第3話
氷床下都市〈ノア4〉
リナが暮らす〈ノア4〉は、氷床の四千メートル下に築かれた最後の都市だった。
地上からの光は一切届かない。
代わりに、天井には人工太陽が昇る。
それは白金の輪が連なるような照明群で、昼と夜を疑似的に再現していた。
通路の壁は銀色の合金でできており、ところどころに古い地球の写真が貼られている。
青い空、緑の森、海鳥、花畑。
それらはもはや誰も見たことのない“記録の風景”だ。
リナは研究所へ向かう途中、食糧区画を通り抜けた。
透明なパイプの中では、藻類が淡い光を放ちながら循環している。
栄養源のほとんどは、この藻から作られた合成食だ。
味気ないけれど、命をつなぐには十分。
「またデータ採ってたの? 夜勤明けの顔してるよ。」
声をかけてきたのは、同僚のミラ・カンザキ。
明るい茶髪を短く切り、肩に古いカメラを提げている。
彼女は〈ノア4〉の記録員であり、リナの唯一の友人だった。
「外層観測の再計算をしてたの。温度の下降が止まらない。」
「もう二五九二年よ。今さら気温の話しても、凍るだけでしょ。」
ミラは肩をすくめる。
けれど、その瞳にはほんの少しの不安が浮かんでいた。
リナたちが信じてきた「地熱安定理論」は、すでに崩れつつあった。
地下熱源の出力が年々低下し、このままでは都市そのものが凍結する。
それを食い止める最後の望みが、リナの研究する《ブルー・シード計画》だ。
研究区画へ入ると、金属音と低い唸りが響いていた。
部屋の中央に鎮座する巨大な装置──球体炉〈セレス・コア〉。
青白い光を放ち、内部で未知の物質が鼓動している。
リナは制御卓に手をかざした。
「おはよう、セレス。」
『……おはようございます、リナ博士。昨夜の観測データを受信しました。』
装置から響く声は柔らかく、人間の女性のようだった。
それが都市を統括するAI〈セレス〉。
彼女は“地球の記憶”を保存し、人類の未来を計算する存在でもある。
『質問。地上再生プロトコルの再開は、まだですか?』
「まだ。条件が整っていないの。」
『条件、とは?』
「氷が、自ら溶け出す兆候。自然の再起動を、私は見たいの。」
少しの沈黙。
AIの光がゆらめき、低く囁いた。
『リナ。あなたは、地球を愛していますね。』
その言葉に、リナは答えられなかった。
ただ静かに、手を胸に当てた。
氷の世界に生まれ、氷の空しか知らない。
それでも、彼女の心には、青く揺れる波の記憶が刻まれていた。
「私が生まれる前に、誰かが撮った海の映像。
あれを見たとき、胸の奥があたたかくなったの。
理由はわからない。でも、あの色を、もう一度見たい。」
『……承認。感情データ“希望”を記録しました。』
セレスの声が、わずかに柔らかくなったように聞こえた。
その瞬間、警報灯が赤く点滅する。
「何?」
『地上観測衛星・ミラー17号の軌道異常を検知。反射角度、偏向中。』
ミラが駆け込んできた。
「上層カメラが氷の裂け目を捉えた! 氷床に動きがある!」
リナは息をのむ。
氷は、永遠ではなかった。
地球が、わずかに呼吸を取り戻そうとしている。
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