第2話 桜子の席 ― 中目黒の夜に咲く幻 ―

仕事を終えて事務所を出ると、すでに約束の時間を少し過ぎていた。夜風がシャツの隙間から入り込み、肌を冷やす。


蓮太郎は足早に中目黒の商店街を通り抜け、行きつけのビアバー、チェリーブラッサムの前にたどり着いた。


店のガラス越しに見える明かりが、ほっとするような温かさを感じさせる。


チェリーブラッサムの扉を開けると、店内に広がる燻製の香りが鼻をくすぐった。コンクリート打ちっぱなしの壁に、ウッドのカウンターと棚。控えめな照明が、居心地の良い空間を作っている。静かなジャズが流れる中、常連たちの会話が心地よいBGMのように響いていた。


カウンターには数人の客がくつろいでいた。カウンターの中にいるマスターが僕に気付いて手をあげた。


「いらっしゃい、蓮太郎君。どうも」


マスターは筋肉質な体格でスキンヘッド。無骨そうな外見だが、柔らかい笑顔を見せると、その印象はがらりと変わる。


「飯塚君は奥にいるよ」


「すいません」


奥へ向かうと、飯塚が一人でビールを傾けていた。彼はSAC設計という大手設計事務所の社員。かつて僕も桜子も所属していた会社だ。僕と飯塚は同期入社で、長い付き合いになる。


「よっ」


「先にやってるぞ」


蓮太郎は彼の隣に腰を下ろし、慣れた調子でカウンターへ声をかけた。

「マスター、えっと、四番のビール」


マスターは忙しく動きながらも、すぐにこちらへ視線を向けた。チェリーブラッサムでは、常に国産クラフトビールを1番から6番まで取り揃えており、毎月ラインナップは変わる。マスター自身が全国のブルワリーを巡り、選び抜いたビールが並ぶのだ。


「4番のビール……と。さすが蓮太郎君わかってるね、静岡のIPAね」


「ばっちりです。あ、燻製のつまみも」


「了解、今出すね。今日の燻製はサーモンとチーズ、それに合鴨だよ。いい感じに仕上がってる」


マスターの背中を見送りながら、蓮太郎は自然と口元を緩めた。


「今回のコンペは、すまなかったな」


飯塚が笑った。眉間のしわがわずかに緩み、グラスの縁を指先でなぞっていた。


「別に。俺も好きでやりたかった案件じゃないし。でも、あのドヤ顔にちょっとイラっと来たな」


「すまない。宗司もまだまだ駆け出しでね、許してくれよ。それに、ほら、個人の設計事務所が大手のSACから案件を取ったんだから、喜ぶのもわかるだろ」


「まあ、別にいいけどな」


マスターがそっとグラスをテーブルに置いた。彼の手つきはいつもながら丁寧で、静かに泡のたったIPAが僕の前に置かれる。


「それじゃあ……乾杯」


僕はそっとグラスを持ち上げ、飯塚のグラスに軽く合わせた。ビールの泡が小さく弾ける音が、心の奥に静かに響いた。


飯塚が、ふと蓮太郎の横の席を見つめた。そこは、かつて桜子がよく座っていた席だ。その視線に、どこか懐かしさと切なさが溶け込んでいた。


マスターが運んできた燻製のつまみが、僕の前に並べられる。湯気とともに香ばしい香りが立ち上る。そのマスターも、横の席に目を向けた。彼の目には、やはりあの頃の記憶が蘇っているのだろう。マスターはそんな二人の心情を察したのか、何も言わずにそっと身を引いた。飯塚はグラスの縁を見つめながら、独り言のように言った。


「すまん、ふと、お前の横にいるように思えてな」


「もう5年だよ」


「そうだよな」


その瞬間、ふと隣の席に気配を感じた。視線を向けると、いつの間にか帽子を深くかぶった女性が静かに座っている。

死んだ時のままの若さを保ったショートカットの女性——木下桜子だ。

彼女の姿は、他の誰にも見えていない。


飯塚のスマートフォンが振動音を立てた。


「すまない、すぐに事務所に戻らないといけなくなった」


飯塚が立ち上がり、グラスの残りを一気に飲み干すと、そそくさと出口へ向かった。


「わかった。またな」


「勘定もな」


「はいはい。あ、飯塚! 花見の件、ありがとうな」


ドアの閉まる音がして、静けさが戻った店内。


「花見って何?」


その声は、誰に届くでもない、僕の胸の奥にだけ届くような愛おしい響きだった。

帽子のつばの奥から、桜子の瞳がじっと僕を見ていた。彼女は竹を割ったような性格で、どんな時でも率直だ。


「京子ちゃんがね、ここの屋上で花見をしたいって。そしたらSACの花見と合同になっちゃって」


「京子……ああ、あの新人ちゃん。そうか、まだ続けてるのか。よしよし」


「そうか、桜子はまだ顔を見てないのか」


「そうだよ。蓮太郎が去年、履歴書を見て悩んでたから、私が太鼓判を押してあげたんでしょう?」


僕はビールをひと口飲み、思わず笑みをこぼした。

桜子の顔がふっと近づいてくる。その顔を間近で見ると、胸の奥がぎゅっと締めつけられる。僕は思わず微笑んだ。


「私の予想通り、気が強いけど、蓮太郎の事務所には欠けてた人材でしょう? それと、美幸ちゃんなんだけど。あの子さ、気を使いすぎるから、強引にことを進めたい時は物足りないのよね」


「そのこと、美幸さんに言ったら、ちょっと気にしてたよ」


「そりゃそうでしょう。あの子が入社した時から、ずっと美幸ちゃんには言い続けてたから」


「だからか、“誰に言われたんですか”って聞いてきたのは」


「どうぞ」


マスターがピンク色のビールを、どこか懐かしそうな、そして寂しげな表情でそっと僕の前に置いた。僕は桜子の矢継ぎ早な言葉に苦笑しながらも、マスターの気遣いに深々と頭を下げた。


「ありがとうございます」


「今年も来てるの? 桜子ちゃん」


「ええ、今年も変わらずきています。そこにいます」


「いつもご贔屓にありがとうね、桜子ちゃん」


マスターはまるで姿が見えているかのように優しく言葉をかけた。にこりと微笑むその顔に、少しだけ過去の寂しさがにじんでいる。


「いえいえ」

「ごゆっくり」


そのやり取りを、僕は静かに見守っていた。


「マスター、“ごゆっくり”されても困るんですよ。僕としては、悪霊化する前に成仏してもらわないと」


「うわぁ、失礼しちゃうわ。私がいないと生きてても意味がないっていうから、こうやって化けて出てきてあげてるのに」


「そりゃ、そうだけど、もう5年だからね」


「5年も経てば私のことはどうでもいいってわけ?」


「そういうこと言ってるんじゃないよ」


「乾杯しよう、蓮太郎」


「うん」


僕は自分のグラスを、桜色のビールにそっと合わせた。


「乾杯」



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