君が好きな桜を僕が嫌いな訳
MM2
第1話 春の扉
3月の初旬。
春が来るたび……私は少しだけ胸の奥がざわつく——。
そんな季節を何度も迎えてきた私、安藤美幸。中目黒にある小さな設計事務所で働いている。社長の蓮太郎さんとは、彼がこの設計事務所を立ち上げたときからの付き合いだ。あの日からもう何年も経つけれど、春になると、胸の奥が少しざわつく。
私たちの設計事務所は、中目黒駅から歩いて5分ほどのビルの一角にある。大通りから一本入った静かな通り沿いで、古い建物をリノベーションしたその空間は、コンクリートの打ちっぱなしに木の温もりが加えられていて、控えめながらも温かみのある空間だった。
私は、ぼんやりとパソコンの画面を見つめていた。
窓ガラスに春霞がかかり、桜のつぼみの膨らみがぼんやりと見える。この街は春になると人の流れが変わる。浮かれた笑い声がコンクリートの壁を通り抜けてくる。
デスクの向かいでは、榊原京子が明るい声で言った。
「先輩! 今週の週末、晴れるみたいですよ」
彼女は、春らしい花柄のブラウスにカーディガンを羽織っている。若さと女性らしさをそのまま形にしたような笑顔で、こちらを見ていた。
「京子ちゃん、どうしたの? 彼氏とデートでもあるの?」
「意地悪だなあ、私が彼氏いないの知ってるでしょう?」と京子ちゃんが口を尖らせながらも、目尻を下げて笑った。どこかあどけなさの残る笑みが、部屋の空気を和らげた。
「じゃあ、どうしたの?」
「お花見、行きませんか?」
私は一瞬、言葉を失った。
「え……」
京子ちゃんはさらに身を乗り出して、熱っぽく言った。
「ほら、私も来月になればめでたく蓮見蓮太郎設計事務所入所一年目達成ですから! そのお祝いも兼ねて、ねぇ、どうですか?」
京子ちゃんの視線が、部屋の奥の蓮太郎さんに向かう。彼は書類の山に目を落としながらも、軽くうなずいた。
蓮太郎さんは30代後半。清潔感があり、細身のスーツに身を包み、眼鏡の奥から穏やかな目をしている。設計事務所の社長として落ち着いた風格を備えつつ、優しいけれど、どこか孤独を抱えているような背中。元恋人の木下桜子の面影を、今も胸に抱いていることを、私は知っていた。
「それっていいってことですね!」と京子ちゃんが笑う。
「へへへ、いくらか社長からお祝い金、でちゃう感じですか?」
そこへ、営業の宗司さんが帰ってきた。ラフにジャケットを羽織り、ノーネクタイのシャツを少し緩めた姿は、どこか自由奔放な雰囲気をまとっている。彼は楽しいことが大好きで、設計事務所のムードメーカー的な存在。クライアントとの打ち合わせでも、その明るさが武器になっている。
「お疲れ様です!」と宗司さんの声には手応えを感じた営業らしい明るさがあった。
「お疲れ、どうだった? コンペの感触は?」と蓮太郎さんが、資料から顔を上げて問いかける。宗司さんの様子を見て、結果を聞く前からその成功を察しているような表情だった。
「ばっちりですよ。リビングを2階にして内階段、あれ、クライアントに大好評で。SAC、ちょっと気の毒なくらいです」
「SAC設計の飯塚さんだろ? 今度会ったら言っておくよ」
「何言ってるんですか。うちが受注してたのを横槍入れてきたのはあちらですよ。返り討ちです」
「まあまあ、飯塚さんとは丸の内の施設で協力関係にあるわけだし」
宗司さんは少し眉をひそめたが、すぐに肩をすくめて笑った。
「なんでも知人に頼まれて断れなかったとか。うちの案件ってわかってたけど、断り切れなかったんだって」と蓮太郎さんが補足する。
「ま、何はともあれ、おめでとう」
「ありがとうございます」
宗司さんは満足げに胸を張りながらデスクへ戻ると、にっこりと笑って京子ちゃんに声をかけた。
「お、京子ちゃん、コーヒー入れてくれる?」
京子ちゃんは明るく頷きながら立ち上がり、カップを手にした。
「あ、宗司先輩、コンペ成功おめでとうございます」
「どういたしまして」宗司さんは得意げにウィンクを返し、軽口をたたきながらもどこか照れているようだった。
「美幸先輩? どうもです。あれ? 何かあったんすか?」と宗司さんが私の顔をのぞきこむ。
私はとっさに視線をそらした。さっきから胸の奥がずっとざわざわしている。春が来るたびに、私は桜子さんのことを思い出す。それが、きっと顔に出ていたのだろう。
「え?」
「元気ないっすよ。コンペ成功したんですから、もっと笑ってくださいよ」
「うん……」
「美幸さん、ちょっといいかな」と蓮太郎さんが、声をかけた。彼の声は穏やかで、どこかためらいがちにも聞こえた。私が顔を向けると、蓮太郎さんは机の書類からふと視線を上げ、静かに私を見つめていた。
書類が積み上がるデスクの前に立つと、蓮太郎さんは私の存在に気づき、眼鏡の奥から静かな目を向けてきた。
近づくと、彼の指先がそっと封筒を差し出した。私はその動作が、まるで何か大切なものを渡すように慎重であることに気づいた。その手の温もりが封筒越しに伝わるようで、胸が少し締め付けられる。
「これ、京子ちゃんに」
「え……?」
「花見の軍資金。僕はいけないから」
「はい……ありがとうございます」
蓮太郎さんは、私には目も合わせずに、宗司さんに声をかけた。
「僕は用事があるからいけないけど、みんなと楽しんできてくれよ。
宗司、今週末あいてるか?」
「え、仕事ならダメですよ。余裕ないです」
「京子ちゃんが花見やろうってさ」
その言葉を聞いた瞬間、宗司さんはぱっと顔を輝かせ、まるで子どものように嬉しそうな表情で蓮太郎さんのデスクに歩み寄ってきた。
「暇です! めっちゃ余裕あります」
「前に蓮太郎さんが言ってた中目黒のワインバーの屋上なんてどうですか?」と、京子ちゃんが目を輝かせながら提案する。その無邪気な声色には、まるで遠足前の子どものような期待がにじんでいた。
「ちょっと、京子ちゃん……それは……」私は思わず声を出した。
本当は、社長にも来てほしかった。けれど、そんな気持ちを京子ちゃんが押し流すように続けた。
「中目黒の花見ってどこも混むから大変なんすよ。ワインバーの屋上、社長お願いします」
宗司さんも屈託のないお願いごとのように蓮太郎さんを見つめた。
その視線に、蓮太郎さんは観念したように笑った。
「うん、ちょっと待ってて。マスターに電話してみるから」と蓮太郎さんは、京子ちゃんの勢いに苦笑しながらも、スマートフォンを手に取った。彼の指が迷いなく番号を押す様子に、マスターとの信頼関係の深さがにじんでいた。
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