光の底

神谷 伊織

第1章

 夜明けの気配を纏った光が、磨き上げられたガラス窓を通して店内に滑り込む。それは、まるで指先で触れられるかのような、柔らかな光の筋となり、カウンターに置かれた真新しいコーヒーカップの表面を、薄く淡い金色に染め上げていた。私は彼の隣に座り、その光の戯れをただ眺めている。


 カフェはまだ開店前で、客の気配は微塵もない。空間を支配するのは、エスプレッソマシンから立ち昇る白い湯気の微かな音と、深い焙煎を終えたばかりの豆が放つ芳醇な香りだけ。その香りが、まるで目に見えない膜のように、私たち二人を優しく包み込んでいる。


「美味しい?」彼が、私の視線の先を辿るように、穏やかな声で問いかけてくる。


「うん」私は小さく頷き、両手でカップを包み込んだ。手のひらに伝わる温かさが、凍える心にじんわりと染み渡る。その温もりだけで、張り詰めていた何かが少しだけ緩み、安堵が胸を満たす。


 私の返事を聞いて、彼はふっと、息を漏らすように微笑んだ。だが、その笑みは、いつもの彼とはどこか違う。目尻には、これまで見たことのないほど深い皺が刻まれ、その奥には、隠しきれない疲労の色が滲んでいた。


「今日も忙しくなりそう」彼はそう呟くと、カウンターの向こう側へと移動した。慣れた手つきでエプロンの紐を締め直し、深い呼吸を一つ。そして、豆を挽き始める。ゴリゴリと、規則正しく響くその音は、まるで彼の心を削り取るかのように、静かな店内に響き渡る。私はその音を聞きながら、彼の背中を見つめた。いつもは真っ直ぐな彼の肩が、今日は心なしか、小さく丸まっている。


 いつからだろう。彼の背中が、こんなにも小さく、頼りなく見えるようになったのは。私はその問いを、決して口には出せない。言葉にしてしまえば、今にも崩れ落ちそうな、二人の間の均衡が、音を立てて壊れてしまうような気がしたからだ。


「ねえ、今日は何時に終われそう?」私は代わりに、別の問いを投げかける。


 彼は手を止め、一瞬、遠い目をして考え込む仕草を見せた。その沈黙が、私の胸に重くのしかかる。「わかんない。兄さん次第かな」


「兄さん」。その言葉が口にされるたび、彼の声のトーンは僅かに変化する。低く、そして硬く、まるで感情を押し殺すかのように。


「また手伝い?」


「うん。店のことで、色々あるみたいで」


「店のこと」。彼はいつもそう言う。具体的なことなど、決して口にしない。私もまた、それ以上は何も訊かない。訊いてはいけない。まるで、禁忌に触れるかのような、そんな予感がするからだ。


「そっか」私はそう呟き、少し冷め始めたコーヒーを一口飲んだ。口の中に広がる苦みが、現実の重さを教えてくれる。


 彼は再び豆を挽き始める。ゴリゴリと、規則正しい音が、再び静寂を破る。私はその音を聞きながら、窓の外に目を向けた。朝の光は、まだ優しく降り注いでいる。だが、その光の底には、得体の知れない重苦しい何かが、深く沈んでいるような気がしてならなかった。



 開店時間を過ぎると、ぽつりぽつりと客が店に入ってきた。いつもの常連のおじさんが、定位置の席で新聞を広げている。隣のテーブルでは、大学生らしき女の子二人が、ノートパソコンを前に何かを話し込んでいる。


 私は彼の手伝いをしながら、客のテーブルへコーヒーを運んだ。カップを置くと、彼が小さく「ありがとう」と囁く。私は微笑んで「うん」と応え、カウンターへ戻る。


 彼は無言でカップを洗っていた。その指先が、微かに震えているように見えた。


「大丈夫?」私が問いかけると、彼は少しだけ驚いたような顔で私を見た。


「え?」


「手、震えてない?」


 彼は自分の手を見下ろし、それから自嘲するように笑った。「ああ、寝不足かも」


 寝不足。最近、彼はこの言葉を口にすることが増えた。


「ちゃんと寝てる?」


「うん、まあ」彼は曖昧に答え、私の視線から逃れるように、そっと目を逸らした。


 その時、彼のスマートフォンのバイブレーションが、カウンターの静寂を破った。彼は急いで手を拭き、画面を覗き込む。その瞬間、彼の表情が、まるで仮面が剥がれ落ちるように変わった。


「兄さんから」彼は、まるで深い溜息のように呟いた。


「何て?」


「今日も、夜遅くなる」


 彼はそう言うと、スマートフォンをポケットに乱暴に押し込んだ。その動きには、諦めと苛立ちが混じり合っているように見えた。


「また?」


「うん。店が忙しいみたいだから」


「店」。そして、「兄さんの店」。彼の兄は、このカフェからほど近い駅前でスナックを経営している。彼はそこで、時折手伝いをしている。いや、「時折」などではない。最近は、ほとんど毎日だ。まるで、彼自身が、兄の店の延長線上に存在しているかのように。


「無理しないでね」私の口から出た言葉は、薄い空気の中に虚しく響き、すぐに消え去った。


 彼は何も答えない。ただ、再び無言でカップを洗い始める。私は彼の横顔を見つめた。目の下には、以前よりもさらに濃い隈が刻まれている。そして、その瞳の奥には、何かを諦め、深く沈み込んでいくような、そんな光が宿っているように思えた。


「最近、兄さんが忙しくてさ」彼は唐突に、独り言のように話し始めた。「店のことで、色々あるみたいで」


「店のこと」。また、その言葉。私は何も言わない。言えない。彼の言葉の奥に隠された、触れてはいけない真実を、本能的に感じ取っているからだ。


「だから、俺も手伝わないと」


 彼はそう言って、無理に口角を上げた。だが、その笑顔は不自然に強張り、まるで「笑わなければならないから笑っている」かのように見えた。私の胸の奥が、鉛のように重くなるのを感じた。



 夜、アパートに帰ると、部屋はひんやりと冷え切っていた。私は重い鞄を床に放り出し、そのままベッドに倒れ込む。身体の芯から疲労が滲み出し、鉛のように重い。だが、心はそれ以上に、深い闇の中に沈んでいるかのようだった。


 スマートフォンの画面を点灯させる。彼からのメッセージが、一件だけ届いていた。


『明日も遅くなりそう』


 たった、それだけ。私は、その無機質な文字列をただ見つめたまま、何も返信できない。一体、何を返せばいいのだろう。「頑張ってね」?「無理しないで」?どれもこれも、今の私には、嘘偽りにしか聞こえなかった。


 私が本当に言いたいのは、そんな陳腐な言葉ではない。もっと、根源的な、心の叫びのような言葉。「お兄さんのところに行かないで」「私のそばにいて」。だが、そんな身勝手な言葉を、彼に投げつけることなどできない。もし口にすれば、ただ彼を困らせ、苦しめるだけだと、私は知っていた。


 私はスマートフォンを強く握りしめ、目を閉じる。暗闇の中に、彼の顔が鮮明に浮かび上がった。疲労に歪んだ顔。不自然に強張った笑顔。そして、微かに震える手。彼の口から繰り返される言葉。「兄さんが」「店のことで」「忙しくて」。その言葉が、まるで呪文のように、私の頭の中で何度も、何度も反響する。


 目を開け、天井を見上げる。そこには何もない。ただ、白い空間が広がるばかり。私はもう一度、スマートフォンの画面を点灯させたが、結局、何も返信しないまま、スマートフォンを枕元に置いた。


 部屋は、静寂に包まれていた。だが、その静けさの底には、不穏な何かが潜んでいるような気がした。不安。それは、まるで小さな種のように、私の胸の奥底に静かに沈んでいた。そして、その種は、ゆっくりと、しかし確実に、根を張り始めていたのだ。


 私はその感覚を全身で感じながら、目を閉じる。しかし、眠りは訪れない。ただ、暗闇の中で、彼の顔を思い浮かべ、そして、彼の中に深く根を下ろしている「兄さん」という存在について、思考を巡らせていた。


 私はまだ、お兄さんに会ったことがない。だが、「兄さん」は確かに存在している。彼の言葉の中に。彼の疲れた顔の中に。彼の震える手の中に。兄さんは、彼を蝕んでいる。私はそれを、肌で感じ取っていた。そして、その確信が、不安の種を、静かに、しかし確実に、育てていった。

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