第23話『眠り沼に宿るもの』
第23話『眠り沼に宿るもの』
夕暮れが迫る頃、眠り沼のほとりには、冷たい風が吹き始めていた。
灰色の空の下、沼面には薄い靄がかかり、まるで息を潜めるように静まり返っている。
風が吹くたびに、水面に浮かぶ葦が揺れ、カサカサと乾いた音を立てた。
信吾は懐中電灯を手に、足元を照らしながら最後にもう一度、辺りを見渡した。
昼間は穏やかに見えた場所が、日が傾くにつれてどこか冷たく見える。
四人は昼からずっと、沼の周辺を歩き回っていた。
森田の案内で、川から続く水路や湿地の地形を確かめながら、カッピーの仲間――
この地域に棲むカッパたちが冬眠している可能性を探っていたのだ。
カートが通れない細い道では、美沙がそっと抱き上げ、乾燥しないようにタオルをふわりとかけたまま腕に抱いて歩いた。
その姿はまるで、小さな子どもを抱いているようだった。
「今日は、そろそろかな……。もうすぐ暗くなるし」
森田が言い、腕時計を確かめる。
「はい。思ったより広かったですね、この沼」
信吾が言うと、美沙もうなずいた。
カートの中では、カッピーが静かに身を丸めている。
乾燥を防ぐため、かけてあった保湿効果のある薄手のマイクロファイバータオルが少し汚れていた。
「結局、群れの痕跡らしいものは見つからなかったね」
美沙が呟く。
「ああ。でも、獣道の先にあった湿地の感じ……何かありそうだったな」
森田が言うと、信吾が頷いた。
「昔からこのあたりは人があまり入らなくてね。地元でも“生き物が消える場所”なんて言われてる。
おそらく、湿地が深くて危ないからだろうけど――この時期は特に寒くて足元も悪いからね」
森田の言葉に、美沙は苦笑して言った。
「怖い話っぽいけど、要するに自然がそのまま残ってるってことですね」
「そう。だからこそ、カッピーみたいな存在がまだいられるんだと思う」
森田が柔らかく言う。
そのとき、カートの中にいたカッピーが「クゥ……」と小さく鳴いた。
信吾が覗き込むと、カッピーは沼の方をじっと見ていた。
まるで遠くに、仲間の気配を感じ取っているようだった。
信吾はそっと頭を撫でた。
「大丈夫だよ。きっとまた皆に会えるよ」
カッピーは少し落ち着くと、身を丸めて静かに瞬きをした。
その小さな体が、冷たい空気の中にほのかなぬくもりを灯していた。
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「そろそろ遅くなってきたし、今日はこれで終わろうか。送るよ。集合した川辺まででいいかな?」
森田が言い、信吾と美沙は頷いた。
車はゆっくりと元来た道を進んでいく。
窓の外、沼の水面は夕陽を吸い込み、鈍く光っていた。
「……結局、あそこが本当に仲間の冬眠場所なのかはまだ分からないままだったね」
美沙がぽつりと呟く。
「でも、森田さんの話を聞いて、なんとなく掴めた気がするよ。川の流れ方や地形の感じも、参考になったし。」
信吾が言うと、森田はルームミラー越しに微笑んだ。
「そう言ってもらえると嬉しいよ。
あの沼は昔から特別な場所なんだ。
何かを守っているような、そんな気がする」
その言葉に、美沙が小さく頷いた。
「生き物を守っている……確かに、そんな雰囲気ありましたね」
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やがて車は集合地点の川辺に着いた。
夕暮れの光が沈みかけ、川面が茜色に染まっている。
「今日はありがとう。また何か分かったら連絡するね」
森田が言い、軽く手を上げる。
「こちらこそ、ありがとうございました」
信吾が頭を下げ、美沙も会釈した。
「また来ていいですか?」
美沙が笑顔で言う。
「もちろん。あの子の仲間が本当にここにいるなら、僕も見てみたいからさ」
森田の笑顔に、美沙が嬉しそうに微笑んだ。
別れの挨拶を終えると、森田の車は静かに去っていった。
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信吾と美沙は並んで歩き出す。
冷え込み始めた風の中、カッピーはカートの中でタオルにくるまり、すやすやと眠っている。
「今日は疲れたね」
美沙が小さく笑う。
「ああ。でも、やっぱり来てよかった」
信吾が言うと、美沙が頷く。
「いさむんにも報告しよう。きっと興味持つはずだから」
そのとき、背後から低いエンジン音が近づいてきた。
黒い高級セダンが、二人の脇を風のようにすり抜ける。
ヘッドライトが地面を照らし、瞬間、風が頬を撫でた。
信吾は反射的に美沙の肩を引いた。
「危ないっ!」
カートの中でカッピーが驚いたように身を起こし、
タオルの中でもぞもぞと暴れる。
「……速すぎる。危ない運転だな」
信吾が眉をひそめる。
「ナンバーまでは見えなかったけど……黒い車だったね。高そうなやつ」
美沙が呟いた。
信吾はその車が走り去った方向を見つめながら、胸の奥に小さな違和感を覚えた。
それが何かは、まだ分からない。
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夜。
部屋に戻った二人は、カッピーと食事を終えたあと、部屋の明かりを落とした。
桶には浅くぬるま湯を張り、カッピーが心地よさそうに身を沈めている。
水位は低く、溺れないように底には小さな石を敷き、姿勢を保てるように工夫されていた。
皿の水がわずかにきらめき、カッピーは安心したように小さな寝息を立てている。
「……本当に冬眠してるのかな。仲間たちも」
美沙が囁く。
「どうだろうな。今日の様子を見る限り、まだまだ分からないことが多いよね」
信吾が答える。
美沙はカッピーの寝顔を見つめながら、そっと微笑んだ。
「でも、ここまで来られてよかった。あの子の世界を、少し知れた気がする」
信吾もうなずき、静かにその横顔を見た。
ぬるま湯に身を委ねて眠る小さな命――その存在が、部屋の空気を優しく包み込んでいた。
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眠り沼は、すべてを黙して見守っている。
人の手が届かぬ場所に、まだ知られぬ命が息づいている。
そして、信吾たちが築きあげている小さな発見も――確かに、何かの“兆し”を残していた。
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