第42話『決意を込めて』

第42話『決意を込めて』


 約束の日曜日。

 雪解けの名残が残る朝、灰色の雲が低く垂れ込めていた。

 吐く息が白く曇り、街の喧騒が遠くにぼんやりと響く。


 信吾と森田は、高城議員の後援会が行われる会場の前に立っていた。

 石造りの重厚な建物。エントランスにはスーツ姿の男たちが行き交い、受付の周りでは報道関係者らしき人影もちらほらと見える。


---


「……けっこう大きい会場なんですね。」

 信吾が天井を見上げ、思わず感嘆の息を漏らした。

 シャンデリアの光が広間を照らし、緊張と期待のざわめきが渦を巻く。


「そうですね。」

 森田は腕時計をちらりと見て、静かに答えた。

「彼の父親は元大臣ですから。政界でもまだ影響力は強い。……何かあれば、一言で多くのものを動かせる人ですよ。」


「そうなんですね……。」

 信吾は無意識に唇を噛んだ。

 そんな権力の中枢に立つ人間と、いま自分たちは相対しようとしている。

 その現実が、足元の冷たい空気とともに身に染みた。


「あ、そういえば――」

 信吾がふと思い出したように顔を上げる。

「今日、新聞記者の小林さんは来てるんですか?」


「はい。会場の中にいますよ。」

 森田の声は落ち着いていた。

「ただ、彼には別のことを頼んであります。」


「別のこと?」

 信吾が首を傾げる。


「ええ。」

 森田は少し笑みを浮かべて続けた。

「それに……小林さんと僕が一緒にいるところを見られるのはあまり良くないですからね。」


 その言葉に、信吾はわずかに頷いた。

 確かに、今この場で“敵側”に状況を知られるのは避けたい。

 周囲の人々が森田の存在に気づかぬよう、二人は列の後ろを静かに歩いていく。


 ――そして、会場内へと足を踏み入れた。


 広いホールには、数百人の人々が詰めかけていた。

 壇上には高城議員の名を掲げた横断幕。

 客席の前方では、支援者たちが整然と並び、拍手と歓声が交互に響く。

 壇上のマイクには報道カメラが向けられ、フラッシュが瞬くたび、空気が少しずつ熱を帯びていく。


「……始まりますね。」

 森田が小声でつぶやく。


 やがて高城が姿を現した。

 スーツの襟を正し、ゆったりとした笑みを浮かべながら壇上に立つ。

 手を上げると、会場の拍手が一斉に沸き起こった。

 その余裕ある仕草に、信吾は無意識のうちに拳を握りしめる。


「皆さん――まず言わせてください!」

 高城の声がマイクを通して響く。

 その声音には確かな自信があった。

「報道などでいろいろな憶測が飛び交っていますが、私はこの地域と皆さんの生活を守るため、全力を尽くしています。どんな誤解も、誠実に説明していくつもりです。」


 拍手がまた湧き起こる。

 彼の言葉には、聴衆の心を包み込むような力があった。

 手を大きく広げ、時に笑い、時に眉をひそめながら――高城は完全にこの空間を支配していた。

 ひとつひとつの言葉が観客の感情を操り、空気が彼の掌の上で形を変えていく。

 「皆さんがいるからこそ、私は戦えるんです!」と力強く言い切ると、歓声がどっと上がった。

 それは演説というより、“彼の舞台”だった。

 人々は彼の一挙手一投足に息を合わせ、まるで舞台の一部のようにその場に飲み込まれていく。


「……なんか、すごいですね。」

 信吾は小さくつぶやいた。

「この場を……盛り上げてるというか。まるで舞台の主人公みたい。」


「彼は“この場を支配している”んです。」

 森田は低く言った。

「言葉の一つひとつが、計算されている。――それが彼の最大の強さ何です。」


 こんな人物を、森田はこれからどう“説得”しようとしているのか――。


---


 しばらくして、森田が信吾の肩に手を置いた。


「……信吾さん。そろそろ移動しましょう。」


「えっ? でも、何処へ?」

 信吾は不安げに囁く。


「来てもらえば分かります。」

 森田の表情には迷いがなかった。

 その瞳の奥には、何かを決めた人間の強さが宿っていた。


 二人は人の流れに紛れ、ホールの裏手へと進んだ。

 階段を上がり、非常口を抜ける。

 扉を開けると、ひんやりとした空気が頬を包んだ。

 そこは、ビルの屋上だった。


 広がる街の向こうには、灰色の雲が静かに垂れ込め、遠くの空がわずかに明るみ始めている。

 下からは会場のざわめきが微かに届いていた。


「着きました。」

 森田が息を整える。

「もうそろそろ休憩時間になります。……高城が、ここに来るはずです。」


「えっ、ここに?」

 信吾は驚いて辺りを見回した。

 コンクリートの床、錆びたフェンス。人の気配はない。

「でも……なんで屋上なんですか?」


「高城としても、この話は他の人に聞かれたくないはずです。」

 森田の声は冷静だった。

「それに、僕としても屋上の方がやりやすいんです。」


「やりやすい……?」

 信吾は眉をひそめたが、それ以上は聞かなかった。

 森田の中で、すでに何かの覚悟が決まっているのを感じたからだ。


 森田は一歩、フェンスの方へ歩み寄り、振り返らずに言った。

「信吾さん。高城が来たら――僕の前には絶対に出ないでくださいね。」


「えっ……?」

 信吾は戸惑いの声を漏らす。


「約束です。」

 森田がこちらを向き、真剣な目で言った。

「何があっても、僕の言葉を遮らないでください。」


 信吾はその眼差しに言葉を失った。

 その瞳には、恐れも迷いもなかった。

 ただ、燃えるような信念だけが宿っていた。


「……分かりました。」

 小さく頷く。

 その瞬間、胸の奥で何かが鳴った気がした。


---


 次の瞬間――

 屋上の扉が開く音がした。


 扉の向こうから、スーツ姿の男がゆっくりと姿を現した。

 高城だった。

 表情はいつものように穏やかだが、その奥に何か鋭いものが潜んでいる。


 森田は信吾の一歩、前に出た。

 高城は無言で彼を見つめ、わずかに口角を上げる。


 静まり返った屋上に、三人の視線だけが交錯した。

 その沈黙が、これから訪れる嵐を告げているようだった。


 誰もが、これが“最後の対話”になると、どこかで悟っていた。

 森田の決意、高城の思惑、信吾の不安。

 それぞれの思いが、張り詰めた空気の中で静かに交わっていく。


 ――そして、物語は動き始める。

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