第3話 24コマの距離
朝の光が、まだ眠っているスタジオの窓を透かしていた。
夜勤明けの静けさ。トレス台の電源を落とした後も、そこにはまだ誰かの熱が残っているようだった。
日向結衣は、紙束を抱えたまま小さく伸びをした。指の節が鳴る。
徹夜明けの指先は鉛のように重い。だが、心のどこかは熱く冴えていた。
昨夜、桐生と一緒に描いた“走る少女”が、今もまぶたの裏で動いている。
線と線のあいだに、何かが生まれる瞬間を確かに感じた。
だが、現実はすぐに戻ってくる。
監督が来て、修正の束を置いた。
「この表情、甘い。感情の流れが一本ずれてる」
机の上に置かれた紙には、桐生のサイン。
日向の線が、赤ペンで何本も指摘されていた。
「……あの人の線でも、直されるんだ」
結衣は小さく呟いた。
桐生は“完璧”だと思っていた。彼の線が修正されるなんて、考えもしなかった。
隣の席では、先輩アニメーターたちが軽口を交わしている。
「桐生のカット、また監督チェック入ったらしいよ」
「珍しいな。まあ、天才でも感情の線は人それぞれだし」
“天才”という言葉が引っかかった。
桐生と自分の距離が、いきなり現実のスケールで測られた気がした。
昨日は、同じ光の下で線を引いていたはずなのに。
昼休み、結衣は屋上の階段で、乾きかけたコーヒーを飲んだ。
灰色の空。ビルの谷間から風が吹く。
ふと足音がして、桐生が現れた。
「眠ってないのか」
「……眠れませんでした」
「だろうな。昨日の修正、監督チェックが入った」
桐生の声は淡々としていた。だが、その奥にかすかな苛立ちが混ざっていた。
「俺の線は、感情が伝わりすぎるらしい」
「伝わりすぎる?」
「動きの中に感情を入れすぎると、キャラが制御できなくなる。監督は“感情を引き算しろ”って」
桐生は、空を見上げた。
薄曇りの中、まぶたの下の隈が青く滲んでいた。
「でも俺にはできない。線に感情を入れなかったら、呼吸が止まる」
結衣は、言葉を失った。
その瞬間、彼がどれだけ線と生きているのかを思い知らされた。
「……私も、そうなりたいです」
気づけば声が出ていた。
「描くたびに、線が息をしてるって思えるようになりたい」
桐生は少しだけ振り向き、かすかに笑った。
「焦るな。感情を乗せようとするより、ちゃんと感じろ。紙の震えも、風も、人の体温も。全部が線になる」
その笑顔が、曇り空の中で一瞬だけ光を拾った。
胸が痛いほど熱くなる。
──彼の線の中に、自分も描かれていたらいいのに。
そう思った瞬間、心臓がひときわ強く跳ねた。
午後、作画会議。
部屋の空気は重かった。修正の山、進行表の赤線、机に散らばる原稿。
桐生は黙って座り、監督の言葉を聞いていた。
「感情が強すぎると、絵が物語を壊すんだ」
「線を抑えろ」
そのたびに桐生の指が、机の下で小さく動く。
鉛筆がないのに、無意識に“線を描いている”ようだった。
会議が終わったあと、桐生の席に修正指示が積まれていた。
結衣はそれを見て、胸の奥が痛くなった。
彼が描く“感情”を、誰かが削っていく。
それがこの世界の現実なのだ。
夜、誰もいない作画室で、桐生がひとり紙に向かっていた。
照明の下、黒いパーカーの背中が静かに動く。
結衣はドアの前で立ち止まり、声をかけるか迷った。
けれど結局、机の隅にコーヒーを置いて出ていった。
「頑張ってください」――言えなかった言葉が胸の奥で跳ね返る。
廊下を歩く足音が、やけに大きく響いた。
1秒24コマの世界で、今の自分はたぶん“静止画”のままだ。
桐生と自分のあいだには、たった数歩の距離しかない。
けれどその距離が、永遠みたいに遠く感じた。
──それでも、描くしかない。
止まっている線を、動かせるのは自分の手だけだ。
結衣は再び机に戻り、トレス台のスイッチを入れた。
光が走り、紙の白が目を刺す。
鉛筆を握る。線を引く。
心臓が鳴る。
その音を、遠くの誰かも聞いてくれていたらいい。
24コマの距離の向こうで、桐生の鼓動が同じテンポで鳴っている気がした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます