夢喰らう花の睡りに
佐倉井 鱓
カーティスクリーク
第1話 川のせせらぎ
人は誰しも──
胸の奥に〝秘密の川〟を持っている
それは
誰にも見せぬ
誰にも語らぬ
心の深奥に流れる小さなせせらぎ。
ボクにとってそれが
〝カーティスクリーク〟だった。
⸻
まだ少年の頃──
町の外れにひっそりと横たわる
細い川を見つけた。
地図には載らぬ
林を抜けた先にある小さな流れ。
人目を避けるようにして木々の影に隠れ
声を潜めて澄んだ水を流していた。
そこが、ボクの──〝秘密の川〟となった。
家族にも、友人にも言わなかった。
ただ一人
ボクだけがその川に通い
釣り竿を垂らした。
やがて釣果など、どうでもよくなり
竿を置いてはただ流れを見つめ
耳を澄まし
風の音に身を委ねるようになった。
その川は
ボクにとって〝お気に入りの川〟だった。
⸻
季節ごとに、川は装いを変えた。
春には新緑の香りを運び
夏には水面に蜻蛉が舞い
秋には落葉がせせらぎを彩り
冬には氷の調べを奏でた。
川面に広がる景色は
そのままボクの心の揺らぎと重なっていく。
だからこそ、ボクは思った。
この川は
ボクにとって──〝心の川〟なのだと。
悩みに沈んだ日も
川は無言で迎えてくれた。
歓喜に満ちた日も
川は静かに包んでくれた。
言葉を交わす必要などない。
流れはただ流れ
ボクはただそこにいるだけでよかった。
⸻
年月が過ぎ、ボクは青年となった。
町を出て学び
働き、恋をし、幾度も失い、また手に入れた。
それでも変わらぬものがひとつあった。
〝理想の川〟としての──あの流れだ。
都会の喧噪に揉まれ、心が削がれた時も
ボクは休日のたびに車を走らせた。
林を抜け、見慣れた土手に腰を下ろし
懐かしい川の音に耳を澄ませる。
流れは相変わらずで──
少年の頃に見た景色をそのまま湛えていた。
ボクがどれほど変わろうとも
川だけは変わらない。
変わらぬ姿で
変わらぬ水音で
ボクを受け入れ続けてくれる。
──だからこそ〝理想〟なのだ。
⸻
ある日、ボクは久々に竿を手にした。
針先にフライを結び、慎重にキャストする。
水面をかすめるようにして糸が舞い
羽虫を模したフライが着水した。
その瞬間──
川の奥で水面が弾け、銀色の影が跳ねた。
心臓が高鳴る。
竿に伝わる震えは
まるで少年の頃の鼓動そのまま。
──そう、これこそが
〝フライフィッシング〟の醍醐味だった。
獲物を得ること以上に
自然と対話する行為──⋯
流れに寄り添い
風に委ね
魚と交わす一瞬の駆け引き。
その全てが
ボクを再び川の住人にしてくれる。
魚を手にした瞬間よりも
逃げられた瞬間の方が愛おしかった。
水面に残る波紋が
永遠の記憶として胸に刻まれるからだ。
⸻
そして──
気付けば、ボクの胸には
ひとつの言葉が浮かんでいた。
〝走馬灯〟
人生の終わりに
人は走馬灯を眺めるという。
ならば、ボクの走馬灯には
必ずこの川が映るだろう。
少年の頃
初めて訪れた日の清涼な風。
青年の頃
都会から逃げ帰った日の安堵。
そして今──
歳を重ねても、なお竿を振るうボクの姿。
すべてが
カーティスクリークという
一本の川の流れに結ばれている。
⸻
やがて──
ボクはこの川に還るのだろう。
骨を砕き
灰となり
風に舞えば
きっとこの水面に落ちる。
その時
川は何も言わずに受け入れ
静かに流れ続けるはずだ。
──それでいい。
──それがいい。
カーティスクリーク。
ボクの秘密の川。
お気に入りの川。
心の川。
理想の川。
そして、走馬灯に映る最後の川。
フライフィッシングの糸を手繰るように
ボクは何度でも
その川へ帰ってゆくのだ──⋯
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