第6話 再会の季節
3年前
結婚式当日の朝に桜子が交通事故で無くなってから2年が経った。
春の風が、目黒川沿いの桜並木を静かにゆるやかに揺らす。 柔らかな風が枝を撫で、花びらがひとひら、またひとひらと舞い落ちては、水面にそっと浮かんでいく。夜の帳がゆっくりと降り始め、街灯に照らされた川沿いの桜は、幻想的な光をまとっていた。その光は、現実と記憶、生と死を隔てる、曖昧な境界のように思えた。
蓮太郎は、歩き慣れた道をゆっくりと進んでいた。 目黒川のほとりは、彼と桜子がよく手をつないで歩いた場所だった。人々の笑い声やスマートフォンのシャッター音がまるで水中にいるかのように遠い。蓮太郎の耳にはもう、届いてはいなかった。
手には革の手帳が握られていた。年月を重ねて馴染んだ革は、角が丸い。蓮太郎は指先でその手帳をなぞり、立ち止まってページを一枚めくった。
そこには、もう誰にも見せることのないはずの紙片がそっと挟まれていた。薄く開いたページに現れたのは、二人の結婚式の式次第だった。
桜子と二人、夜遅くまで笑い合いながら修正を重ねたその順番。開式の言葉、誓いの言葉、指輪の交換——すべてが、今はただの、無効なリストになっていた。
紙には折り目がつき、インクの跡が滲んでいた。それが年月のせいなのか、それとも、あの夜にこぼれた涙のせいなのか、蓮太郎自身にも判別がつかない。
「桜子がいなくなってから……もう……2年」
桜が咲くこの季節、蓮太郎の心は乱される。
━━━蓮見設計事務所━━━
事務所の中には、春の光が大きなガラス窓から差し込んでいた。 窓越しには目黒川の桜が見え、花びらが風に乗って、まるで事務所の中まで舞い込んできそうなほど近かった。 若い新入社員の宗司がそれに目を通しながら黙々と作業を進めている。
美幸は、コーヒーを淹れながら、窓の外の蓮太郎の姿を探していた。 時計をちらりと見てから、少し肩を落として振り返る。
「……遅いな」
そこへ、扉が静かに開いた。
「おはよう」
蓮太郎が姿を見せた。いつもの穏やかな声。だが、目の奥に影を宿している。
「おはようございます」
美幸は笑顔を作ったが、その目はわずかに揺れていた。
「ごめん。何かあった?」
「別に……大丈夫です」
「朝、ゆっくり歩きたくなってさ」
蓮太郎は、言い訳のように微笑んだ。美幸はゆっくりと彼に視線を向けた。その顔に浮かぶ安堵は、過去の記憶が薄れない証拠だった。
桜子が亡くなった直後は、蓮太郎はしばらく出社できなかった。電話もメールも途絶え、美幸が何度も自宅を訪れ、言葉少なな彼を半ば強引に事務所へと連れ出した日々。最近は自分の足で出社するようになったが、美幸の心配は消えなかった。
「桜、もうだいぶ咲いてますね」
「そうだね。満開だったね」
蓮太郎はコートを脱ぎながら、隣のデスクに資料を置く。
そのとき、オフィスの一角から声がした。
「安藤さん、ここのデータ、これで大丈夫ですか?」
新入社員の宗司が、パソコンの画面を指しながら声をかけてきた。
宗司は、まだ入社して数ヶ月の新人だったが、明るく礼儀正しい性格で、社内の空気にすぐ馴染んだ。 スーツ姿もどこか初々しい。図面やソフトの操作はまだ拙いところもあるが、素直に吸収しようとする姿勢に、誰もが好感を持っていた。
「うん、いいわよ。修正、ばっちり。ありがとう」
「よかったです!」
宗司は嬉しそうに頷くと、また作業へ戻っていった。
美幸は、ちらりと蓮太郎を見た。蓮太郎は、そのやり取りを静かに見守りながら、少しだけ口元を緩めた。美幸は蓮太郎に湯気の立つマグカップを差し出した。
「コーヒー、淹れました」
「ありがとう」
しばらく沈黙が流れる。 事務所の奥では、宗司のキーボードを打つ音が、静かに響いている。
「蓮太郎さん……」
「ん?」
「いえ、あの、私……」
美幸は言いかけて、唇を噛む。 心配している気持ちを伝えたい。でも、それが踏み込みすぎになるのではと、迷いがあった。蓮太郎は、美幸の手に目をやり、やさしく微笑む。
「大丈夫。ありがとうね」
その微笑みは、どこまでもやさしく、どこまでも遠かった。美幸はマグカップを持つ手に少しだけ力を入れた。 言葉にできない思いが、春の空気の中で静かに揺れていた。
━━━ チェリーブラッサム ━━━
夜になり、蓮太郎は静かにチェリーブラッサムのドアを開けた。暖かな照明が照らす店内には、いつものように柔らかなジャズが流れている。マスターがカウンター越しに手を挙げた。
「いらっしゃい」
蓮太郎の顔に笑顔はなかった。彼は静かに奥のカウンター席に腰を下ろし、深く息を吐いた。ここは、桜子と何度も肩を並べた、彼にとって唯一の居場所。あの日々の記憶が、彼の胸を静かに締めつける。
毎晩、同じ時間、同じ席。一人きりでビールを飲む蓮太郎の姿を、マスターは何も言わず見守ってきた。ただその瞳には、深い心配と、彼らにしか分かち合えない静かな祈りが宿っていた。
蓮太郎はカウンターに手を置き、ビールの瓶が差し出されるのを待っていた。ふと、店内の空気が春の夜風のようにひんやりと研ぎ澄まされた。
グラスの縁から、わずかに桜の香りが立ちのぼる。その香りに蓮太郎が気づいた時、店内の照明が一瞬だけ沈黙し、空気が淡くきらめくように感じられた。
カウンターの隣の席。誰もいないはずのその場所に、淡い光がふわりと揺れた。まるで春の夜に咲く一輪の桜のように——そこに、桜子が座っていた。
彼女は、薄いピンク色のワンピースに身を包み、微笑みながら蓮太郎を見つめていた。髪は夜風に揺れるようにふわりと揺れ、それは光の残像が、ようやく輪郭を取り戻した姿のようだった。
「久しぶりだね、蓮太郎」
どこか懐かしく、愛おしい声がした。
蓮太郎は反射的に顔を上げた。
そこに、桜子がいた。
「桜子……?」
彼女は静かに微笑んだ。
「驚いた? 会いに来たよ」
蓮太郎は言葉が出せなかった。ただ、目の前のその姿を、視線で確かめようとするように見つめる。
「桜が咲いたから。でもね。私は、この季節しか会いに来れないの」
「……会いたかった」
「私もだよ」
その声は、どこまでも優しく、温かかった。
蓮太郎の手が小さく震えた。彼の目の前には、確かに桜子がいた。幻ではない。五感すべてが、その存在を否応なく実感させた。
彼の瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちた。 長く抑えていた感情が、今この瞬間、堰を切ったように溢れてくる。
桜子はその姿を見て、思わず涙が溢れそうになるのを必死に堪えた。唇を震わせながらも、明るい声で言った。
「もう、何泣いてるのよ。」
蓮太郎は涙を拭い、少し笑った。そして、マスターの方へ振り返った。
「マスター、ビール、もう一本」
その声に、マスターは無言でうなずき、新たなボトルを差し出す。
蓮太郎はグラスに注ぎながら、桜子の方を見た。
「乾杯、しようか」
「うん」
グラスが静かに触れ合った瞬間、不思議なことが起きた。それまで沈んでいた店内の空気が、まるで春の光が差し込んだように、ふっと明るさを取り戻した。
それは、彼の笑顔がこの場所へ、この世界へ戻ってきた瞬間だった。
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