第2章


 一週間が過ぎた。その間、彼は毎日のようにお兄さんの店へと足を運び、そして、毎日のように、深い疲労を顔に刻んで戻ってきた。彼の存在は、まるでお兄さんの人生の延長線上にあるかのようだった。


 今日も、彼はカウンターの向こう側に立っている。だが、いつもと何かが決定的に違っていた。目の下の隈は、さらに深く、暗い影を落とし、頬はわずかにこけ、その輪郭は以前よりも鋭利に見える。そして、何よりも、その手が震えている。コーヒーカップを持つ指先が、小刻みに、しかし止まることなく震え続けているのだ。


「大丈夫?」私は思わず、押し殺していた問いを発した。


 彼は少しだけ驚いたような顔をして、それから無理に笑みを浮かべた。「平気平気」。だが、その笑顔は、まるで張り付けたような作り物で、彼の内面の消耗を一層際立たせていた。


 彼はカップをカウンターに置き、乾いた手で掌を擦り合わせた。「ちょっと冷えてるだけだよ」


 冷えている。だが、店内は暖房が効いて温かい。私は何も言わない。言っても、彼の心には届かない気がしたからだ。


「今日は何時まで?」私は代わりに、その問いを投げかけた。


 彼は一瞬、遠い目をして考え込むような仕草を見せ、それから答えた。「わかんない。兄さんが、今日は大事な客が来るって」


「兄さん」。また、その言葉。私の胸に、鈍い痛みが走る。


「そっか」私はそう呟き、彼の視線から逃れるように、窓の外へと目を向けた。


 その時、店のドアが開き、常連のおじさんが入ってきた。「いらっしゃいませ」彼が声を出す。だが、その声は掠れていて、まるで砂利が混じっているかのようだった。おじさんは少しだけ訝しげな表情を浮かべ、それからいつもの席に座る。


「いつものを」


「はい」


 彼はエスプレッソマシンの前に立ち、豆を挽き始めた。しかし、その手は震え、何度も豆をこぼしそうになる。私はその光景を見ているだけで、胸が締め付けられるような苦しさを感じた。


 彼は何度か深呼吸を繰り返し、ようやくカップにエスプレッソを注ぎ終えた。「お待たせしました」彼はそう言って、おじさんの席にカップを運んだ。


「ありがとう」おじさんはカップを受け取り、一口飲む。そして、僅かに眉をひそめた。


「今日は、ちょっと薄いね」


 彼の身体が、その場で固まった。「あ、すみません」彼は震える声で謝罪した。


「いや、大丈夫だよ。気にしないで」おじさんは優しく微笑み、再び新聞を広げた。


 彼はカウンターに戻ってくる。そして、何も言わずに俯いた。私は彼の隣に立ち、そっと肩に手を置いた。「大丈夫」私が囁くと、彼はゆっくりと顔を上げた。


「ごめん」


「謝らなくていいよ」


 彼は何も答えない。ただ、再び俯き、カウンターを拭き始める。その背中は、先ほどよりもさらに小さく、頼りなく見えた。私は彼を見つめながら、確信にも似た思いを抱いた。お兄さんは、彼を壊している。ゆっくりと、しかし確実に。




 昼過ぎ、おじさんが帰る前に、私に声をかけてきた。「ちょっといい?」


「はい」


 私はおじさんの席に近づく。おじさんは周囲をちらりと見回し、それから声を潜めて言った。


「彼、大丈夫かい?」


 私は少しだけ驚き、それから曖昧に頷いた。「はい、多分」


「多分?」おじさんは眉をひそめる。「最近、どうも様子がおかしいように見えるがね」


 私は何も答えない。答えることができなかった。おじさんは少しだけ躊躇してから、続けた。


「あのね、俺、彼のお兄さんの店、知ってるんだ」


 私は息を呑んだ。


「駅前のスナックでしょ?」


「ああ、そうだ。あそこの店長、ちょっと怖いよ」


「怖い」。その言葉が、私の胸に鋭く突き刺さった。


「どういう、意味ですか?」私は、震える声で訊いた。


 おじさんは少しだけ困ったような顔をして、それから言った。「よく怒鳴ってるんだ。従業員に、怒鳴り散らしているのを何度か見たことがある」


「……」


「弟さんも、よくこき使われてるって聞くよ。無理難題ばかり押し付けられてる、とかね」


「こき使われている」。その言葉が、私の頭の中で、不気味な反響音を立てた。


「そう、なんですか」私は、喉の奥から絞り出すように言った。


 おじさんは深く頷き、それからゆっくりと立ち上がった。「あんまり無理させない方がいい。彼、いつか潰れてしまうんじゃないかと、心配でね」


 おじさんはそう言って、店を出ていった。私はその場に立ち尽くす。潰れてしまう。その言葉が、私の頭の中で何度も、何度も繰り返される。


 私は彼の方を見る。彼はカウンターで、無言でカップを洗っている。その背中は、もう限界に達しているように見えた。私の中で、何かが鳴り始める。警鐘。それは、最初は小さな音だったけれど、確かに私の心臓を叩くように、強く鳴り響いていた。




 夕方、彼のスマートフォンが鳴り響いた。彼は急いで手を拭き、画面を見る。その瞬間、彼の顔の筋肉が、まるで氷のように強張った。


「兄さんからだ」彼は、押し殺した声で呟いた。


 彼は店の奥へと引っ込み、電話に出る。私は一人、カウンターに残された。客はもういない。静まり返った店内に、彼の声だけが、断片的に響いてくる。


「はい」「はい、わかってます」「はい」


 彼の声は、どこか弱々しく、力がない。そして、受話器の向こうから、相手の声が聞こえてくる。低く、鋭く、そして、怒鳴り散らすような声。


「だからお前は駄目なんだよ!」「何回言ったらわかるんだ、この役立たずが!」


 私は息を呑んだ。彼は何も言い返さない。ただ、「はい」「すみません」と繰り返すだけ。彼の声は、次第に小さく、消え入りそうになっていく。


「今すぐ来い!」


「はい」


 電話が切れる。彼が、店の奥から戻ってくる。その顔は、血の気を失い、真っ青だった。


「行かなきゃ」彼が、力のない声で言った。


「今から?」


「うん」


 彼はエプロンを外し、乱暴に鞄を掴む。「ごめん、閉店、お願いできる?」


「うん」私は、頷くことしかできなかった。


 彼は何も言わずに、店を出ていった。私は一人、店に残される。そして、先ほど耳にしたお兄さんの声を思い出す。「だからお前は駄目なんだよ!」。その声は、冷たく、鋭く、まるで人の心を切り刻むような響きを持っていた。


 私の胸の奥が、熱くなるのを感じた。怒り。そして、深い嫌悪。お兄さんは、彼を壊している。お兄さんは、敵だ。お兄さんの存在は彼にとって、悪でしかない。彼のためにも、お兄さんを何とかしなければいけない。


 そんなことを考えていると、店の閉店時間はとっくに過ぎていた。外は、すでに深い闇に包まれていたが、私の中には、熱く燃え盛る炎が宿っている。それは怒りであり、同時に、揺るぎない決意でもあった。

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