第5話 コーヒーの湯気の向こうに



----5年前------


まだ空気が少し肌寒く、街が目を覚ましきっていない時間。

蓮見設計事務所の中では、すでに桜子が掃除機を動かしていた。誰よりも早く出社するのが彼女の日課。観葉植物の埃を払い、デスクを整え、キッチンのコーヒーメーカーに水を補充していた。

「おはようございます」

美幸が事務所に入ってきた。

「おはよう」

桜子が掃除機を止め、軽く手を振る。

「今日も先輩に負けた」

「あのね……家が遠すぎるんじゃないの。早くこっちに越してくれば?」

事務所を立ち上げて半年。美幸は、蓮太郎と桜子にとって初めての新入社員だった。もともと、社員を取る気はなかった蓮太郎を、桜子が半ば強引に説得して採用が決まったと聞いている。事務所は中目黒だが、美幸は毎朝、横須賀の実家から通っていた。どれだけ始発に乗っても、美幸が事務所の鍵を開けることはなかった。いつも桜子の方が早く、コーヒーの湯気までが美幸を待っていた。毎朝の挨拶は、決まって同じやり取りだ。

「はい。今、部屋を探してるんですけど、気に入った部屋がなくて」

「わかる! これ絶対、設計士あるあるだよね。ほら、私たちの家もね、間取りをどうする?この部屋はこうする?って……何を置くにも決まらなくて! 蓮太郎と家具の趣味は本当に合わなかったな」

「想像がつきます」

「まあ、結局、私の思い通りになるんだけどね」

「それも、想像がつきます」

そのとき、蓮太郎が姿を現した。カジュアルなシャツにジャケット姿。手には何冊かの資料が抱えられていた。

蓮太郎は、美幸の大学のゼミの先輩にあたる。在学中は世代が離れていて面識はなかったが、進路に悩んでいた美幸を、ゼミの教授が蓮太郎に繋いでくれた。美幸にとって桜子と蓮太郎は、まるで可愛い妹のように溺愛してくれる、かけがえのない存在だった。

「美幸ちゃん。おはよう」

「おはようございます」

「どう? 部屋、決めた?」

「いえ、それがまだでして……」

「毎日、横須賀からは遠いでしょう」

「はい。まあ……分かってはいるんですが」

桜子が会話に割り込んだ。

「蓮太郎。そのやりとり、もう終わったの」

「そうなの? ……あ、桜子」

急に気を取り直したように、蓮太郎は軽く咳払い一つで口を開いた。

「ペットボトルを捨てる時は、キャップとシールをはがしてよ」

「はいはい」

「それと、台所の洗剤がなくなったら、そのままにしないで」

「はいはい。ちょっと。美幸ちゃんの前でそういうこと言わないでよ」

「また、美幸ちゃんの前でカッコつけて」

「いいじゃない。だって、美幸ちゃん、かわいいんだから」

桜子は掃除や洗い物が苦手で、毎朝のように蓮太郎に細かく注意されていた。そんなやり取りが、すっかり二人の日常の一部になっていた。

だが、彼女の料理の腕はプロ級だった。美幸も何度か二人の家で食事をご馳走になったことがある。ある夜には、丁寧に火入れされた鴨胸肉のローストが振る舞われた。蓮太郎が選んだ秋田の地ビール「あくらビール」は、その手料理の最高の引き立て役だった。香ばしさとほろ苦さ、ほのかな甘みが美幸の舌を優しく包み、身体がほどけていくようだった。あの夜のテーブルには、笑い声と心地よい酔いが静かに流れていた。

蓮太郎が照れ隠しのように視線をそらす。

「まぁな。桜子……SACのときは女性の後輩いなかったからな」

「そうなのよ。美幸ちゃんがきてくれて本当に良かった!」

少しの沈黙のあと、蓮太郎がトーンを変える。

「そんなことより、桜子。国立市の桜並木の施設の設計、どうなってる?」

急に仕事モードに切り替わり、自分のデスクに向かう蓮太郎。

桜子は肩をすくめてため息をつく。

「もう。急に仕事モードに入って……美幸ちゃん。コーヒー2つ頼める?」

「わかりました」

そのまま桜子と蓮太郎は、デスクに資料を広げて、打ち合わせを始めた。

その様子を見ながら、美幸は桜子が途中で止めていた掃除の続きを静かに引き継いでいた。

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