第4話 遠ざかる音色と、鷹の羽搏き
翌日。
教室の窓際の席は、依然として灼熱地獄だったが、俺の心臓の周りだけが、冷たい氷で締め付けていた。
鶴蔵澪波とは、それ以来一度も会っていない。
駅のホームでも、裏の商店街でも。
白鳥奏学院と北泉鳥工業。
物理的な距離など、元々あってないようなものだった。
だが、心の距離は、一瞬で天と地ほどに開いてしまった。
一昨日の一件以来、真斗は俺に絡まなくなった。
真斗はいつものように賑やかだが、俺の周りだけ、いつもより静かだ。
真斗の視線は、時々、俺の腕の辺りをさまよう。
あの時、殴られた胸倉の痛みよりも、俺が手を出さなかったという沈黙の事実が、彼を傷つけたにちがいない。
空「心助」
休み時間、鷲宮空音が不意に俺の席の隣に立った。
彼女はいつものラメファンを回しているが、その目にはいつもの気まぐれな光がない。
空「真斗と、あんまり喋らなくなったね」
心「…うん」
空「私は全部見たわけじゃないけど。宏太朗に聞いたよ。あんな、チンピラみたいな連中、相手にしなきゃいいんだよ。…でも」
空音は、そこで言葉を切った。
いつも空音は、俺の感情に敏感すぎる。
空「でも、心助は、何もできなかったんでしょ。…誰かに、臆病風に吹かれたみたいに」
そう、その通りだ。
俺は、臆病だ。
過去に囚われたまま、大切なものを守れない。
ただの臆病な奴なんだ…
その臆病さで、友と、そしてあの子をも傷つけてしまった。
その時、宏太朗が、俺たちの会話に加わってきた。
彼の表情は、相変わらず冷房のように無表情だ。
宏「心助。俺も、お前の過去のことは真斗から少ししか聞いたことがないが、聞いておく。」
珍しく宏太朗が感情の籠った声色で喋る。
宏「お前の『贖罪』ってのは、誰のためのものなんだ」
宏太朗は、そう言い放った。
心臓を直接抉られるような、冷たい言葉だった。
的確で、残酷。
でも、それでも救いの手を述べるような言葉使い。
宏「お前が動かないことで、真斗は傷ついた。お前のことを、あのピアノの子とやらが見ていたんだろう。お前の罪を償う方法は、沈黙と無力でいることなのか?」
いや、違う…
分かってる。
宏「俺に言わせてみればそれは、ただの自己満足」
俺は、何も言い返せなかった。宏太朗の言葉は、熱く、そして冷たかった。
真斗を傷つけた。
澪波さんを誤解させた。
俺が本当に償わなければならないのは、誰の心なのか。
その日、一つの決意をする。
このままでは、あの優しい音が、二度と自分には届かなくなる。
まだ空に手を伸ばせるうちに、翼を広げる必要があった。
翌日。
自己満足。
宏太朗に言われたこの言葉が頭の中を駆け巡っている。
その鋭利な指摘は、俺が何年もかけて自分に課してきた「贖罪」という名の重い足枷を、一瞬で破壊させた。
その日の放課後。
俺は、人通りの少ない裏門近くで、猪村真斗を呼び止めた。
夕焼けが、北鳥高の古びた校舎に、血のような赤を塗りつけている。
心「真斗」
真斗は一瞬で顔をこわばらせた。
あの日以来、初めて二人きりになる。
彼の視線は、俺の顔ではなく、足元の砂利をさまよっていた。
心「この前のこと、マッジで」
喉奥が力む。
心「ごめん…」
俺の口から出たその一言は、鉛のように重かった。
喉の奥で何年も澱んでいた、謝罪という名の溶解した鉄を吐き出すような感覚だ。
真「別に、いいって。もう終わった話じゃん。あんなの、相手にしなくて正解、正解。お前の事情は、俺だって、まぁ……」
真斗は、いつもの明るさで壁を作ろうとした。
だが、その声は微かに震えていた。
心「違う」
俺は遮った。
心「お前を助けられなかったのは、あいつらが怖かったんじゃない。俺が、手を出して何か壊すのがすげぇ怖かったんだ。自分に勝手にブレーキかけてただけだ」
夕焼けが、真斗の瞳に赤く反射した。
彼の表情から、無理に貼っていた笑顔の膜が剥がれ落ちる。
そこに残ったのは、痛みと、そしてほんの少しの安堵だった。
真「ったく、今さら。分かってるっての。心助があんなのに怖がってたら逆に引くわ」
彼は深く息を吐き、静かに言った。
真「でもさ、ちゃんと謝れたんならいい。なんなら嬉しい。俺だって、お前が小学生の時から変に悩むようになったの知ってたし。だから、俺の方こそごめん」
心「いや、真斗は何も悪くないだろ」
真「いやいや俺こんなだからさ、すぐに面倒事起こすし、いつも隣にいる心助に迷惑かかってたの、心の底では分かってたんだ」
心「ちがう、隣にいてくれてありがたいのは俺の方なんだよ。小学生のあの日からずっと横で歩いてくれてる真斗を助けれなかったんだ、俺は…謝るのは俺の方だ。ごめん」
真斗「いや、俺が悪い!ごめん!」
心「俺が悪いんだよ!ごめん!」
真斗「俺だ!」
心「俺だって!」
心、真「ごめん!!」
真斗「ぶ…ぶふっ」
心「くくっ…」
互いに目が合うと、つい笑いがこぼれる。
もう、真斗はこわばった笑顔じゃなく心の底からの笑顔で俺を見ていた。
真「ま、気にすんな!」
真斗は強く俺の胸を叩いた。
それは、あの時真斗が受けた鈍い衝突音とは違う、温かな音だった。
心「うん。ありがとう」
心の中で重く垂れ下がっていた鉛が、いくらか軽くなったのを感じた。
鎖はまだ見えているが、その鍵は俺の手に戻った、そんな気がした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます