第59話 『いざ、眠り沼へ』

第59話 『いざ、眠り沼へ』


 リビングには、柔らかな朝の光が差し込んでいた。

 カッピーとルネは床の上をころころ転がりながら、追いかけっこをして遊んでいる。ルネがわざとゆっくり逃げると、カッピーが短い腕をばたばた振って追いかけ、ふたりして笑っているように見えた。

 その和やかさが部屋いっぱいに広がっていた。


 ――その空気を切り裂くように、突然インターフォンが鳴った。


 全員の視線が玄関に向く。

 信吾は息を整え、ドアの前に立つとゆっくりと扉を開けた。


 そこには、落ち着いた表情のいさむんが立っていた。


「おはようございます。今日はよろしくお願いします」

 いつもより少し固い声に、信吾は軽く頷いた。

「今日はよろしくお願いします」


「そういえば今日は新聞記者の小林さんは来てないんですか?」

 信吾が気になって聞く。

「そうですね。森田さんへの取材で今日は難しいみたいです。眠り沼に行くと決まったのはいきなりでしたしね。」

 いさむんが残念そうに言う。

「そうなんですね。確かに残念ですけど、小林さんには頑張ってもらわないといけないですね。」

 信吾が決意を持って言った。


---


 そのとき、リビングから美沙と桜小路さんが歩いてきた。

 いさむんは姿を見るとすぐに頭を下げる。


「桜小路さん、昨日は突然連絡してしまい、申し訳ありませんでした」


 桜小路さんは手を軽く振り、穏やかな笑顔を浮かべる。

「いいえ。連絡を頂いてありがとうございます。連絡を頂いて感謝してます。」


 そのやりとりを見ていた美沙が、ふと思い出したように声を上げた。

「いさむん、カッピーとルネがやっと仲良くなれましたよ」


「そうですか。それは嬉しいことですね」

 いさむんも優しく笑った。

 だがその次の瞬間、ふっと表情が真剣なものに変わる。


「でも、楽しい空気のところ申し訳ありませんが……人目に触れると厄介なことになる可能性がありますので、もう出ましょう。車は下に駐車してます」


「えっ、もうですか?」

 信吾は思わず聞き返す。


「はい!」

 いさむんのはっきりした返事に、空気が少し緊張した。


 信吾はカートを引き寄せ、カッピーをそっと乗せた。

 その瞬間、カッピーは何かを感じたのか、不安げに小さく「クゥ」と鳴いて信吾を見上げる。

 するとルネが寄り添うようにカッピーの隣にぴたりと座り、“大丈夫だよ”とでも言うかのように体を寄せた。


 信吾と美沙は昨日準備しておいたリュックを背負い、部屋を後にする。


---


 エレベーターを降り、マンションのエントランスへ着くと、そこには赤荻さんが腕を組んで立っていた。

 無骨な顔つきだが、どこか落ち着かない様子が見える。


「おはようございます」

 信吾と美沙が声をかける。


「おぉ」

 赤荻さんは短く返事をする。その声は小さかった。


「お別れの挨拶はしなくて良いんですか?」

 信吾が尋ねると、


「いや、しないでいい。会うと悲しくなるだけだからな……」


 赤荻さんは寂しげに視線をそらした。


 信吾は何か言いかけたが、美沙がそっと腕をつかんで止めた。

 今は、余計な言葉をかけるべきではないという合図だった。


 信吾達が通り過ぎると、後ろから歩いてきた桜小路さんと赤荻さんが視線を合わせ、

 無言で軽く会釈を交わす。

 そのわずかな仕草に、互いの想いがにじんでいた。


 いさむんの車の前に到着すると、桜小路さんが信吾に向き直った。


「私達はここまでです。気を付けて行って来てくださいね」


「えっ?桜小路さん達は行かないんですか?」


 信吾の問いに、桜小路さんは困ったように微笑む。


「えぇ、私はもう歳であなた達の足手まといになるだけです。それに、人数は少ない方がいいです」


 信吾は小さく息を飲み、頷いた。

「……分かりました。ありがとうございます」


 カートの中からカッピーが少し身を乗り出してルネの方を見ている。

 ルネは別れを分かっているのか、伏し目がちにカッピーを見つめている。

 一方のカッピーは、状況を理解していないのか、手足をぱたぱた揺らしながら楽しそうにしていた。


「では出発しますよ」

 いさむんが声をかけた。


 信吾と美沙は深く息を吸い、前を向く。


 ――こうして彼らは、眠り沼へと向かう旅路の第一歩を踏み出した。


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