第2話 くろかみ
黒髪ほど──人を惑わせるものはない。
艶やかに垂れ下がり
絹のように流れるその一本一本が
まるで〝しがらみ〟の糸だ。
ボクは、幾度となく思った。
キミが〝アイツ〟のために伸ばしている
その黒髪を──⋯
いっそ、無造作に切り落としてやりたいと。
⸻
思えば、人は誰しも
〝しがらみ〟に絡め取られて生きている。
家族、友人、恋人──
そう呼ばれるものたちは
一見温もりを与えるようでありながら
実のところ絡みつく鎖にほかならない。
笑顔も涙も、全ては束縛の糸。
キミも例外ではなかった。
アイツを振り向かせたいと願い
恋の願掛けに黒髪を伸ばすキミ。
その姿を
ボクは横目に見るしかなかった──⋯
願いにすがる手が、髪先に触れるたび
ボクの胸中に渦巻くのは嫉妬と焦燥。
そして
どうしようもない〝衝動〟だ。
──切り落としたい。
指先に幻の鋏を握りしめ
妄想の中でボクは──
何度も、その髪を後ろから掴み
無慈悲に断ち切った。
アイツへと伸びようとする
その黒髪を断ち切れば──
キミは振り向かせたい相手を失い
ようやく静けさを取り戻すだろう。
そうすれば、ボクの心は
幾ばくかの安寧を得られるはずだった──⋯
⸻
だが──
〝しがらみ〟というものは
切っても切れぬ。
切り落としたはずの黒髪は
いつしか幻の茨となり──
ボクを絡め取った。
気付けばボクは──
〝しがらみ〟にではなく
切り落とした
〝黒髪そのもの〟に囚われていたのだ。
滑らかなはずのその髪は
絡みつけば棘となり
体を蝕む。
一筋一筋が茨の枝のように
ボクの皮膚を裂き
血を滲ませる。
抜け出そうともがくほど
黒髪の茨は深く喰い込み
骨の髄まで縛り上げる──⋯
それは──甘美な〝拷問〟だった。
ボクは苦しみながらも
決して逃れようとは思わなかった。
むしろ、その苦痛こそが──
〝愛の証〟であると
錯覚していたのかもしれない。
⸻
ア イ ツ の た め
ただ〝それだけ〟の理由で──
キミは艶やかな髪を育てていた。
その真実を突き付けられるたびに
ボクの胸は裂ける。
ならば、なぜ⋯⋯
ボクは、囚われるのか。
なぜ──
アイツに向けられた黒髪ごときに
ボクは命を削るのか。
答えは一つしかない。
それが、ボクにとっての──
〝救済〟だからだ。
振り向かぬキミを縛ることはできずとも
切り落とした黒髪に囚われることで
ボクはキミに触れていられる。
たとえそれが幻であろうと
妄執の影であろうと
ボクの存在理由を繋ぎ止める──
唯一の糸だった。
⸻
やがて──黒髪の茨は〝道〟となった。
行く先は──茨の道。
ボクの足元を切り裂き
血を滴らせ
歩むごとに痛みを強いた。
それでも──歩いた。
茨の道を進むことこそ
ボクがキミに絡み取られる証明だったからだ。
血塗られた道を進むボクの姿を
誰が見るわけでもない。
キミが振り向くこともない。
ただ一人──
ボクだけが
切り落とした黒髪と共に歩き続ける。
その果てに待つものは
光か
奈落か──⋯
いや、もはや答えは必要ないのだろう。
ボクは既に
黒髪に堕ちている──⋯
⸻
──キミの黒髪に
アイツのために伸ばされた
その黒髪に──⋯
ボクは
すでに絡め取られ
切り裂かれ
囚われ
墜ちてしまったのだから──⋯
それでも
妄想の中で鋏を振るい続ける。
切っても切れぬ髪を
何度でも。
何度でも。
何度でも。
何度でも──⋯
それがボクの生き様であり
愛の形だから。
狂おしくも──哀れな愛の形だから。
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