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早世は八月に『エナジードリンク中学受験塾』に入塾した。早世は最難関のラムネ学院に入りたかった。
ラムネ学院は私立の女子中学校だ。鉤松家からは行くのに電車に乗って一時間ほどかかる。北ドイツのシュヴェリーン城のような校舎の前には豪華な庭園がある。噴水とバラが咲き乱れ、まさにメルヘンの世界。早世はそれに憧れた。そしてラムネ学院の、ゴスロリを思わせる制服を着たかった。早世は偏差値とか評判で志望校を決めたわけではなかったのだ。
早世は八月にエナ塾の模試を受けた。結果は散々で早世は、自分はこんなにダメだったのか、と思い顔をしかめた。塾の先生には、
「鉤松さんは毎日十時間勉強するくらいの勢いじゃないとダメかもしれません。それとも、志望校変えますか?」
と、心配そうに言われた。でも、早世は自分で決めたことは最後までやり遂げると決めていた。
「いや、私そのくらいやれます!」
と、揺るがない強い眼差しで言った。その瞬間塾の先生の長年の勘が、この子ならもしかして受かるかもしれない、と告げた。
早世はもう周囲を気にしなくなった。表彰されようが褒められようがどうでもいいことだ、と思った。一緒に登校していた友達には、
「ごめん、集合時間を七時半じゃなくて七時四十五分にしない?」
と、提案した。サンドウィッチは笑顔で、
「いいよ!」
と、言った。だから早世は毎朝午前七時半に起きて午前零時まで勉強して寝るという生活を始めた。朝ではなく夜に勉強することにしたのは、自分は夜のほうが勉強に集中できる気質であると感じたからだ。
しかし、周囲を気にしなくなったといっても早世は友達のことを大切にした。友達と遊ぶことはできなくなったが、一緒に登校や下校をして休み時間はふざけ合った。
佳代子が地元のエナジードリンク中学校に入学したころ、早世は小学六年生になった。
早世は焦っていた。どうしても算数ができないし、社会の歴史の暗記がほとんどできていない。ラムネ学院の入試は算数と社会が本当に難しい。特に算数は毎年悪問が出ることで有名だ。
深夜に教科書やプリントが山積みになった自分の机で早世は頭を抱えた。もう一度問題の立体図形を見る。しかし、何十分考えても何をすればいいのか分からなかった。ノートは真っ白だ。ただ白く光る空間の中で出口を探さないといけないような気分。その空間では動けば動くほど自分のいる場所が分からなくなってしまうのだ。動こうと思っても動けない。
「ううー!」
やるせなさでうなり声を上げながら早世は問題の答えを見た。そのたびに不安に押しつぶされ涙が出そうになる。自分は答えを見てしまっていいのか。入試では答えなんか見られないのに。
解説を読んだ後早世は自分を奮い立たせて、もう一度その問題を解き直す。悩んでいる暇はない。頑張れ頑張れ私。
時計を見ると午前零時を過ぎていた。
「早世」
そう呼ばれて振り返ると、出入り口に立って逆光を受けるサンドウィッチとハンバーガーがいた。
「二人とも、どうしたの?」
早世は昇降口で下駄箱掃除をしていた。眠くて箒を握る手に力が入らない。サンドウィッチはニヤッと笑って、
「私たちから、早世へプレゼントがあります」
と、言った。
「校庭のジャングルジム行こう」
ハンバーガーは唐突に早世の手を引いた。早世は困り顔になって慌てた。
「ええ! このタイミングで? でもまだ掃除の時間……」
チャイムが鳴った。清掃時間が終われば生徒たちはもう下校できる。
「ほら、鳴った」
ハンバーガーが微笑んだ。
二人の友達が早世に渡したのは学校で売っているエナジードリンクの内の一本だった。三人はジャングルジムの一番下の段に腰かけた。缶の中を覗くと、エナジードリンクの濃い青色が夕日に当たって蛍光色の青色になって輝いているのが微かに見えた。桜の木はもう緑に染め変わり風にさらさらとなびいていた。虫の気配はしない。涼しくて静かな春だった。
「おいしい」
早世はエナジードリンクを一口飲んでそう言った。それっきり、三人の間に不思議な沈黙が流れた。
しばらくしてサンドウィッチが、
「早世、中学受験するんだもんね」
と、遠い目をして言った。そして一息に言う。
「最近疲れてそうだから、たまには息抜きしなよ。私に何かできることがあるわけじゃないけど、心の底から応援してる」
早世はちょっと戸惑ったが、
「ありがとう」
と、言った。
「早世、六年になってから休み時間もずっと勉強してたよね」
ハンバーガーが言う。
「私たち、今日もしかしたら早世に迷惑かけちゃうかもって思ってたんだけど、喜んでくれてよかったよ」
さ、エナジードリンク飲み終わったし帰るか! とハンバーガーが言って三人はジャングルジムから降りた。
早世はただ嬉しい気持ちになって微笑む。最近は寝不足で色々なことに整理がついていなかったけれど、今は生まれ変わったような気分だ。早世は友の思いを受け取り、また自分は頑張れるという自信をつけた。
*
中学一年生の鉤松佳代子も優等生だった。授業中は唯一挙手をするし、体育館で全校集会があるたびに表彰される。それに定期テストの順位はいつも一位だし学級委員と生徒会の会計もやっていた。
しかし、佳代子は優等生でいることに何の意味も見出せなくなっていた。なぜなら中学校では優等生でいることは周りに認められるどころか、嫌われることだったからだ。それに、両親は佳代子のことをもう褒めてくれなかったから。
両親は早世につきっきりだった。そして佳代子も、早世のほうが賢くなってきたと感じていた。あんな努力、佳代子にはできなかった。自尊心は欠片になってしまった。
ある日、佳代子は教室から音楽室に一人で移動していた。渡り廊下にエナジードリンクの自販機が二台置いてあった。売っているエナジードリンクはどれも同じ種類で小学校のときと何も違わない。缶のデザインは黒一色で、購入しないと見えない缶の底に成分表だけが載っていた。
渡り廊下の窓から西日が射す。佳代子は窓枠に肘をついて外を見た。遥か向こうに一面が灰色の巨大な直方体があった。連なる山を背にして建っている。最初のうちあれは何だろうと佳代子は思っていた。しかし何度もここを通るうちにやっと気づいた。あれは、エナジードリンクの工場だ。ある日佳代子は、あの直方体から十台のトラックが出て幾度も道を分かれながら、一台のトラックがエナ中にやってくるのを見た。そして中から出てきた一人の運転手が箱を一つ持って校庭の自販機へ行った。そして自販機に箱の中身であるエナジードリンクを入れていたのだ。
皆が美味しいと言うエナジードリンクを、佳代子はとてもそうとは思えなかった。そして、誰にもエナジードリンクを貰うことはなかった。佳代子はエナジードリンクに関するものを見るたびに、言いようのない悲しさを感じるようになっていた。
予鈴が鳴る。佳代子は渡り廊下を過ぎて左に曲がった。隣や後ろに知らない生徒のグループが並んで歩いている。
「遅れちゃう、走ろう!」
「オッケーって、あ。私、教室に筆箱忘れた……あーあ。最悪」
「もー、馬鹿!」
「ドンマイ。先行ってるわ」
あははは! とうるさく笑いながら、廊下を占領して歩くにぎやかな女子のグループ。佳代子は彼女らに話しかけようとは思わない。
「じゃ、テスト返しから始めまーす」
音楽の先生がそう言うと、ゲー最悪、終わったわ、うわー! などとみんな言う。クッキーという男子は足を投げ出して座り、
「俺終わった! 終わった! みんな諦めようぜー!」
と、絶叫しながら親指を下に向けていた。不機嫌そうな顔をして右足をダンダンと踏み鳴らす。クッキーは隣の生徒が落としてしまったシャーペンを奪い、右足で故意に壊そうとしていた。持ち主である気の弱そうな男子は、止めてくれよう、と泣きそうな顔で言いながら必死にシャーペンを取り戻そうとしていた。佳代子はその間、黙って座っていた。周りを警戒するギョロッとした目の下は濃い隈で縁取られていた。
音楽の先生は彼らに、静かにしなさい! などとは注意せず、彼らを無視する。もはや諦めていた。給料が貰えるギリギリのクオリティで仕事をすればいい、と思っている。エナ中の教員は、誰もがそんな思いで仕事をしていた。
「最高点は百点でしたー。じゃ、アイスクリームさんから並んでくださーい」
誰かがボソッと言った。
「どうせまた鉤松だろ」
「ああ、あの優等生ヅラしたお節介ババアね」
「授業妨害してアイツの内申下げてやろうぜ、マジで」
少年たちは目配せしながらしゃべり、ヒヒっ、ギャハハハハ! と、揃って下品な笑い声を上げた。佳代子は頭の中を空っぽにしてじっと耐える。
中学受験すればよかった。そう思って膝の上に乗せた拳をぎゅっと握る。私、何であのとき断っちゃったのだろう。佳代子の後悔はこれに尽きた。妹は中学受験をする。羨ましい。なんでいつもあの子ばかり得しているの。佳代子はむしゃくしゃして唸り声を上げそうになる。もう、なんで? 目頭が熱くなり鼻水が出てきた。周りの人にばれるとまずい。佳代子は深呼吸して不自然に多く鼻をすすった。
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