第3話 チョークと祈り

 授業の終わった教室に、粉の匂いが残っていた。

 黒板の金色の残光は消え、代わりに淡い影だけが揺れている。


 神々は席に座ったまま沈黙していた。

 思考という行為に、まだ慣れていないらしい。

 彼らの表情はほとんど動かないのに、空気だけがすこし柔らかい。


 俺は折れかけのチョークを手のひらで転がし、光の線が消えた黒板に視線を戻した。

 まだ、始まったばかりだ。

 “理解”を受け取っただけで、世界は変わらない。

 ——その理解を、行為に変えなければならない。


「次の授業を始めます」


 教室の端で、小さな音がした。

 ひとりの神が、静かに立ち上がったのだ。

 他の神々よりも光が弱い。輪郭が薄く、声も細い。


「名は?」と俺は問う。


「……イシュラ」


 うつむき加減のその神は、机の上のチョークをじっと見つめていた。

 彼/彼女は言う。「その白い欠片に、あなたは何を見ている?」


「祈りの道具だよ」


 ざわめきが広がる。祈り、という単語に神々が反応した。

 彼らは祈られ続けてきたが、祈ったことはない。

 祈りはいつも、受け取る側の静かな優越だった。


 俺は黒板の手前に立ち、ゆっくりと説明する。


「祈りは願望じゃない。命と命をつなぐ“呼吸”だ。

 呼吸が止まれば、どんな大きな体も動けない。

 世界も同じ。創造だけでは動かない。つながり続けなきゃ、すぐに死ぬ」


 イシュラが顔を上げた。瞳に微かな色が宿る。


「つなぐ……どうやって?」


「書いて、声にして、渡す。——これが人間のやり方だ」


 俺はチョークを掲げ、黒板の左上に小さな円を描いた。

 そして円から伸びる線を一本、教壇の上で指し示す。


「ここが“わたし”。線は“あなた”。線が触れ合うたび、世界は一つ分だけ広がる」


 チョークの先がカツンと鳴る。

 円と線が増えていくたび、教室の空気が温度を持つ。

 神々の目が、わずかに丸くなる。


「祈りは、世界の配線図だ。届けば灯りが点く。届かなければ、暗いまま」


 イシュラが席を離れ、こちらへ歩み出た。

 指先が、ためらいがちにチョークへ伸びる。

 俺は手を放した。


「持ってみるか」


 イシュラは小さく頷き、チョークを握る。

 その瞬間、教室の光が一段階落ちた。

 神の手が“重さ”を知ったからだ。

 永遠の存在にとって、重さは異物だ。だが、これが地上の規則であり、祈りの条件でもある。


「書けるか」


「……やってみる」


 イシュラは黒板へ向き直る。

 細い線、震える筆跡。

 ぎこちない動きが一文字ずつ空気を押し出していく。


【ごめんなさい】


 教室が、わずかに揺れた。

 神々の視線が集中し、床板が鳴る。

 “謝罪”という語が、世界の上で正しく置き直されたのだ。


 イシュラはもう一度、書く。


【ありがとう】


 空気が一転、やさしく低く沈む。

 祈りの回路が二点でつながった音がした。

 教室の壁面に、目に見えない火花が散る。

 黒板の上で二つの語が薄く光を帯び、たがいの間に、ごく細い線が浮かび上がる。


 俺は小さく息を吐き、チョークを受け取って、二語の下に横線を引いた。


【授業法 第3条:祈りは、言葉で世界をつなぐ行為である】


 金色の縁取りがゆっくり広がり、条文が教室の外へ流れ出していく。

 祈りを知らなかった廊下、階段、空の天蓋が、一拍遅れてそれを学習する。

 “学ぶ世界”の輪郭が、また一つ分広がった。


 神々の輪の隅から、低い声が飛ぶ。


「たった二語で、世界が動くのか」


「動く。

 創造の大半は派手だが、維持に必要なのは配線だ。

 『ごめんなさい』と『ありがとう』は、人間が最初に覚える二本の線だ。

 ——その二本が通らなければ、どれだけ大きな力も短絡する」


 銀の瞳の神が腕を組む。


「我らは祈られればよかった。祈る必要はなかったはずだ」


「なら、世界に耳は要らない。口だけでいい」

 俺は黒板の右側に、耳のような形を描く。

 そして、その中心を白く塗りつぶした。


「耳のない神は、人の声を世界語に翻訳できない。

 翻訳できなければ、救いは遅れる。遅れれば、祈りは痛みに変わる」


 静寂。

 遠くから風の音がする。

 神々のどこかで、硬いものがほどける音がした。


 イシュラがもう一度、黒板に向かう。

 今度は迷いが少ない。


【聞かせてください】


 黒板が鈍く鳴った。

 “聴取する祈り”が、世界語に登録された合図だ。

 誰かの願いは、届くまでに必ず曲がる。ねじれ、濁り、時には逆になる。

 翻訳するのは、耳を持つ者の責任だ。


「教師」と俺が言う。「耳を貸そう」


 粉の匂いの中、俺はチョークを寝かせて太い一線を引いた。

 それは、“世界に開いた扉”の形になった。


「この扉の名を、祈りの場(クラス)と呼ぶ。

 ここに入る者は、神であっても生徒だ。

 ここに立つ者は、たとえ人でも教師だ」


 青い衣の神が、そっと扉の縁に触れる。

 そこで指を止め、ためらい、そして押し開いた。

 見えない蝶番が鳴る。

 イシュラが一歩、中へ入る。

 ——生徒が、ようやく席に着いた。


 神々の列の中から、別の声。


「祈りは弱さに見える。なぜそれが力になる」


「弱さを開くのが、強さの準備だからだ」

 俺は黒板の下段、空いた余白にゆっくり書き足す。


【授業法 第4条:弱さを開く者が、世界を支える】


 粉が雪のように落ちる。

 条文は二行で十分だ。

 言葉は少ないほど、受け取る余地が増える。


 教室の空に、微かなさざなみが走る。

 遠い街の広場で、誰かがふいに謝っている。

 別の岬では、子どもが初めて「ありがとう」を言った。

 それらはすべて細い線で結ばれ、黒板の上の二語に一瞬だけ火花を返して消える。


 銀の瞳の神が立ち上がる。


「……我らは、どこから間違えた?」


「間違いじゃない。

 耳を持たないまま、口だけで長く生きた。それだけだ」

 俺はチョークを握り直し、最後の小さな円を黒板の隅に描く。

 その円は他のどの線ともつながっていない。

 孤独のしるしだ。


「ここに届く祈りは、いつも遅い。いつも弱い。いつも途切れそうだ。

 ——だから、ここに最初の線を引くのが教師の役目だ」


 チョークの先端が、ほとんど見えないほど短くなる。

 折れるかもしれない。

 俺は息を止め、線を引き始める。

 黒板の黒が、深くなる。

 粉が光る。

 線は震えながらも前へ進み、孤独の円に、そっと触れた。


 音が消えた。

 世界が一瞬だけ、まばたきをやめる。

 そして——細い接点が、あたたかく灯った。


 イシュラが、小さく声を洩らした。


「……届いた」


「ああ、届いた。

 祈りは派手じゃない。だが、届いた瞬間だけは世界が生き返る」

 俺はチョークを黒板縁に置き、手の粉をはたいた。

 教室の空気がやわらかい。

 目に見えない回路が、確かに増えている。


 青衣の神が、席から声をかける。


「教師よ。次は何を学ぶ」


「“命の価値”をもう一度やろう。

 今度は、祈りの回路を通した言葉で」


 神々が頷く。

 その頷きはゆっくりだが、嘘がない。

 彼らの眼差しは、少しだけ人に近づいていた。


 俺は黒板に向き直り、余白の一番上へ小さく書く。


【題:命の価値(祈り編)】


 チョークは短い。

 けれど、まだ一本分の授業が書けるだけの長さが残っている。


 ——授業を続けよう。

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