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 およそ一週間後、今日は午前七時から初出勤だった。まだ太陽が低いにもかかわらず、まるで昼を先取りしたかのような暑さに、すでに汗が滲んでいた。街を散歩する犬も、どこか早く帰りたげなダルい表情を浮かべていた。可哀想に。

 事務所にはもうすでに複数の社員の人がおり、準備を進めていた。扉を開けると、やはり冷房の人工的な冷気が溢れ出してきた。

「おはようございます。」

 声を張ったつもりだったが、まだ体に眠気が残っていたのか、思うような声は出なかった。

「おう、おはようさん。早速この制服に着替えてくれるかな。着替え終わったらそこに停めてあるトラックの前に集合してくれるか。着替えは、その奥の部屋、あの前面接やった部屋で着替えてくれたらええから。」

「分かりました。」

 私は制服を受け取り、薄暗い部屋へと向かった。体にまとわりつくシャツを脱ぎ、滴る汗をタオルで拭き取り、制服へと着替えた。一応あの絵のキーホルダーを誰かに取られてしまうと困るので、バッグから取り外しポケットへとしまった。それに、常に身につけておくことで、お守りのような存在になり、なんだか頑張れそうな気がした。目の前の全身鏡に映る自分を見ると、そこには完全な引越し業者が立っていた。ついさっきまでは夏休み中の女子高生だったのに、今では誰がどうみても引越し業者だった。服を着替えただけでここまで変わるものなのか。なんだか不思議だが少し誇らしく思った。

 集合場所は、真夏の熱気とトラックの排気ガスの熱と匂いによって体は重く、呼吸をするだけで疲れを感じられた。熱気と排気。絶対に集合場所に向いていないと思った。

「お嬢ちゃん、おはよう。」

「あっ、おはようございます。」

「そういえば、まだ名前、聞いてなかったな。」

「あっ、佐藤です。佐藤茜と言います。」

「ほう、茜ちゃんか。ほな、今日からよろしく頼むわな。」

「は、はい。こちらこそよろしくお願いします。」

 皆すごく優しく話しかけてくれる。ここは当たりの職場だ。そう確信した。その後、所長の山本さんが集合し、私を含めて五人の引越し業者が集まった。女子高生である私と四十代ほどの男性たち。全く別の人のはずなのに、なぜか今では同じ人のようだった。

「んっ!」

 山本さんが咳払いをした瞬間、さっきまでの和やかな空気が一変し、まるで糸が張り詰めたような緊張感が瞬時にして出来上がり、社員たちの顔からは突如として笑顔が消え去った。私はその無言の圧力に圧倒されそうになった。咳払い一つで人はここまで切り替えられるのかと感心した。

「えー、おはようございます。本日も暑くなることが予想されます。水分は各々でこまめに取り、自己管理を徹底するように。」

 暑さと匂いと緊張感で、もうすでに体調が悪くなりそうだった。その後、今日の業務内容を話しているようだったが、全くと言って良いほど頭に入ってこなかった。私は、この仕事に向いていないかもしれない。そう思わされた。

「それでは、今日も一日、ご安全に!」

「ご安全に!」

 私以外の全員が声を揃えた。その顔と声はさっきまで雑談をしていた人とはまるで別の生き物だった。そしてその場には私一人だけが取り残されていた。

「あ、ごめんね。これ言ってなかったね。まあ覚えといて。」

「あ、はい。すみません。」

 まあ、これは聞いていなかったので仕方ない。

 その後、他の社員たちは次々と二台のトラックへと乗り込んで行った。私は山本さんの運転する助手席へと乗り込んだ。現場までは三十分程とそこまで遠くはないが、二人きりの気まずい空間を生むにはあまりに充分すぎた。しばらくの間はエンジンの低い唸りとエアコンの風音が車内に響いていた。沈黙の中、その静けさがかえって騒がしさを作り出していた。その単調な音が私を眠気へと誘った。

 やがて、山本さんがハンドルを握りながら口を開いた。

「今日は単身のお客様だから、荷物はそこまで多くないけど、洗濯機とか冷蔵庫とか、まあ重いものもそこそこあるから。」

 その声に、薄れかけていた意識が一瞬にして覚めた。

「そ、そうなんですか。」

「まあでも、力仕事には自信ありそうだったし、期待してるよ。」

「は、はい。」

 まずいことになった。あの時は特に深く考えずに嘘をついてしまったが、こうも期待されてしまうと困る。私は力仕事は苦手だ。途端に心臓が圧迫され、身体中に冷や汗が滴るのがわかった。現場まで残りおよそ五分程。どうか今日の仕事が楽でありますように。私はその限られた時間、そんなことを祈ることしかできなかった。

 私の初仕事の現場は、よくあるマンションの二階の部屋だった。特別古いというわけではないが、それほどに年季の入った建物であり、ところどころに蜘蛛の巣が張り、鉄の階段は茶色く色を変えていた。絶望とまではいかないものの、結構嫌だった。私はこの自分のか弱い体で洗濯機やら冷蔵庫やらを運んでいる景色など、まるで想像できなかった。ふと自分の腕を見ると、細かった。部活をやっているとはとても思えないほど白くて頼りのない腕だった。私はトラックを降りたが、なんだかいまいち気分が晴れなかった。今着いたばかりなのに、もう帰りたいとまで思っていた。

 その後、全員が再び集合し細かい仕事の内容についての話があった。私は今からの仕事に対する憂鬱な気分と、そしてやはりこの肌を突き刺すような暑さで、またもや全くと言って良いほど頭に入ってこなかった。なにを考えていたかもわからず、頭の中の視界が霧のようにぼやっとしていた。

 その後、どうやら話が終わったようで、私を除く全員が一斉に動き出した。霧が一瞬にして晴れ、私は現実世界に戻ってきた。おそらく短い時間であったが、私は天を舞っていたような、そんな気がした。しかし、そんなことを思うのも束の間、私は一体何をしたら良いのかが分からなかった。話を聞いているふりをしていたので、私に対する指示があったのかどうかすら分からなかった。他の人たちは着々と作業に取り掛かっている。私だけがまだ仕事をせず、その一つ前の空間に取り残されていた。

 とりあえずトラックの荷台の方へ向かおうと思い、私たちが乗ってきたトラックの方へ目線を向けた。そこにはもうすでに一人黙々と作業に取り掛かる山本さんの姿があった。私は急いで自分が何をすべきか聞きに行こうと思ったが、一歩踏み出したところで足がピタッと止まった。もしかしたら、私が聞いていなかっただけで、さっきの全体の話の中で自分のやるべきことについて話されてたかもしれない。それなのに、自分が何をしたら良いかを再び聞きに行くなんて、とても恐ろしかった。ただでさえ非力であるのに、人の話まで聞いていないとなると、いよいよ人として最悪だった。そう思うと足がすくんでとても聞きに行くことができなかった。周りの人はテキパキと動き、荷台に積まれた荷物が次第に無くなっていった。私だけ時間が止まり、取り残されているようだった。

「佐藤さん!」

 背後から山本さんの声がした。体の下から痺れるような感覚が感じられた。恐る恐る振り向くと、そこには真顔で『こっちへ来い』と言わんばかりの手招きをしている山本さんの姿があった。。私は怒られる覚悟をした。覚悟をするしかなかった。私は小走りで山本さんの方へ向かった。鼓動はますます早くなり、手首から指先にかけて震えが止まらなかった。私は少し俯いて反省している顔を浮かべた。

「ごめんごめん、佐藤さんに指示するの忘れてたね。」

 その言葉に私は全身の力が抜けるようだった。九死に一生を得た。体が一気に覚めたような感覚だったが、それと同時に大量の汗が湧き出してきた。そして指先の震えは当分止まることはなさそうだった。

 やがて、全ての荷物の搬入が終了した。漫画やインテリアの小物から洗濯機や冷蔵庫などの大物まで。この炎天下の中、階段を数えきれないほど往復した。それも荷物を抱えながら。途中で仕事を投げ出したくなることもあった。無断で帰ろうかとも思った。しかし、そんな時、ポケットの中にあるキーホルダーにふと目をやった。するとなぜだか、もう少し頑張ろうという気持ちになれた。彼の為なら、苦しいことだってやってやろうと思えた。これを見るだけで、なんでも乗り越えられる気がしたのだ。終わった頃には私の腕はもはや鉛筆すら持てない程に力が入らず、先程までとはまた違った震えが、これまた指先まで起こっていた。

 事務所に戻り、今日の職務を終えた。

「佐藤さん、初日から大変だっただろうけどお疲れ様。」

「そうだぜ、こんなクソ暑い日に、大したもんだぜ。お疲れちゃん。」

「ありがとうございます。」

 終えてみると、想像しているよりも苦しくは無かった。もっと怒鳴られながら作業をするのかと勝手に想像していた。そして、最初はなんだか暑苦しく感じたこの人たちも、今ではなんだか暖かく感じられた。そしてやはり少し汗臭かった。

 私は夏休みの間、丸一日休みという日が、片手で数え切れる程しかなかった。バイト、部活、課題......私の体はちっとも休まらなかった。バイトだって初日のように、毎日が楽しい訳ではなかった。ミスもたくさんしてその分他の人たちの負担を増やしてしまうこともあった。バイトを終えた翌日から翌々日にかけては、いつもよりも重力を感じられた。文字すらもまともに書けない程だった。肌は以前よりも焦げたようで、服を脱いでもまるで白い服を着ているようだった。確実に人生で一番辛い夏休みだった。しかし、それも全て彼の為と思うと、なぜか自然と体が動き私の脳とはまた違う何かが体を動かしていた。

 そんな夏休みもいよいよ最終日となった。夏休みの終わりだというのに、まるでちっとも涼しくなかった。部屋のカレンダーには、ススキが揺れ兎が意気揚々と餅つきをしていた。しかし、実際は蝉の声が遠のいた程で、夏は堂々とその席に居座り続けていた。餅つきなんぞできたものではない。

 部屋の勉強机。今、私の目の前には五万円という金額が置かれていた。私が必死の苦労で稼いだお金だった。働いている時は何回もやめたくなった。こっそりと抜け出したいと思った。しかし、今その対価を目の前にするとあの時逃げ出さなくてよかったなとも思えた。私はそのお金を見てにやけが止まらなかった。きっと口元が歪み目尻が不気味に上がって、それはもう気味の悪かったように思う。時々親から、そのお金を何に使うのかを尋ねられることがあった。もちろん父親は無視し、母親には『趣味』とだけ答えていた。そして親もそれ以上は詮索してこなかった。

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