?」
彩花は、何度も、何度も、キーホルダーの経緯について聞いてきた。その純粋な好奇心は、わたしを困惑させる。
わたしがキーホルダーに依存するようになった経緯――前の学校でのいじめ、先生の理不尽な怒鳴り、そして、キーホルダーを叩き壊された絶望。
わたしは、その経緯を話すのが、辛くて仕方ない。
それを口に出すことは、わたしが「不登校児になった理由」を、すべて告白することになる。それは、わたしがどれほど弱く、惨めで、そして普通ではない子であるかを、彩花に理解させてしまう行為だ。もし彩花が、その話を聞いて、わたしから離れていったら……。わたしに残された最後の希望は、完全に消えてしまう。
だから、わたしは、口を閉ざした。
「う、ううん。何でもないよ。本当に、ただのお守り」
わたしがそうやって言葉を濁すと、彩花は、少し不満そうな顔をする。その表情を見るたびに、わたしは、「正直に話さないわたしは、普通じゃない」と、自分を責めた。
一方で、彩花は、自分の「前の学校の時のこと」を、平気で話している。話せるということは、あまり辛くないのだろうか。
「わたしね、前の学校で、親友に突然無視されたんだ。理由はわかんない。でも、その日から、学校に行くのが怖くなって。だから、この学校に来たの」
彩花は、あっけらかんと、自分の過去を語った。それは、わたしが「話したら壊れてしまう」と恐れている、最もデリケートな部分だ。
わたしは、驚いた。そして、また、焦りを感じる。
彩花が、自分の過去をオープンに話しているのに、わたしだけが頑なに口を閉ざしていると、二人の間に、「わたしだけが秘密を抱えている、普通じゃない雰囲気」が生まれてしまう。
そう分かっていても、口に出すのが辛くて、話せない。
わたしは、キーホルダーの真実を話すことと、彩花を失うことの、どちらを選ぶべきか、毎日葛藤した。
彩花は、屈託のない笑顔で、わたしに言った。
「ねえ、亜矢ちゃん。明日から、一緒に学校に行かない?わたし、一人で来るの寂しいんだ」
わたしは、言葉を失った。彩花は、わたしが「空き教室で母子登校している」ことを、まだ知らないと思う。
わたしはそれが知られるのが怖くて嘘をついていた。空き部屋に彩花が来る時は母には別の部屋に行ってもらい、たまたま自習していると嘘をついている。
それにわたしが、交流会にも出て、教室で普通に話していたから、わたしを「普通に登校しているクラスメート」だと思っているのだ。
「明日から、家まで迎えに行くね!」
彩花は、わたしの返事を聞く前に、そう言って、別れ際に手を振った。
翌朝、家の前で、彩花は本当にわたしを待っていた。母も、彩花の姿を見て、驚きながらも、どこか嬉しそうだ。
わたしは、期待している母と彩花を裏切っては行けない気がした。
「彩花ちゃん、亜矢をお願いしますね」
母は、わたしを彩花に任せ、自分は家を出なかった。
わたしは、母子登校という、わたしに残された最後の逃げ場を、失ってしまった。
わたしは、まだ、平気ではない。教室の空気に耐えられるほどの、心の回復はしていない。それでも、彩花に、本当のことを言えない。言ったら壊れてしまう気がした。
「わたし、実は教室に入れないんだ」
そんなことを言ったら、彩花は、わたしを「やっぱり普通じゃない子」として認識し、離れていってしまうかもしれない。
わたしは、彩花という「普通」の象徴を失うのが怖くて、口を閉ざした。
彩花と一緒に登校し、教室のドアを開ける。彩花は、わたしを自分の席の隣に座らせ、にこやかに話しかけてくる。
そして、毎日、学校に行かされ、毎日、授業を受けさせられる生活が始まった。
教室の空気は、やはり辛かった。由季と梨々の冷たい視線。他の生徒たちの、「母子登校の子が、どうして教室にいるんだろう」という、興味と観察の視線。
わたしは、ポケットの中でキーホルダーを握りしめ、顔には嘘の笑顔を貼り付け続けた。
彩花は、わたしが無理をしていることに気づいていない。彼女は、わたしが「普通に登校し、普通に授業を受けている」と信じている。けれど、いつかクラスメートがわたしの本当のことを彩花に話してしまうか気が気ではない。
わたしは、「普通の子」のフリを続けるために、自分の心を削り続けなければならなかった。
毎日、毎日、授業を受けさせられて、つらい。
わたしは、「普通」という名の強制力に更に縛り付けられ、絶望していた。わたしは、彩花という「希望の光」によって、「逃げ場のない檻」へ閉じ込められてしまったのだ。
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