第4話 線の震え
スタジオに、冬の空気が入り込んでいた。
朝から冷え込んで、紙をめくる指先が痛い。暖房の風がうなるたび、鉛筆の芯がかすかに震える。
日向結衣は、修正済みのカットを束ねながら息を吐いた。
前回の会議以降、桐生の作監仕事は明らかに減っていた。監督が他の原画マンを前に出し、彼には動画指導とレイアウトだけを任せている。
それは降格でも、罰でもない。けれど――結衣には、何かを削がれたように見えた。
昼休み、休憩室の隅。桐生は紙コップのコーヒーを見つめていた。
「監督の言うこと、正しいんですよね」
結衣が言うと、桐生は首を傾けた。
「正しいけど、好きじゃない。感情を引き算しても、絵は呼吸しない」
短い沈黙。
「でも、俺の線は揺れすぎてる。……だから止められる」
“揺れすぎてる”。
その言葉が結衣の胸に残った。
帰り際、彼の机に置かれた修正用紙の端がわずかに折れているのを見つけ、そっと直した。
その紙の震えが、彼の心の震えのように思えた。
夜、残業の時間。スタジオの照明が落とされ、各自のトレス台だけが光っていた。
カット表の一番下、モブキャラの原画を担当するよう指示が出ていた。
誰にも注目されないシーン。通行人が一瞬横切るだけ。
だが、結衣はその一瞬に“心”を込めた。
歩く人の肩がすれ違う。目が合う。わずかに視線が動く――それだけで、背景が生きる気がした。
集中の中、背後で声がした。
「それ、いい動きだな」
桐生だった。彼の影が、トレス台の光を半分遮る。
「誰も見ないかもしれませんけど」
「誰も見ないからこそ、入れるんだよ。線の震えを」
桐生は自分の鉛筆を借り、紙の上に一本の線を引いた。
結衣の線よりも少し太く、少し柔らかい。
ほんの一秒で、そこに“感情”が宿る。
指先から伝わる温度に、結衣の心臓が跳ねた。
「線は機械じゃない。俺たちの手は、震えていい」
彼の声が低く響く。
「でも、震えって……下手な証拠じゃないんですか」
「違う。震えは生きてる証拠だ。何も感じてない手は、絶対に揺れない」
結衣は息をのんだ。
桐生の言葉は、まるで自分の不安を見透かすようだった。
これまで“正しい線”を目指していた。でも、本当は“感じる線”を描きたかったのかもしれない。
桐生はそのまま、結衣の原画を一枚ずつめくった。
「ここ、いいな」
「この肩の傾き、心が動いてる」
指先が紙に触れるたび、結衣の胸の奥が震えた。
誉められた喜びと、同時に湧き上がる痛み。
彼に見られるたび、自分の中の“感情”が見透かされていくようで怖かった。
「……桐生さん」
「ん?」
「もし、この震えが誰かへの想いだったら、それでも線は“生きてる”って言えますか」
問いを投げた瞬間、息が詰まった。
桐生は少しだけ微笑んだ。
「それなら、なおさらいい線になる」
それだけ言って、彼は立ち上がった。
彼の背中が遠ざかる。
トレス台の光が、紙の上でまだ揺れている。
その震えの正体を、結衣は知っていた。
──あの人を想って描いた線だ。
夜が明け始めたころ、桐生の机の上に小さなメモが残されていた。
〈震える線は、生きている〉
誰が書いたのか、彼は分かっていた。
その朝、スタジオの照明が灯るよりも早く、二人の机の上で紙が擦れる音が響いた。
描くたび、心が揺れる。
その震えが、次の“動き”を生み出していた。
──1秒24コマの世界に、二人の鼓動はもう刻まれている。
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